後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「タイ王国の風景と急速な経済成長」

2024年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北半を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマー(旧国名ビルマ)と国境を接っします。東南側はタイランド湾に面します。マレー半島中部では西にアンダマン海及びマラッカ海峡があり、それらを挟んでインドネシアやインド領アンダマン・ニコバル諸島に向かい合っています。
そのタイ王国の風景の写真を送ります。首都バンコックの写真と地方の風景写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。

さてタイと日本は国家指導者レベルで長い関係を築いており両国民間の関係も深いのです。
なお立憲革命の際、明治憲法をが参考にしました。
アユタヤ王国時代、山田長政はソンタム王の治世中にアユタヤを訪れ、ナコンシータマラートの知事に任命され、後にそこで死去したのです。
1900年、ラーマ5世はインド北部で発見され、シャムに譲渡された仏舎利の一部を分与する際、仏教国としてビルマ(ミャンマー)、セイロン(スリランカ)に加え、日本にも分与しました。
日本へ譲られた遺骨を納めるために創建されたのが覚王山日暹寺(現在の覚王山日泰寺)です。
大東亜戦争(第二次世界大戦)の時、タイ政府は大日本帝国と同盟関係でした。日本陸軍が首都 バンコックに入り役所を使用しました。タイ政府は日本軍にミャンマーとインドへの鉄道敷設を許可しました。
詳細は「太平洋戦争#枢軸国側」および「バンコク空襲#概要」をご参照下さい。
「枢軸国#枢軸国の一覧」もご参照下さい。
1942年には日泰文化協定が締結され、柳沢健を館長に日泰文化会館がバンコクに建設されることになったが日本の敗戦により完成しませんでした。
その後、この構想はタイ・ジャパニーズ・スタジアムなどを含むバンコクユースセンターとして実現したのです。

タイにおける在留邦人は81,187人(2020年10月)、タイへの日本人渡航者は約35万人(2020年)、泰日協会学校生徒数は2,350人、シラチャ日本人学校生徒数448人(2021年4月)に上り、世界有数の在留邦人社会を有しています。
一方、日本における在留タイ人は54,409人(2021年12月)、日本へのタイ人渡航者は年間約22万人(2020年)に上っています。
タイは親日国という評価が多数あり、アサンプション大学ABACポール研究所が実施した世論調査によると、タイ人が一番好きな国は日本です。
高度経済成長
経済の安定や外国企業の積極的な進出を背景にした1980年代以降の高度経済成長はすさまじく、1985年から1995年にかけての10年間、タイは年間平均9%の経済成長率を記録しました。
しかし、アジア通貨危機(1997年)によって経済は停滞し、経済規模は10.2%も悪化しました。
この危機は、タイの財閥の同族支配廃止や、外国資本の参入につながりました。
タイは外国への輸出を積極的に行ったことから1999年、経済成長率は再び4%台を記録、2003年には6%台を記録し、好景気に逆転します。80年代後半から90年代前半に見られたようなすさまじい経済成長からはやや落ち着いています。

タイ統計局によると2015年のタイのGDPは約3,952億ドルであり、東南アジアではインドネシアに次ぐ経済規模です。同年の1人あたりのGDPは5,742ドルであり、隣国のカンボジア、ラオス、ミャンマーよりはるかに高い上、先述のインドネシアよりも高い数値となっています。しかしながら南隣にあるマレーシアと比較すると半分ほどの数値です。

タイ王国の風景と急速な経済成長をご紹介いたしました。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD でした。

「日本、ミャンマー、タイ、ベトナムは同じ仏教国」

2024年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
お早う御座います。今日は宗教に関する簡単な文章を書くことにします。
日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。ご覧頂いたら嬉しく存じます。
面倒な議論は止して、大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いを書いてしまえば次の2つになります。

(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。
一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。

(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。
一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。

これは中々理解し難い教義です。
鎌倉の大仏を見たある有名な女流歌人が大きな盧舎那仏をお釈迦さまと誤解して、「お釈迦さまは美男子だ」と詠んで失笑を買ったこともありました。
盧舎那仏はお釈迦さまではなく、宇宙神だということを知らなかったのです。理解していなかったのです。
大乗仏教の仏像には観音様や薬師如来や弘法大師像やお不動さんなど沢山あります。
しかし上座部仏教では像は釈迦像だけです。ここが決定的違いです。

