後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「世界遺産、安徽省黄山市の 西遞と宏村の写真」

2024年08月23日 | 写真
中国の世界遺産、宏村の風景写真を4枚お送り致します。
写真の出典は、http://www.cnta-osaka.jp/heritage/ancient-villages-in-southern-anhui-xidi-and-hongcun です。
 安徽省黄山市にある宏村と西遞という2つの伝統的な古村落はあわせて世界遺産になっています。中国の昔のままの農村を残しています。
「宏村」は県城から北東10km にあり、南宋の紹興元年(1131 年)に建造され始められました。古くから汪氏一族が暮らしていた土地で、明・清時代の旧建築物137 棟が現存しています。
「西遞」は県城から8kmのところにあり900年以上の歴史がある村落です。古くは胡氏一族が暮らしていた土地で、明清の旧民家124棟、祠3棟があります。「中国明清民家博物館」とも呼ばれています。
=====参考資料=======================
 中国の世界遺産の一覧、https://whc.unesco.org/ja/list/?iso=cn&search=&
合計56 遺産。
  • 万里の長城 (1987)
  • 莫高窟 (1987)
  • 秦の始皇陵 (1987)
  • 泰山 (1987)
  • 北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群 (1987, 2004)
  • 周口店の北京原人遺跡 (1987)
  • 黄山 (1990)
  • 黄龍の景観と歴史地域 (1992)
  • 武陵源の自然景観と歴史地域 (1992)
  • 九寨溝の渓谷の景観と歴史地域 (1992)
  • ラサのポタラ宮歴史地区  (1994, 2000, 2001)
  • 曲阜の孔廟、孔林、孔府 (1994)
  • 武当山の古代建築物群 (1994)
  • 承徳の避暑山荘と外八廟 (1994)
  • 廬山国立公園 (1996)
  • 峨眉山と楽山大仏 (1996)
  • 麗江旧市街 (1997)
  • 蘇州古典園林 (1997, 2000)
  • 古都平遥 (1997)
  • 頤和園、北京の皇帝の庭園 (1998)
  • 天壇:北京の皇帝の廟壇 (1998)
  • 武夷山 (1999)
  • 大足石刻 (1999)
  • 青城山と都江堰水利(灌漑)施設 (2000)
  • 龍門石窟 (2000)
  • 明・清朝の皇帝陵墓群 (2000, 2003, 2004)
  • 安徽南部の古村落-西逓・宏村 (2000)
  • 雲崗石窟 (2001)
  • 雲南三江併流の保護地域群 (2003)
  • 古代高句麗王国の首都と古墳群 (2004)
  • マカオ歴史地区 (2005)
  • 四川ジャイアントパンダ保護区群 (2006)
  • 殷墟 (2006)
  • 中国南部カルスト (2007, 2014)
  • 開平の望楼群と村落 (2007)
  • 福建の土楼 (2008)
  • 三清山国立公園 (2008)
  • 五台山 (2009)
  • 河南登封の文化財“天地之中” (2010)
  • 中国丹霞 (2010)
  • 杭州西湖の文化的景観 (2011)
  • 上都(ザナドゥ)の遺跡 (2012)
  • 澄江の化石産地 (2012)
  • 新疆天山 (2013)
  • 紅河ハニ棚田群の文化的景観 (2013)
  • シルクロード:長安-天山回廊の交易路網 (2014)
  • 中国大運河 (2014)
  • 土司の遺跡群 (2015)
  • 左江花山のロック・アートの文化的景観 (2016)
  • 湖北省の神農架 (2016)・・・・・以下省略。

「中国の北海公園と仿膳飯荘」

2024年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。
中国人は権力者に表向きは従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。
周栄章さんと2人だけで北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。
1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。
学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。
「中国は良い国です。けれど共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。」
このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。
これを聞いて学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。
2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで2年後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。
3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。
4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。お互いに英語で話し合いました。
北京鴨は自分で皮を切り取って、薄い白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
周栄章さんは私を中国の観光地に案内してくれました。北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどへ案内してくれたのです。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を1枚だけ示します。写真はインターネットからお借りしました。5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖とその土で出来た山です。 頤和園は私の好きな離宮なので写真を示しました。写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
その周栄章さんを私も日本に招びました。自宅に泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって20年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「軍事大国、共産主義の中国の実像とは?」

