友人の思い出を書きたいと思います。我が友人、星野君と大友君のことです。星野君は大学の同級生でしたが2011年9月に急な病で旅立ってしまいました。大友君は高校と大学の同級生でした。大友君は2018年の秋に富士山に登り帰路行方不明になりました。まだ遺体は見つかっていません。この2人の友人と最後に遊んだのは2010年の10月28日でした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットでこの2人と一緒にセイリングをしたのが最後になりました。その最後のセイリングの写真です。
1番目の写真は当日のヨットと霞ヶ浦の風景です。ヨットが港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。
2番目の写真は強風で船が走るヨットを操船している2人です。左が大友君で右が星野君です。帰港のころは風が又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。
3番目の写真は帰港後のキャビンの中での宴会の様子です。星野君は彼は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。よく冷えたシャンパンを担いで来ました。その後、ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。それが2人に会った最後になりました。
星野君と大友君の思い出を少し書きます。大友君と私は大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってありました。彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで私と一緒によくでヨットにも乗りました。ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。
4番目の写真は熱海の沖にある初島です。初島の民宿に泊まり翌日三浦半島の突端の三崎港まで航海しました。ところが三崎港の沖で突然、船のエンジン室が火災を起こしたのです。マリーナから操船のために乗っていた3人のスタッフが下のエンジン室の消火のためいなくなります。すると大友君は悠々と舵輪を握り、「後藤君、心配無いよ。火は3人で消せるから」と静かに言ったのです。それから1時間して葉山マリーナから高速艇が救助にやって来ました。
星野君とは仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、「花春」が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事施設がついています。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が静かに風波を立てている様子が眺められのです。
星野君や大友君の住むかなたの国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか? あれから茫々10年以上がたちます。我が友人、星野君と大友君の思い出を書いてみました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は当日のヨットと霞ヶ浦の風景です。ヨットが港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。
2番目の写真は強風で船が走るヨットを操船している2人です。左が大友君で右が星野君です。帰港のころは風が又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。
3番目の写真は帰港後のキャビンの中での宴会の様子です。星野君は彼は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。よく冷えたシャンパンを担いで来ました。その後、ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。それが2人に会った最後になりました。
星野君と大友君の思い出を少し書きます。大友君と私は大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってありました。彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで私と一緒によくでヨットにも乗りました。ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。
4番目の写真は熱海の沖にある初島です。初島の民宿に泊まり翌日三浦半島の突端の三崎港まで航海しました。ところが三崎港の沖で突然、船のエンジン室が火災を起こしたのです。マリーナから操船のために乗っていた3人のスタッフが下のエンジン室の消火のためいなくなります。すると大友君は悠々と舵輪を握り、「後藤君、心配無いよ。火は3人で消せるから」と静かに言ったのです。それから1時間して葉山マリーナから高速艇が救助にやって来ました。
星野君とは仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、「花春」が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事施設がついています。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が静かに風波を立てている様子が眺められのです。
星野君や大友君の住むかなたの国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか? あれから茫々10年以上がたちます。我が友人、星野君と大友君の思い出を書いてみました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)