さて上記のことをもう少し厳密に示します。
上座部仏教では上記のように具足戒(出家者の戒律)を守る比丘・僧伽(サンガ(教団))と、彼らを支える在家信徒の努力によって初期の釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされています。
大乗仏教では後代の時代ごとに仏典やお経が作られましたが、上座部仏教では同一の内容のパーリ三蔵が継承されて来ています。

上座部仏教の教義は、次のようにされています。限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ 」である。この苦しみの原因は、無明によって生じる執着です。そして、無明を断ち輪廻から解脱するための最も効果的な方法は、戒律の厳守、瞑想の修行による八正道の実践であると教えています。
上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と悟りへ至る智慧の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきたと主張しています。

一方、大乗仏教では、ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えが重要なのです。
大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えたのです。
この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来・薬師如来などがあるのです。
また、歴史的存在であり、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至って来たのです。
このように大乗仏教は多神教的であり教義も時代と国々によって変化して来たのです。

このように日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教と比較してみると日本仏教の特徴が簡単に分ります。
如何でしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はタイの托鉢の風景とお寺の写真です。写真はインターンットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






「戒律が厳しくないイスラム教のインドネシアの宗教事情」

2024年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
イスラム教は戒律が厳しいと思っていました。しかし戒律の厳しくないイスラム教の国もあるのです。インドネシアです。日本とインドネシアの関係は大変良く、1800社以上の日本企業がインドネシアで事業を展開しています。近年、日本文化がブームとなっており、日本企業の投資や、日本語を学ぶ人が増えているのです。大相撲やアニメなど日本文化のイベントも開催されているくらいです。 今日は戒律が厳しくないイスラム教のインドネシアの宗教事情を写真に従ってご紹介したいと思います。 1番目の写真は首都ジャカルタです。ジャカルタはインドネシア経済の中枢であり、東南アジア屈指の大都会です。第二次世界大戦後の独立以降、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄航空機製造、銃器製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁を発足させているのです。 2番目の写真はインドネシアの女性が本来黒いベールを色彩豊かにしてお洒落をしているマネキンです。>3番目の写真はベールでいろいろなお洒落をする方法の見本です。街頭では黒いベール姿の女性はいません。こんな調子なので人口の90%のイスラム教徒でも、お酒を飲んだりタバコを吸ったりしてます。断食もしなかったりヒジャブ(イスラム教徒の女性がかぶるスカーフ)を被っていなかったりします。<4番目の写真はバリ島の農村風景です。このプングリプラン村は、バンリ県にあります。のどかな風景がそこにはあります。 5番目の写真はバリ島の棚田です。インドネシアの農業は水稲栽培です。インドシナは基本的に農業国です。1960年代に稲作の生産力増強に力が入れられ、植民地期からの品種改良事業も強化されてきました。6番目の写真はインドネシアの美しい山と農村の風景です。ここでも水稲栽培が盛んにおこなわれています。<7番目の写真はバリ島の近海の美しい風景です。 インドネシアは5,110kmと東西に非常に長く連なる、多数の島を抱える島国です。同国は赤道にまたがる1万7,504もの大小の島により構成され国です。人口は2億7,000万人を超え、世界第4位の人口です。

さてインドネシアの宗教事情を説明します。憲法29条で信教の自由を保障しています。ここで許される宗教は唯一神への信仰を原則としています。イスラム教が事実上の国教です。2010年の政府統計によると、イスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、ヒンドゥー教が1.6%、仏教が0.72%、儒教が0.05%、その他が0.5%となっています。

イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え世界最大のイスラム教徒(ムスリム)人口を抱える国です。そしてイスラム教はジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いのです。国全体でのイスラム教徒比率は高いのですが、非イスラム教徒の民族や地域も実際には多いのです。カリマンタン島やスラウェシ島ではちょうど、イスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほどです。イスラム教徒比率は一割程度の島々も多くあります。またイスラム教徒多数派地域であっても、都市部や、スンダ人、アチェ人地域のように比較的、厳格な信仰を持つものもあります。シャーマニズムを信仰している民族もいます。