2024年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
2011年8月30日に、私は次のような記事を掲載しました。
「強大になった中国、その共産党独裁の社会の実態」
現在の中国はアメリカに次ぐ世界の大国です。軍事力も強大な国です。
しかし私が初めて北京を訪れた1981年の頃は世界の最貧国に一つでした。市民は汚れた人民服を着て食料も十分でなく街路には飢えた人々があふれていました。その中国が経済急成長をして、アメリカにつぐ世界で2番目の豊かな国になったのです。これは世界の奇跡です。私はまだ信じられません。・・・以下は省略します。
この記事では経済成長をとげた中国を賞賛するようなニュアンスがありました。
そうしたFace Bookで中村 裕一さんとフランス在住のMotoko Boutdumondeからバランスの良い適切なコメントを頂きました。
大変客観的に中国の実像を描いているので今日はこのお二人のコメントをご紹介致します。
(1)中村 裕一さんからのコメント
今朝の日経朝刊5面に「習氏の『共産主義革命2.0』」という記事が掲載されています。習氏は「資本主義的経済の成熟と矛盾の露呈」を乗り越えて、改めて人類社会の再挑戦となる「共産主義革命」を目指しているとする言説は大変興味深いです。ソ連が失敗した社会主義から共産主義への体制移行に改めて挑戦しているようです。マルクスの資本論の見立てに対する再挑戦です。
私見では、経済成長率やAI、量子などの科学技術の特定分野では既に米国を凌駕しており、DX社会化(進化したデジタル技術を普及した社会 )では日本よりはるか先を行っています。現時点では中国国民の貧富の差が拡大していることよりは、国民全体の生活水準が上がっている点に注視すべきでしょう。中国内部体制崩壊論は天安門事件以前から喧伝されていますが…。
しかし中国関係のニュース報道では、日本のマスコミ報道機関、SNS上のサイトは親中派と反中派に立場が分かれており、バイアスのかかった情報が多いです。コロナウイルス発生源に関する報道などで明らかです。
我々情報の受け手は様々な情報を比較検証・吟味することが必要かと思われます。情報源の明記ない二次情報は、私は信用しないことにしています。

(2)フランス在住のMotoko Boutdumonde さんからのコメント
民衆が反政府運動を始めるといろいろと上から圧力がかかるようです。反政府運動だけでなく、例えば何か問題を訴えようとしてそれを公けにするような運動も含めてです。数年前までは例えば子供を誘拐された親たちが集まって小児の誘拐問題を訴えた小さなデモなども公安に邪魔をされたり、親たちが警察に連れて行かれて留置されることがかなりありました。これはこちらのテレビのルポルタージュなどで何度も指摘されたことです。最近では武漢でコロナの危険性を問題視した医師が逮捕されたこともありますね(その医師は結局コロナでなくなりましたが)https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiT-qjGt9byAhWB4YUKHW7rC3kQFnoECAUQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.latimes.com%2Fworld-nation%2Fstory%2F2020-02-06%2Fcoronavirus-china-xi-li-wenliang&usg=AOvVaw1aoTc8w8rshIknMkv8hi3K
これが反政府運動となるともっともっと厳しく弾圧されると思います。今は香港がその良い例です。他にももっと色々な例があります。
ですから反政府運動は起きているのでしょうが、まだまだ共産党独裁の国だと思います。残念ながら…
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私は親中国派なので中国に対する見方が甘くなります。上記の中村 裕一さんとMotoko さんからのコメントは私の親中国派的な記事を補正しています。
このようなコメントを頂けるのがインターネットの有難いところです。

5枚の写真をお送りいたします。はじめの2枚は豊かさの溢れる上海の風景で、続く3枚は内陸部の貧しい農村風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は上海の浦東地区の高層ビル群の風景です。
2番目の写真は自動車が渋滞している上海の街路です。このように中国の都会は自家用車が普及しています。人々は高層ビルの豪華なマンションに住んでいます。
3番目の写真は内陸部の貧しい農家です。私もこんな農家に入ったことがあります。正面の入り口を入ると右半分は土間で物置になっています。そして一隅に竈があり大きな中華鍋が載っています。主食からおかずまで全ての料理は大きな中華鍋で作ります。左半分は一段高い板張りになっています。そこは食事をしたり寝る場所です。一段高い板張りの下は土です。その土に煙道が縦横にあり炊事用の竈からの熱い煙で床板を温めています。いわゆるオンドルです。こうして寒い冬の夜を過ごすのです。
 
4番目の写真は農作物を貯蔵する土で作った土蔵です。運搬にはリアカーを使います。
5番目の写真は自転車の三輪車の子供を乗せている風景です。写真の奥に昔日本にもあった荷物運搬用のオート三輪車が写っています。
このような農村を歩いていると貧しさを忘れ、のんびりして良い気分になります。人々の表情もおだやかです。中国に共産革命があったことなど知らないような雰囲気です。内陸部の農村は経済成長とは関係が無いのでしょうか?これは中国の実像なのです。