以上のようにインドネシアはイスラム教国といっても中近東のイスラム教国とは非常に違うのです。魔術師呪術医と、精霊を含めた超自然的な力を信じる人や、「お化け」の存在を肯定するインドネシア人が多いのです。

今日は戒律が厳しくないイスラム教のインドネシアの宗教事情を写真まじえながらご紹介いたしました。

今日の記事は、インドネシア - Wikipedia を参考にしました。記して感謝の意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「インドネシアのバリ島の花と果物の写真」

2024年08月26日 | 写真

インドネシアのバリ島の花の写真をお送り致します。
バリ島を訪れると、色とりどりの花が咲き乱れていて南国らしさを感じるそうです。まさに南国です。その中でも多いのはプルメリアの花です。
そこでいろいろな色のプルメリアの写真をお送り致します。
写真の出典は、https://bali-no1.com/post-610/ です。 インドネシアの人々の日常生活の実態を知りたいと思い旅行記をいろいろ見ています。そうしたらインドネシアの西の大きなスマトラ島の縦断記を見つけました。 『【バタック文化】インドネシア横断旅:前編その四:スマトラ島少数民族との出会い』(https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344 )というブログです。この記事はインドネシアの人々の日常生活の実態を活き活きと伝えています。 このブログからスマトラ島のプラスタキという町の果物市場の写真をお送り致します。マンゴー・パパイヤ・オレンジ・マンゴスチン・アボカド等々豊富です。


「インドネシアのバリ島の世界遺産の写真」

2024年08月26日 | 写真
バリ島は美しい海岸やレゾート用のホテルがある有名な観光地です。その上、ヒンズー教関連の世界遺産がある文化的にも興味深い島です。その世界遺産の写真をお送りいたします。写真と文章の出典は、「バリ島の世界遺産5選」、https://www.travelwith.jp/area/asia/indonesia/bali/topics/post-11110/ です。

1番目の写真は世界遺産となっているバトゥカル山の水田とスバック灌漑施設です。灌漑施設のスバックとはバリ島に1000年以上前から伝わる灌漑法と言われる伝統的な水利システムなのです。その巧妙な作り方が珍しいので世界遺産と認定されました。

2番目の写真はバリ島のキンタマーニ高原にあるウルン・ダヌ・バトゥール寺院です。バトゥール湖の湖畔に建ち、湖の守護神である水の女神デウィ・ウルン・ダヌが祀られています。バリ州の文化的景観として世界遺産に登録されています。

3番目の写真はウルン・ダヌ・バトゥール寺院のい入口です。大きなチャンディ(霊廟の意味)を挟むように両サイドに建つ割れ門や9層のメル(多重層)の建物などバリ風情のある厳かな雰囲気が漂います。

4番目の写真はバリ島北東部のキンタマーニ高原にあるバトゥール湖です。バトゥール山の巨大カルデラの中にある火山湖です。上記のスバック灌漑施設の女神、デウィ・ダヌが住んでいます。ヒンズー教の信仰です。各地の水田の水源で、「バリ島の文化的景観」として世界遺産に認定されました。バリ島で一番大きな湖です。レストランやカフェも多く用意されています。

5番目の写真はタマンアユン寺院です。バリ島6大寺院のひとつと言われており、バリ島の中西部タバナン県メングイにある寺院です。「美しい庭」という意味の名前を持ち、メングイ王国の王国のお寺として17世紀頃に建立されたと言われています。広大な敷地の中にはメルと呼ばれる茅葺きの屋根が何重にも積み重なった塔が10基あり、その周りを水の水路が囲んでいます。境内ではバリの割れ門やヴィシュヌ神やガルーダなどの石像を至る所で見ることができ、手入れのされた庭園の風情のある景色が広がります。

インドネシアは現在イスラム教の国ですがバリ島はヒンズー教の地なのです。インドネシアの文化に魅了されます。

「インドネシアのスマトラ島のバタック族の写真」

2024年08月26日 | 写真
バタック族は、主にインドネシアのスマトラ島北部の高地に居住している民族です。大都市のメダンの西にあるトバ湖周辺を故郷としています。
バタック族は、その言語や習慣が少しずつ違ういくつかの異なるグループに分けられます。
そのスマトラ島高地のバタック族の写真をお送り致します。写真の出典は、「スマトラ島少数民族との出会い」、https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344 とその他、バタック族に関連した資料です。









バタック族の社会は、Margaとして知られる一族に組織されている家父長社会でです。トバ・バタック族は、1人の祖先「Si Raja Bata」を起源とし、すべてのMargaは彼の子孫であると伝統的に信じられています。バタックの父と息子の関係を示した血統図は、taromboと呼ばれ大切にされています。
現代のインドネシアの中で、バタック族は教育熱心で、多くは教師、技師、医師、法律家などになっています。
トバ・バタック族は、その織物、木彫り、装飾した墓石が伝統的に有名です。彼らの埋葬と結婚の儀式は伝統をよく守っています。埋葬の伝統では、先祖の遺骨を死の数年後に再び埋葬する儀式もあります。この2回目の埋葬は、トバ人の間では「mangongkal holl」と呼ばれているそうです。
最後にバタック族の宗教について書きます。
世界最大規模のイスラム教徒人口を抱えるインドネシアですが、スマトラ島の北スマトラ州の山岳地帯にあるトバ湖の周辺に住むバタック族はキリスト教徒なのです。
バタック族の人口500万人のうち約350万人がキリスト教徒(プロテスタント)というユニークな部族なのです。 バタック族に対するキリスト教の布教ははじめは順調でありませんでした。しかしドイツのプロテスタント宣教師ノメンセンの努力により、19世紀半ば頃からキリスト教が定着したのです。今も島のあちらこちらで、土着の文化とキリスト教文化が融合した独自の様式の教会を見ることができます。(http://www.asiawave.co.jp/asianview14.htm )
以上簡単にバタック族のことをご紹介致しました。

「インドネシアの美しい風景と驚異的な経済成長」

2024年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
インドネシアは美しい南洋の邦です。風景写真を見ると夢幻のようです。そこで今日はまずインドネシアの風景写真をお送り致します。写真の出典は、『写真素材 - インドネシアの美しい風景、湖の景色、山、丘、滝、村の家』です。

1番目の写真は地方の湖の岸辺にある原住の民族の村の風景です。

2番目の写真は原住の民族の伝統的な家です。湖で漁をする時に使ういろいろな道具をしまっておく小屋が岸辺に建っています。

3番目の写真は夢のように美しい湖の風景です。小舟が人々の生活を暗示しています。

4番目の写真は大都会の美しい夜の風景です。インドネシアの地方には魅了されるような風景がありますが大都会の風景も美しいのです。
さて今日はこのインドネシアの経済成長をご紹介したいと思います。ジャカルタに本部のあるアセアンに関連してご説明いたします。
インドネシアの経済成長はめざましく、2020年度のGDPは世界の192ヶ国)中の16位にななっています。
1位アメリカ、2位中国、3位日本、4位ドイツ、5位イギリスでアジア諸国は以下のようになっています。

6位 インド、10位韓国、16位インドネシア、21位 台湾、26位タイ、32位フィリイン、38位ベトナム、39位シンガポール、40位マレーシア、41位バングラデシュとなっています。
以上のようにイ ンドネシアは南アジアでは1番の経済規模であるばか りでなく 経済成長率も最も高い国の一つとなっています。
この経済成長はアセアンと深い関係があるので以下ではアセアンについて簡単に説明致します。

アセアンは正式には「東南アジア諸国連合」と言います。英語では、 Association of South‐East Asian Nationsと言います。略してASEAN 〈日本語読み:アセアン〉と言います。
このアセアンは、東南アジアの10カ国からなる地域の政府間組織です。政府間協力を促進し、加盟国とアジアの他の国々の間で経済の統合を促進している。ヨーロッパのEU(ヨーロッパ連合)と同じようなものです。
加盟国は10ケ国で以下の通りです。
ブルネイ
カンボジア
インドネシア
ラオス
マレーシア
ミャンマー
フィリピン
シンガポール
タイ
ベトナム