「ベルサイユ宮殿の近くの国際会議から中国との交流が始まった」

2024年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
最近はアメリカやヨーロッパの思い出を書いてきました。私とアメリカ人やドイツ人との交友を詳しく書きました。それに続いて今日からは中国人との交流を書きたいと思います。
中国人との交流はベルサイユ宮殿の近くでの国際会議から始まりました。1979年のことです。その国際会議で初めて数人の中国人に会ったのです。その会議は鉄鋼製錬の物理化学に関するものでした。フランスをはじめ各国の学者が集まりました。その会議に中国人の学者が現れたのです。
1976年に毛沢東が死ぬまでは外交官以外の中国人は外国へ出ることが出来なかったのです。中国人が外国へ行ける時代が来たのです。これには皆が驚きました。
主催者のフランス人が出席者全員をベルサイユ宮殿に招待してくれました。それは夜の特別な招待です。宮殿のあちこちにロウソクの光が揺れ幻想的な雰囲気です。特に鏡の間は全てロウソクだけのシャンデリアで照明されています。
1番目の写真はベルサイユ宮殿の鏡の間です。1979年に訪れてこの鏡の間だけでなく外の広大な庭園にも感銘を受けました。
この鏡の間の中で北京から来た周栄章さんが私に、「このベルサイユ宮殿よりもっと素晴らしい紫禁城を案内するから中国に来ませんか?」と誘ってくれたのです。
そして会議の合間に瀋陽の大学の覊春林(きしゅんりん)先生も瀋陽への訪問も誘ってくれたのです。
この誘いのことを会議の幹事だったリブーというフランス人に相談しました。彼は是非行ってこいと言います。そして今回来ている中国人はみんな共産党員だと教えてくれました。
この二人の誘いで1981年に北京と瀋陽の大学で講義をすることになりました。
当時は中国人で外国旅行が出来る特権は共産党員にしか持っていなかったのです。それが当時の中国社会の実態だったのです。
この続編に、いろいろと中国社会の実像の様子を書いていきたいと思いますが、今日は一つだけ書きます。
それは「中国社会のいろいろな分野で成功するためには共産党員でなければ難しい」という実態です。
上の国際会議もその一例です。共産党員でなければ出席できなかったのです。夜のベルサイユ宮殿も見物出来なかったのです。
また上の一例が示すように中国では学者も芸術家も会社の経営者もみんな共産党員なのです。それは各分野の有力者です。総人口の数%しかいない特権階級なのです。
日本では共産党員といえば政治活動をしている人だけです。代々木の共産党に所属している人はみんな政治活動をしています。しかしそれは日本の総人口に比べると非常に少ない人数です。
中国の社会はどんな分野でも共産党員が有力者になっているのです。
これが中国の共産党独裁制を支えている強い基盤になっているのです。
私個人は共産党は嫌いです。しかし中国が好きです。
私は親しい中国人の友人を2人持っていました。1981年に中国に行って以来、何度も中国へ行き非常に親しくなりました。2人とも中国共産党の党員でした。
周栄章と金応培という方で、北京と瀋陽にある大学の教授でした。親しくなってから中国の社会の実際の様子をいろいろ聞きました。
その社会は我々の想像を絶するものでした。
これから中國社会の実態を書いていきたいと思います。

今日はベルサイユ宮殿の近くの国際会議から中国との交流が始まったいきさつを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真」

2024年08月22日 | 写真
淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真をお送り致します。
フィンランド共和国は北ヨーロッパにある国です。首都はヘルシンキでバルト海東岸にあります。
国境は、北はノルウェー、西はスウェーデン、東はロシアと接します。南はフィンランド湾を挟みエストニアです。
ロシア帝国がロシア革命で崩壊したことで1917年に独立を果たしました。
ソ連に併合されたバルト三国と異なり独立を維持した北国です。

ヘルシンキ工科大学ではハイキンハイモ先生を訪問しました。寂しい北国への独り旅でした。
ハイキンハイモ先生は冷えた私を温かく迎えてくれました。先生は私を自宅での夕食にも招待してくれました。
若い奥さんは東洋人を見るのが初めてらしく私の風貌や姿をシゲシゲと見ました。
失礼な態度とも思いましたが、それよりもフィンランドが辺境の地にあり外国と隔絶した国であることを体験的に理解出来ました。思えば遠くに来たものです。
ハイキンハイモ先生は自宅に招待してくれただけでなく大学のサウナへも案内してくれたのです。
北欧のサウナは白木だけで内装された素朴なサウナです。私が入ったサウナは隣に白木の脱衣所を兼ねた談笑室がありました。
そこで野の果物でつくった 蒸留酒をハイキンハイモ先生と一緒に飲みました。楽しい懐かしい思い出です。茫々、50年余の前のことです。

フィンランドの静かな湖の写真の出典は下記の通りです。
https://pixabay.com/ja/photos/%E6%B9%96-%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8-%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5-7415097/

「北海道の生き生きとした花の写真」

2024年08月22日 | 写真
北海道は空気が澄んでいるので花々が生き生きと咲いています。
北海道の夏の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://prezo.jp/column/2837 です。

1番目の写真は大通公園のライラックです。

2番目の写真は網走郡大空町のひがしもこと芝桜公園です。

3番目の写真は紋別郡遠軽町丸瀬布水谷町のまるせっぷ藤園です。

4番目の写真は北海道のシンボルフラワーはハマナスです。

「遥かなスエーデン王国の花の写真」

2024年08月22日 | 写真
遥かなスエーデン王国の家々に咲く花の写真をお送り致します。写真は「スエーデンに咲いている花」を検索して出て来た数多くの写真から選びました。

さて私をストックホルム王立工科大学の集中講義に招待してくれたエケトルプ教授の趣味のことを書きます。
教授は古民家を復元する趣味を持っていたのです。驚いたことにエケトルプ先生は中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。
昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。
内装はすべて白っぽい北国の板材です。柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面でなく、その上、部厚くはないのです。
大きな石組みの煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。
寝室には電気が無く、灯りはローソクです。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。
以上、スウェーデンのエケトルプ先生の思い出でした。

「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

2024年08月21日 | ブログ
民族の違いを分ける場合に下記の通り2つの方法があります。
(1)生物学的に民族の特徴を見て分類する方法。
例えば白人、黄色人、黒人と分類します。すると日本人と中国人は同じ黄色人となり区別はありません。
(2)それぞれの民族の暮らし方や文化を見て分類する方法。
文化が違えば違う民族と判定します。すると日本人や韓国人や中国人と区別出来ます。
アイヌ民族と日本民族にこの2つの方法を適応するとどうなるでしょうか?
するとアイヌ民族と日本人の祖先は同じなので生物学的には同じ黄色人となり区別はありません。
しかしアイヌ民族と日本人の暮らし方や文化は第二次世界大戦の終戦までは大きく違っていました。この暮らし方や文化の違いは鎌倉時代から顕著になって来ました。
それで文化の違いからアイヌ民族と日本人は違う民族だと断定する人が多いのです。
断定してアイヌ民族を差別する人もいるのです。困ったものです。

ここで私が主張したいことは「地球上に生きているすべての民族には優劣が絶対に無い!」ことです。当然、アイヌ民族と日本人はお互いに差別すべきではないのです。

最近のアイヌ民族に関する数編の私の記事がアイヌ民族を差別していると誤解する人もいるようなので念のため書きました。

添付のアイヌ民族の写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F です。

「アメリカに留学し私の愛国心が強くなる」

2024年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃も貧乏でした。昭和11年に生まれ昭和33年、1958年に東北大学を卒業し大学院に進みました。その頃にアメリカへ留学したいと思いました。しかしお金がありません。
大学の図書館でアメリカの学会誌でオハイイオ州立大学のセント・ピエール教授の名前と住所を知りました。手紙を書きました。そしたら生活費を支給してくれるという返事が来ました。
アメリカ往復の航空券はアメリカ政府のフルブライト奨学金がくれました。こうしてお金が無くてもアメリカへ留学出来たのです。
私は1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
アメリカに行ってみると当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。
ですからアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
例えば博士過程を卒業するために実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属の機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。

1番目の写真はロードホールという建物です。この建物の一階の右端の部屋にその実験装置を作りました。

2番目の写真は親切だった学科主任のフォンタナ教授の部屋のあった建物です。彼が寄付をした建物なのでフォンタナ実験室と言う名前がついていました。
玄関を入ってすぐ右側に彼の部屋があり、ヘレンという秘書がいつも親切にしてくれました。良く出来た女性でした。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。

アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。

3番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ新婚の家内と行った帰り道で車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回経験しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。
それはさておき、私の受けた最大の影響は私が愛国心を強く持つようになったことです。
私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。その上、アジア人として生まれた幸運にも感謝しました。したがって隣国の韓国や中国も大切に思い愛しています。アメリカで生活していると自然にそんな気持ちになるのです。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じっているアメリカに住んでみて、その中で強烈な人種差別の実態を見たからです。
1960年に留学したアメリカでは酷い黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れていました。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

もう2枚の写真はアメリカの風景写真です。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。



「日本の北に住んでいたアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本の北に住んでいたアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族をご紹介したいと思います。日本の北方とは千島列島、樺太、カムチャッカ半島、アリューシャン列島などです。太古にアフリカから移住して来た原住民、すなはち北方民族のアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族が住んでいました。千島と樺太には北方アイヌ民族が住んでいました。
さて18世紀になるとロシアがこの北方の土地を領有しようとしました。
初代ロシア皇帝、 ピョートル1世( 在位:1721年 - 1725年)がベーリング海峡からアラスカまでの探索を命じたのです。
ベーリング探検隊は2度目の遠征でアジアと北米の間にベーリング海峡があることを発見します。そして1741年に、ベーリング探検隊の隊員がアラスカに上陸します。
この上陸によってカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカはロシア皇帝の領有地になったのです。