5番目の写真はアセアン加盟国の地図です。地図は色分けされていますが、その意味は、青: ASEAN、紫: ASEAN+3、青緑: ASEAN +6です。
ここでASEAN+3には日本が含まれているので説明します。
ASEAN+3は、ASEAN10ケ国に中国、韓国、日本を加えた組織です。東アジア13ケ国の経済交流を調整役として機能しています。
ASEANは2015年末までに単一市場を確立するアセアン経済共同体(AEC)を創設することによる経済統合を模索して来ました。
1992年1月28日に設立されたASEAN自由貿易圏(AFTA)には、加盟国間の自由な商品の流れを促進するための共通効果特恵関税(CEPT)が含まれていたのです。
次のステップは、単一の市場の実現と競争力のある経済地域をアジアに作ることです。
このアセアンの本部はジャカルタにあるのでインドネシアはアセアンの牽引役をしながらアセアンを賢く利用しながら自国の経済成長をしてきたのです。現在インドネシアのGDPはアセアン加盟10ケ国の中でトップになっています。
ちなみにアセアン10ケ国に中国、日本、韓国を加えた ASEAN+3のGDPの総計は世界一になります。正しく昔の大東亜共栄圏になるのです。大東亜共栄圏を持ち出すのは私の時代錯誤ですが、感無量です。

今日はインドネシアの美しい風景と驚異的な経済成長をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「まともな人々も沢山住んでいる尊敬すべき韓国」

2024年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の一部には韓国人を蔑んでいる人がいます。他の人を蔑むことで自分の人格を傷つけていることに気が付いていないのです。
しかし韓国にはまともな人々や立派な人々も沢山住んでいるのです。
今日はこの当たり前のことを説明したいと思います。
言葉でクドクド説明しないで写真で説明します。
1番目の写真は2011年の東日本大震災の直後の韓国の街頭募金の写真です。
注意深くこの写真を見ると募金を受け付けている左の3人は黒い喪服を着ているのです。
2万人以上の死者の出た大震災ですから死者の冥福を祈って喪服を着ているのでしょう。
私は韓国人の礼儀正しさに感銘を受けました。
2番目の写真も大震災の直後の韓国の街頭募金の写真です。日本へ贈る救援物資の袋を受け取っている光景です。全員は黒い喪服を着ています。
以上2枚の写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。
この2枚の写真を見て私は韓国にはまともな人々も沢山住んでいると確信しました。
そこで彼等の日常の生活を調べました。
3番目の写真は韓国のスーパーマーケットの風景です。
写真の出典は、http://www.tsu-itc.org/test001/kokusai/A12_4.htm です。
写真を注意深く見ると買った品物を入れて運ぶカートはアメリカのスーパーと同じものです。日本の物より大きいのです。
しかし買い物カゴは日本と同じです。案外カートも買い物カゴも韓国で作ってアメリカや日本へ輸出しているのかも知れません。
日常生活では日本と同じようで面白くありません。
そこで韓国の伝統行事の秋夕と墓参りを調べてみました。
4番目の写真葉は9月の秋夕の折りに勢ぞろいした家族の写真です。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/dkntmoris19219/54490153.html です。
秋夕は日本のお盆に似ていますが韓国では一年で一番重要な祝日です。旧暦の8月15日なので新暦では9月下旬に当たります。正確な日は年のよって変化します。
この秋夕では一家揃って先祖の墓参りや供養をします。そして親戚を訪問したりします。多忙な楽しい祝日を過ごします。
若者達は久しぶりに会った親戚から小遣いを貰って街に繰り出してショッピングを楽しんだり映画を見たりと楽しみます。「秋夕」は楽しい思い出になるのです。
韓国人にとって、ソルラル(旧正月)と並ぶ代表的な祝日です。
親戚一同が故郷に集まっての先祖の墓参りや秋の収穫に感謝したりする韓国人の一大祝日なのです。
「秋夕」の歴史は、古く新羅時代(紀元356年~935年)に始まったといわれており、この風習が継承されるようになったと言われます。
5番目の写真は一族揃っての墓参りも光景です。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/talentgiver2/4498029.html です。
日本でもお盆になるとお墓参りに行きますが、韓国でも茶礼を終えて朝ご飯を食べた後に一族全員でお墓参りに行きます。
最近では家族全員でお墓参りに行く家庭が少なくなっていますが地方に行くとまだこういった伝統的な風習が残っています。
韓国では儒教の考えで遺体を壊すことを嫌い土葬が一般的に行われてきました。そのためお墓は山の斜面で盛り土になっています。しかし、今では80%以上の人が火葬を選んでいます。
土まんじゅう型のお墓の前で、清酒やお供え物をささげ、その場でひざまずいてお辞儀をします。この土下座は敬意をこめた最上級の礼なのです。
日本でも失敗をして消費者に被害を与えた会社の社長が記者会見で時々土下座しますがスタンドプレイのようです。韓国の土下座は純粋に祖先を敬い感謝しているのです。
まともな人々も沢山住んでいる韓国についてもっと書きたいことがありますが、今日はこれで終わりにします。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「恩を絶対に忘れなかったある韓国人、金鉄佑さんのことなど」

2024年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は恩を絶対に忘れなかったある韓国人の思い出を書いてみたいと思います。それは韓国の浦項製鉄所の技術研究所の所長をしていた金鉄佑さんのことです。
金鉄佑さんは2013年の暮れに亡くなりましたが忘れ得ぬ人です。
浦項総合製鉄は現在、英語名の「Pohang Iron and Steel Company Limited」を略してPOSCO、ポスコと呼ばれている大会社です。
さて話の発端は1962年から1966年の昔のことです。当時、六本木に東京大学工学部付属研究所の「生産技術研究所」がありました。そこは現在、国立美術館になっております。
その生産技術研究所の製鉄部門の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。私も東大の工学部で製鉄技術を専門にしていたので雀部教授の研究室によく遊びに行っていました。
当時、金鉄佑さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたので、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人情の豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしました。常日頃、弱きを助ける雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。
署名はしましたが長く釈放されなかったのです。そのうち私も東大を離れたので、その後の金鉄佑さんとは一度も会ったことがありませんでした。そして20年近い月日が流れました。
1984年に、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。
そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大邱やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。
私は始めて韓国を訪問したのでしたが人々の親切さに感銘を受けたものです。
金鉄佑さんとは雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。金鉄佑さんは雀部教授が亡くなってしまったので恩返しが出来なくなったと言うのです。
雀部教授は私の工学博士の論文の審査委員の一人でした。そんなこともあり金鉄佑さんは私を雀部教授の弟子だと思っていたのです。そこで雀部教授の代わりに私ども夫婦を韓国に招待したと言ったのです。私どもを招待したのは今は亡き雀部教授への恩返しをしたかったからです。
韓国は儒教の国で、人々は恩義を絶対に忘れないのです。恩返しをしようとした人が亡くなってしまったら、その恩人のゆかりの人々へ恩返しをするのです。何故か私は深く感動しました。それ以来、私は韓国人に親しみを感じるようになりました。
さて案内してくれた慶州のお寺や古墳群は日本と非常に似ています。その文化が日本へ渡来したのです。懐かしい故郷に帰ったような錯覚を覚えました。
大邱ではカトリック教会のミサにでて韓国の信者と一緒に祈りました。浦項製鉄所で泊まったゲストハウスには朴正煕大統領も泊まったそうです。朴正煕大統領は佐藤栄作総理と日韓基本条約を作り日韓両国の国交を正常化し、日韓友好を推進したのです。
ソウルでの韓国金属学会の総会は大規模なものでした。招待講演をしたことも思い出になりましたが、それ以上にそこで見た光景に感銘を受けたのです。
お昼の休み時間です。外の広い芝生の上に幾組ものグループが輪になって弁当を食べているのです。そして話合いの雰囲気に旧懐の情に溢れているのです。案内してくれた韓さんに聞くとそれぞれのグループは幾つかの大学の金属工学科を出た同窓生だそうです。
金属学会の総会で久し振りに会った旧友たちが集まって弁当を食べながら昔の思い出を語り合っているのです。何時もは違う会社で働いていてなかなか会えないのです。
この光景を見て、私は何故か非常にほのぼのとした気分になりました。韓国で見た忘れ得ぬ光景の一つになったのです。
今日は恩を絶対に忘れなかったある韓国人、金鉄佑さんの思い出を書きました。
今日の挿し絵代わりの写真は浦項総合製鉄、現在のポスコの風景です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
追記します。
韓国最大の鉄鋼メーカー、ポスコの累計粗鋼生産量が2019年に初めて10億㌧を突破しました。創業から46年で実現した快挙です。製鉄所で作り出される粗鋼は、圧延や鍛造などの加工を施す前の鋼です。最終的には自動車や船舶をはじめ、電気製品などの耐久消費財や建築材料となるのです。「鉄は産業のコメ」といわれ、10億㌧の粗鋼生産は韓国の産業発展を下支えし製造業を世界的な水準に引き上げたのです。
1番目の写真はポスコ 製鉄所の夜景です。出典は、https://tanken.com/posco.html です。
2番目の写真は溶鉱炉の遠景です。出典は、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61784090R20C20A7FFJ000 です。
3番目の写真は溶鉱炉の羽口の写真です。
出典は、https://mottokorea.com/mottoKoreaW/Business_list.do?bbsBasketType=R&seq=93283 です。
4番目の写真は転炉の写真です。出典は、http://m.jp.ajunews.com/view/20200224103152505 です。
5番目の写真は圧延工場です。出典は、http://www.toyo-keizai.co.jp/news/economy/2019/10_90.php です。