1番目の写真は日本の北方地域の地図です。
その後、ロシア正教の宣教師が派遣されカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカにはロシア正教の教会が建てられたのです。
しかし1867年にロシア皇帝はアリューシャン列島と広大なアラスカをアメリカに売り渡したのです。ですから現在はアラスカとアリューシャン列島はアメリカの領土なのです。
さてこの地域に住んでいた先住民をご紹介したいと思います。
アリューシャン列島にはアリュート族が住んでいました。
土地が貧しく資源の少ない島でしたが、彼らは流木や海の生物資源を巧みに利用して生活していました。特徴的なのは海獣を狩ることが上手だったのです。
海獣の皮や消化器官でできたフードつきの防水服を着て、流木と海獣の皮で作られたカヤックに乗り、流木と骨で作る投げ槍などを持って数人の仲間と漁に出てラッコ、アザラシ、トド、セイウチ、クジラといった獲物を捕らえてきました。
長年孤立した民族でしたが、17世紀までに列島には約25,000人が暮らし、大いに栄えたそうです。
しかしロシア人の進出により海洋資源が枯渇し、またロシア人が持ち込んだ疾病によってその数は十分の一以下に激減し、1910年の調査ではアリュート族の数は1,491人しかいなかったそうです。写真を示しながら説明を続けます。

2番目の写真はアリューシャン列島のある島の夏の風景です。この列島は典型的な火山列島で、島々には火山があります。冬は厳寒の地ですが短い夏には草花も咲きます。

3番目の写真はアリューシャン列島の島にロシア人が開いた町の写真です。ロシア正教の教会も見えます。
白崎謙太郎著、「明治・海・2人」という本によると列島の島々にこのような教会堂があり、アリュート族は皆ロシア正教の信者になり、ロシア風の名前になっていたそうです。

4番目の写真は暖かい夏のアリュート族の家族の写真です。

5番目の写真は厳寒の冬のアリュート族の家族の写真です。
次にカムチャッカ半島の先住民をごく簡単に示します。
カムチャッカ半島の大部分を占めていた民族はイテリメン族でした。
(http://karapaia.com/archives/51643453.html )
 このイテリメン族と呼ばれる人々は、北はコリヤーク族、南は千島アイヌと接し、17世紀末までは2万人といたと推定されています。しかし17世紀末にロシア人が侵入し、カムチャツカ半島がロシアに併合された後は、混血とロシアへの同化、紛争や伝染病の流行などで人口が激減し、現在では2000人ほどしか残っていないそうです。

6番目の写真は伝統衣装を着たイテリメン族の男女の写真です。

7番目の写真は激しい踊りをしているイテリメンの男と女の写真です。

8番目の写真は戦士の服装をしたイテリメンの男性の写真です。
最近のイテリメン族の研究では、アラスカのトリンギット族と最も近い遺伝子を持つことが分かりました。かつてシベリアとアラスカを結ぶ陸橋だった期間、シベリヤからアラスカへと移動していったのがモンゴロイド達だったのです。当然、血筋が近いのもうなずけます。
ちなみに日本の縄文人は古モンゴロイド、弥生人は新モンゴロイドと考えられているので、日本人とも血がつながった民族だったのです。
なおアラスカのトリンギット族のことは長くなるので割愛します。

以上のようなロシア支配と先住民達のことを知った上で、白崎謙太郎さんの「明治・海・2人」という本を読むと一層北方民族のことが分かります。
この本は下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。shirasakikentaro@gmail.com

今日は日本の北に住んでいた原住民やアイヌ民族たちをご紹介しました。アリューシャン列島のアリュート族とカムチャッカ半島のイテリメン族です。千島と樺太には北方アイヌ民族が住んでいましたが今回は省略しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アイヌは日本人の祖先、日本の地名の多くはアイヌ語」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
自分達の先祖はどんな民族だったのか? 何処から移住して来たのか? どんな暮らしをしていたのか?
多くの人が興味を持つ問題に違いありません。
最近、日本人の祖先はアイヌ人だと考える人が増えたようです。もっともアイヌという名称は中世以後に出来た名称ですから「原日本人」と言うべきです。この「原日本人」が中世以後のアイヌ人と同じだったのです。しかし以下の文章では原日本人をアイヌ人と書いています。その方が分かり易いからです。
「原日本人」がアイヌ人だったという根拠の幾つかを書いてみたいと思います。富士山も神もアイヌ語だという話です。日本の地名の多くはアイヌ語だという話です。
日本列島に人間が沢山住むようになったのは少なくとも4万年前からの旧石器時代からです。当時の日本には南の中国や朝鮮からの渡って来た人々とカムチャッカ、樺太、千島列島から渡ってきた北方民族の両方が住んでいたと考えられています。両方が雑婚して住んでいました。そう考えるのが自然です。
北方民族の遺伝が強い北方日本の人々を後代の日本人はアイヌと呼んでいます。
アイヌ民族の居住範囲は本州の関西地方を南限にして、関東や東北地方はアイヌ人だけが住んでいたと考えられています。
従って東北地方と北海道南部に花咲いた縄文文化はアイヌ人(原日本人)の文化だったのです。
それが弥生時代になり、西日本では中国系の人が増えて、アイヌ人(原日本人)は次第に東北地方へ追いやられたのです。
そして北海道に孤立した縄文人(原日本人)、すなわちアイヌ人はその後、オホーツク文化の影響を色濃く受けて擦文土器文化になり、その後独自のアイヌ文化になったのです。
私の先祖はアイヌ人です。私の先祖の出生地が東北地方だからです。蝦夷(えみし)なのです。
大雑把に言って先祖が関西以北の出身なら、アイヌ人が祖先になると考えるのが自然です。