「韓国にある世界遺産の仏国寺や海印寺などの写真」

2024年08月25日 | 写真
日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産のお寺があります。
今日は韓国の世界遺産の仏国寺や海印寺などのを写真でご紹介いたします。
写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683 です。

1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟 」です。お寺です。牌を祀ってあります。
朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。
正殿19室に49位、永寧殿16室に34位、功臣堂に臣下の位牌83位、合計166位が安置されています。


2番目の写真は世界遺産の「仏国寺 」です。
仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。
この仏国寺 は1982年に家内と訪問したことがあります。

3番目の写真は韓国の世界遺産の「慶州歴史地域 」です。
慶州市周辺の史跡や古墳の総称で、塔や仏像などが山全体に散在している南山(ナムサン)地区、新羅の王宮が置かれていた月城(ウォルソン)地区などの地域があります。
慶州市の南山地区は1982年に家内と訪問したことがあります。

4番目の写真は韓国の世界遺産の「海印寺 」です。
1200年以上の歴史があり、韓国最大規模の宗派である曹渓宗の寺院です。
海印寺も1982年に家内と訪問したことがあります。瓦屋根の稜線が優美に反っているのが印象的でした。

5番目の写真は韓国の世界遺産の「朝鮮王陵の王墓群」です。
朝鮮王朝の歴代の王が眠っている墓です。40基がソウル近隣に点在しており、遺跡では現在も祭礼が行われています。

ついでに韓国の世界遺産の一覧を以下に示します。

世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年登録)
海印寺大蔵経板殿- (1995年)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年) 
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)

世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)

以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。
2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)

そして同じく世界文化遺産の昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用されました。
1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)

以上、韓国の世界遺産のお寺についてご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国にある16の世界遺産」

2024年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国の世界遺産は16件です。そのうち文化遺産は14件、自然遺産は2件です。
その一覧を示します。
石窟庵と仏国寺文化遺産1995年
八萬大蔵経の納められた伽倻山海印寺文化遺産1995年
宗廟文化遺産1995年
昌徳宮文化遺産1997年
華城文化遺産1997年
慶州歴史地域文化遺産2000年
高敞、和順、江華の支石墓群跡文化遺産2000年
済州火山島と溶岩洞窟群自然遺産2007年
朝鮮王朝の王墓群文化遺産2009年
韓国の歴史的集落群:河回と良洞文化遺産2010年
南漢山城文化遺産2014年
百済歴史地域文化遺産2015年
山寺[サンサ]、韓国の仏教山岳僧院文化遺産2018年
ソウォン[書院]、韓国新儒学学院文化遺産2019年
韓国の干潟自然遺産2021年
伽耶古墳群文化遺産2023年
写真に山寺[サンサ]、韓国の仏教山岳僧院を示します。

「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

2024年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
2024年08月25日 、 年間第21主日

今日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。
ミサの動画配信は下記です。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/#:

添付の写真は今日の松原教会のミサの風景です。

ミサはカトリック教会においてパンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる祭儀です。 司祭が司式し、信者全体が捧げるものです。カトリック教会で最も重要な典礼儀式です。
〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5
TEL.03-3321-0941   FAX.03-3321-0009