さて「古事記」に出てくる地名が多くはアイヌ語起源である可能性が高いという仮説があります。「目からウロコの漢字問題」(宝島社文庫)という本に以下のようにあります。
・・・昔は日本の大部分の地域にアイヌ民族がいた。その後北方へ追いやられたが、(現代日本人の八割の人はアイヌ民族の血を引いているという)、このようなわけで、とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろある。
 たとえば、栃木県「日光(にっこう)」は「二荒(ふたら)」が「にこう」と読み違えられ、さらにそれに当て字をして出来上がったという。この「ふたら」はアイヌ語「プタアラ」が語源になっており、これは「美しい高原」のことである。「富士」もアイヌ語の「フチ(火)」が語源だとする説が有力だ。つまり「火の山」だったわけである。」・・・

以上の本は学問的な厳密性を欠いた読み物風の本のようで信用出来ないかも知れません。しかし、このことは明治時代に、東京帝国大学の教授であったバジル・ホール・チェンバレン教授によって明らかにされたのです。彼は英・アイヌ・和語辞書を作った学者です。
とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろあることは確かです。さらに彼は富士山や利根川や能登半島もアイヌ語だとも言うのです。
そして現在、北海道に住んでいる人々は北海道の地名の8割ほどがアイヌ語をカタカナや漢字で表現した地名であると知っています。
しかし北海道以外の日本人は意外にこの事実を知っていません。札幌も稚内も石狩川もすべてアイヌ語の地名を漢字で書いたものなのです。

アイヌ人は縄文時代末期まで、関東地方にも広がって住んでいたのです。その後、大和朝廷に少しずつ北方へ追いやられ、江戸時代には北海道(蝦夷地)にだけになりました。しかしその一方で、多くのアイヌ人は混血して東北地方にも住み着いていました。
ですから本州の関東以北にはアイヌ語の地名をいくつも残っています。
話はいきなり飛びますが、アメリカの内陸部の地名、河の名前がインディアン語のものが多いのです。私が住んでいたオハイオもそうですが、オハイオ州の河や地名の多くはインディアン語由来のものです。先住民は消えて行きます。しかし先住民の残した地名はアメリカに沢山あります。

下に「北海道の地名・駅名」についての資料をご紹介します。
これには北海道のアイヌ語由来の地名をカタカナや漢字で表すときの一般的な規則が分類され出ています。(Wikipediaの「北海道の地名・駅名」より抜粋)
北海道の地名・駅名は、概ね以下のように分類できる。
アイヌ語に由来するもの
アイヌ語に日本語(漢字)表記をあてたもの
アイヌ語をそのまま使用しているもの
内地からの開拓・入植に際して地名が決められたもの
周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名
上記によって定められた地名・駅名に、方向や大小などの接頭語・接尾語をつけたもの

@アイヌ語に由来するもの
アイヌ語地名に日本語風の地名・駅名につけるにあたっては、以下の方法が見られた。
アイヌ語に漢字の表記をあてたもの
アイヌ語の音に漢字をあてずカタカナで表記しているもの
@アイヌ語に漢字表記をあてたもの
老者舞(おしゃまっぷ)
音訳 - アイヌ語の「音」を流用し、漢字を当て字(仮借)したもの
意訳 - アイヌ語の「意味」を解釈し、似た意味の日本語を割り当てたもの
音訳したもの
音訳の例としては、「ホッキ貝の多い所」を表す「ポク・オ・イ」からとった母恋や、「川口の汚染された所」を表す「オ・トイネ・プ」からとった音威子府・音稲府(枝幸町)などがある。

また、アイヌの地名をそのまま日本語地名としては冗長であったりごろが悪かったりする場合には一部短縮・省略したものもある(オペレケレケプ->帯広、ピウカ->美深))。
これらは音のみに着目した「当て字」である。漢字は表意文字であるが、あてられた漢字の意味にアイヌ語原義との直接的な関連性があるとは限らない。例えば、北海道に数多く見られる「内」「別」は、それぞれアイヌ語で川を意味する「ナイ」「ペツ」に当て字されたものであり、「内側」「別れる」の意味は持たない。同じように「幌」は「大きい・広い」を意味する「ポロ」の当て字で、「幌」の字の持つ意味とは関係がない。
========以下省略します。==============

最後に一言余計なことを書かせて下さい。日本人は明治維新以来、アイヌ人を蔑視してきました。その証拠は1997年(平成9年)まで存続していました「北海道土民法」です。ですから「日本人の先祖はアイヌ人」という題目に感情的に反発する人がいます。貴方自身はどのようにお感じでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はアイヌの血の濃い北海道の人々によるアイヌの再現写真です。写真の出典は、https://rurubu.jp/andmore/article/12912 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「アイヌ民族の文化と生活の様子」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道にはアイヌ民族が縄文時代より以前の大昔から住んでいました。北海道の先住民です。第二次大戦の直後までアイヌ民族だけの村落が北海道に散在していたのです。それが現在は忘れられています。

そこで今日はアイヌ民族の文化と生活の様子をご紹介したいと思います。

さて私がアイヌ民族に興味を持つきっかけになったのはモースが撮ったアイヌ人の1枚の集合写真です。エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。その中に次の写真があったのです。

1番目の写真はモースが明治20年代(1890年頃)に撮った北海道のアイヌの集合写真です。写真の出典は、小学館の「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。

明治時代のアイヌは伝統的な服装と家に住み純然たるアイヌ文化を維持していたのです。一緒に写っている白人はクラーク博士でアイヌにも興味があったそうです。この写真でアイヌ民族を興味を持った私は他の写真をさがしました。

(1)アイヌ人の写真と家族の写真

アイヌ人の写真は明治時代から現在にいたるまで沢山あります。もっとも現在の写真は観光用のアイヌの祭りに出演するアイヌ人たちです。和人と結婚したアイヌ人達です。写真を示します。   2番目の写真はモースが明治時代に撮ったアイヌ民族です。こんな服装は1945年の大二次世界大戦の終戦まで続きました。北海道のアイヌ村落では皆んながこの服装をしていたのです。 3番目の写真は観光用のアイヌの祭りに出演したアイヌ人たちです。日本の経済の高度成長とともに北海道旅行が盛んになり大勢の観光客がアイヌの祭りのショーを見に行きました。ショーの出演者はアイヌの血を引く日本人です。   4番目の写真は観光用のアイヌの女性たちです。化粧や服装は伝統的なアイヌを忠実に再現しています。口の周りの入れ墨は墨で描いたもので入れ墨ではありません。   5番目の写真は口で震わせるアイヌ独特の楽器を演奏するアイヌの女性です。 北海道のアイヌ人は明治以後は日本の小学校に行くようになり次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。それでもアイヌ村落は終戦後まで存続していたのです。第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。 (2)アイヌ人の住居

昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。そしてアイヌの村落が復元して展示されています。復元し展示してある村落の写真を示します。   6番目の写真は白老にあるアイヌの村落です。復元したものです。

  7番目の写真はアイヌの家の内部です。アイヌの住居チセ(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした平地式住居で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていました。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー(鉄鍋)がかけられていました。    8番目の写真も展示されているアイヌの村落の風景です。

さて北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。しかし現在はアイヌ人だけの村落は消えて無くなってしまったのです。

北海道に行くと、私は復元した村や博物館を見て回りました。北海道・日高の平取町二風谷では、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もありました。

(3)アイヌ人の食生活

アイヌ民族の食糧は簡単に獲れるエゾシカの肉と多量に獲れる鮭の干物でした。ヒグマはまれにしか食べられませんでした。クジラやトドなどの海獣も食べましたがニシンやイワシが主でした。若めや昆布も食べました。

その他に下の写真のような植物を食べていました。そして肉食と草食のバランスを取りながら北の大地で豊かな食生活を楽しんでいたのです。640pxtouro_rake1_2

9番目の写真はペカンペ(菱)の大産地として有名な釧路湿原にある塘路湖です。菱の実の争奪戦が行われたとの伝説も伝わているそうです。

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10番目の写真です。        11番目の写真です。

10番目の写真がギョウジャニンニクの芽生えで、11番目の写真が汁物の具として好まれるニリンソウです。葉の形は毒草のトリカブトと似ているため、採集には注意を要するそうです。

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12番目の写真です。        13番目の写真です。

12番目の写真がマウ(ハマナスの実)です。アイヌ語では旧暦7月をモマウタチュプ(少しばかりハマナスの実を採る月)、8月をシマウタチュプ(本格的にハマナスの実を取る月)と呼ぶそうです。

13番目の写真がアイヌ語ではユクカルシ、カムイカルシと呼ばれるマイタケです。和人との交易品として重要なので、日本語名・マイタケも早くから広まったいました。

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14番目の写真です。         15番目の写真です。

14番目の写真が葱です。江戸時代後期から栽培され、汁物や刺身の薬味に使われたそうです。

15番目の写真はマキリ(小刀)です。山菜の採集や魚の処理、調理に使われました。

アイヌは和人と同様に生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「刺身」や「肉や魚のたたき」が大変に好まれていたのです。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」「灰の中で蒸し焼き」でした。