「写真で見る古都、西安と玄奘三蔵法師」

2024年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
古い都の西安は阿倍仲麻呂が訪問しました。日本人にとっては懐かしい町です。私も行ったことのある懐かしい所です。その西安は古くは中国古代の諸王朝の都となり、長安とも言ったのです。現在は国家歴史文化名城に指定されています。
昔から政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十三の王朝の都として二千数百年の歴史があります。
今日は古都、西安の風景と玄奘三蔵法師にまつわる風景を写真でご紹介いたします。写真は「西安の風景」と「玄奘三蔵法師」を検索して、出て来た数多くの写真から鮮明なものを選びました。
まず3枚の写真で西安の風景を示します。私は1982年に訪れました。
1番目の写真は現在の西安に残っている古い城門です。
2番目の写真も西安に残っている古い城門の正面です。昔は城壁が西安をぐるりと囲んでいましたが車の交通の邪魔になるので、少しずつ撤去して現在はこの城門だけが残っています。
3番目の写真は西安の旧市街の様子です。
さて次に4枚の写真で玄奘三蔵法師にまつわる風景を示します。
4番目の写真は西安の大慈恩寺の境内にある大雅塔です。ここに玄奘三蔵法師のインドから持ち帰った経典が保管されていました。
私は1982年に許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雅塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。
5番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から密教の教義を学びました。写真の出典は、https://bluebird-story.com/qinglongsi/ です。
玄奘三蔵法師は唐時代にはるばるインドへ旅をして仏教の教えを持って帰って来たのです。
現在、中國、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。

インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「 写真で見る清朝発祥の瀋陽の故宮」

2024年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
瀋陽は清朝発祥の地であり中国の歴史の重要な街です。また私も個人的に訪問したので色々な思い出のある所です。
今日は瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介します。そして私の思い出も紹介します。
瀋陽市は人口820万人で中国の東北地方(旧満州)の真ん中より少し南に ある大都会です。そして瀋陽の故宮は清朝の発祥したところです。故宮が北京へ移転した後は離宮として使われていました。
1625年、清朝につながる初代のヌルハチが後金をつくり、ここ瀋陽に遷都して「盛京」と呼びました。1636年、清朝2代目のホンタイジ(皇太極)は国号を「清」とし、清朝を創立しました。そして1644年、北京に遷都し ました。
ヌルハチとホンタイジの二人が居住したのが、瀋陽の故宮です。瀋陽は清朝の発祥の地なのです。それでは写真をお送り致します。写真は全てインターネットからお借りしました。
1番目の写真は瀋陽の故宮の入り口の楼門です。
17世紀、中国北方の遊牧民族である満州族は、清朝の前身となる後金王朝を建国し、その勢力を拡大しました。初代・ヌルハチは瀋陽を都としこの楼門を作ったのです。
2番目の写真は瀋陽故宮の主殿の大政殿です。
瀋陽故宮の広さは北京故宮の12分の1ですが部屋数はおよそ300で建築物の数は約70もあります。
敷地内は東路、中路、西路の3つに分けられます。東路は最も古く、ヌルハチの時代から使われていました。大政殿自体は、遊牧民族が使用した移動式テント(ゲル)を模しています。ヌルハチが政務を執っていました。
清朝の乾隆帝は瀋陽故宮の増築を行いました。建築様式は漢民族の様式に増築したのです。遊牧民族と漢民族の文化が混合しているのが瀋陽故宮の特徴です。
3番目の写真は現在の瀋陽の駅です。駅の建物は私と家内が訪問した1980年代と変わっていません。
4番目の写真は現在の瀋陽です。車が溢れ高層ビルが林立しています。私共が訪問した1980年代には古い満州の街の奉天(瀋陽の昔の名前)そのままの貧し気な都会でした。隔世の感です。
5番目の写真は大和ホテルです。昔の大和ホテルが美しく改装されています。

6番目の写真は瀋陽にある東北大学です。私が訪問した当時は東北工学院という名前でした。学長の陸先生は日本の旅順工業大学の卒業生でした。当時日本から赴任した教授たちに大切にされたそうで日本人を懐かしがり、私どもを大歓迎してくれました。
この東北工学院から金応培先生と大学院生の張力偉君が私が働いていた東京工業大学へ長期の留学をしてくれました。瀋陽では金応培先生と張力偉君の自宅にも招待され楽しい思い出がいろいろあります。
 
今日は中國の瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介しました。そして私の個人的な思い出も紹介しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)