以上の写真と文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86 です。

今日はアイヌ民族の写真とともにその村落、住居、食生活をかなり詳しくご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「戦後の米軍占領で日本は激変、アイヌの集落も消滅」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
1945年の日本の敗戦は日本人の価値感を根底から変革しました。男女平等の民主主義が社会構造をすっかり変えてしまったのです。戦後の米軍占領で日本は激変したのです。
今日は激変の一つの例として北海道のアイヌ集落の消滅をご紹介したいと思います。アイヌ集落 への差別が無くなったのです。
戦後は自由と平等の思想の普及しました。その結果アイヌ民族は次第に和人と結婚してアイヌの集落 から出て行きました。アイヌ民族の東北地方への移住も進みました。
こうして北海道に数多くあったアイヌ部落は一つ一つと消えて行ったのす。
ですから私は戦後の米軍占領でアイヌの集落 は消滅したと考えています。それは一つの戦後の歴史なのです。
私はこの問題に強い関心を持ち続けています。理由は私には移住して来たアイヌ人の少年と親しい友人になったからです。少年の頃の楽しい思い出は生涯忘れられないのです。
北海道に旅をするとあちこちにアイヌ民族の博物館があります。日高の平取や白老、そして旭川の郊外などにも民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。
北海道には第二次大戦の終戦までアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。戦後、アイヌ人だけの村落は次第に消えて行きます。
明治から昭和20年の終戦までの日本の政策によって、アイヌ人は土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの集落 は困窮していました。
そして終戦後に、北海道のアイヌ人たちの一部は東北地方の開拓地に移住して来たのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへもアイヌ人一家が移住して来たのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。
1番目の写真は1904年に撮った北海道のアイヌの人々の写真です。
私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。

さてアイヌ民族は美しい文学作品も持っています。例えば「アイヌ神謡集」もその一つです。知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』をご覧ください。

詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。
「アイヌ神謡集」を読むと、彼等が豊かな自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。

北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。
旧石器時代から縄文時代までは北海道の歴史は本州とほぼ同じでしたが、その後の本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
その代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の中部と南部の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。

擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
狭い意味でアイヌ民族と呼ぶのは、この鎌倉時代から明治維新まで続いた独特な文化の担い手の人々の事です。
広い意味でのアイヌ人とは旧石器時代から縄文時代まで北海道や本州にいた先住民族を意味します。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm です。

今日は戦後の米軍占領でアイヌの集落 は消滅したという戦後史をご紹介し、さらにアイヌ民族の文化と北海道の歴史を書きました。

挿絵代わりにもう2枚のアイヌ民族の写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







「松江への松平不昧公と小泉八雲の追憶の旅」

2024年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
観光旅行をするときある種の追憶をたどって行く場合があります。例えば数年前に訪ねた松江への旅は茶人だった松江七代藩主、松平不昧公の追憶の旅です。そして小泉八雲の追憶の旅です。小高い丘の上にある不昧流の茶室に上がって茶と菓子を楽しみながら宍道湖を眺めます。御菓子に感心しました。鮮やかな緑色の「若草」です。柔らかな求肥で上品な甘みです。若草とは不昧公の和歌から命名されたものです。
町へ下りて来て彩雲堂でそれを買い、そして風流堂の紅白の「山川」、さらに三英堂の黄色の地に白い蝶の舞う「菜種の里」を購入しました。下の写真は「若草」と「菜種の里」と「山川」です。

松江といえばもう一つ見なければいけないところが有ります。小泉八雲の旧居とその隣にある記念館です。八雲の生涯は不遇な一生でしたが、セツという素晴らしい女性と結婚したお陰で最後の14年間は幸福になります。セツから聞き出した数々の怪談話を文学作品として英語で発表したのです。
しかしその文学作品が翻訳され日本で有名になったのは彼の死後10年以上経過した大正時代の末頃でした。平川 呈一などの名訳でさらに広く読まれるようになったのです。そのような悲しい、そして幸せな人生もあるのかと考えながら彼の旧居と記念館を訪ねました。下の写真は記念館の門と内側に入った所です。

記念館を見て、その温かい家庭的な雰囲気に圧倒されました。記念館には八雲の子供や孫、曾孫が遺品を持ち寄って展示しているのです。セツさんや八雲の使っていた文房具や原稿の下書き、子供の為に描いた絵や説明文が沢山あるのです。家庭の幸を展示した記念館です。よくある公共の有名人の記念館ではその人の偉大な作品をこれでもかと展示してあります。簡単に言ってしまえば、威張るための展示です。ところが八雲の記念館には家庭愛が展示してあるのです。どんなに八雲がセツや子供を愛したかがすぐに分かるように展示してあるのです。遺族が経営に参加し展示を受け持っているようです。
家内が感心していろいろ絵葉書を買いました。下にその写真を出しておきます。

「昔よくスキーをした山形県のドッコ沼の写真」

2024年08月19日 | 写真
昔よくスキーをした山形県のドッコ沼の写真をお送り致します。
標高約1,400mの蔵王中央高原にある神秘的な沼が「ドッコ沼」です。日差しによって水が青色やエメラルドグリーンに変化し幻想的です。昔よくドッコ沼の前の粗末な宿に泊まり、スキーをしたものです。茫々60以上も前のことです。
ドッコ沼の写真をインターンットからお借りしました。