後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「老境になると懐かしいのは星野君と大友君」

2024年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
友人の思い出を書きたいと思います。我が友人、星野君と大友君のことです。星野君は大学の同級生でしたが2011年9月に急な病で旅立ってしまいました。大友君は高校と大学の同級生でした。大友君は2018年の秋に富士山に登り帰路行方不明になりました。まだ遺体は見つかっていません。この2人の友人と最後に遊んだのは2010年の10月28日でした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットでこの2人と一緒にセイリングをしたのが最後になりました。その最後のセイリングの写真です。

1番目の写真は当日のヨットと霞ヶ浦の風景です。ヨットが港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。

2番目の写真は強風で船が走るヨットを操船している2人です。左が大友君で右が星野君です。帰港のころは風が又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。

3番目の写真は帰港後のキャビンの中での宴会の様子です。星野君は彼は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。よく冷えたシャンパンを担いで来ました。その後、ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。それが2人に会った最後になりました。
星野君と大友君の思い出を少し書きます。大友君と私は大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってありました。彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで私と一緒によくでヨットにも乗りました。ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。

4番目の写真は熱海の沖にある初島です。初島の民宿に泊まり翌日三浦半島の突端の三崎港まで航海しました。ところが三崎港の沖で突然、船のエンジン室が火災を起こしたのです。マリーナから操船のために乗っていた3人のスタッフが下のエンジン室の消火のためいなくなります。すると大友君は悠々と舵輪を握り、「後藤君、心配無いよ。火は3人で消せるから」と静かに言ったのです。それから1時間して葉山マリーナから高速艇が救助にやって来ました。
星野君とは仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、「花春」が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事施設がついています。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が静かに風波を立てている様子が眺められのです。

星野君や大友君の住むかなたの国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか? あれから茫々10年以上がたちます。我が友人、星野君と大友君の思い出を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「老境になると懐かしいのは仙台の愛宕中学のことなど」

2024年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると懐かしいのは仙台の愛宕中学と高橋貞明先生のことなどです。
仙台市には新制中学校が幾つも出来、私共が入学した第十中学校(後に愛宕中学校と改称)は昭和22年に発足し、我々はその二期生として昭和23年に入学しました。その頃の小学校や中学校、そして全ての学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。戦中、戦後に通った仙台の向山国民学校の担任の先生がその通りだったのです。今でもその優しかった顔を忘れられません。そして昭和23年から26年まで通った新制中学校の愛宕中学校先生方も情熱を傾けて生徒の面倒を見ました。特に忘れられないのが高橋貞明先生です。仙台の愛宕中学で担任をしていた先生です。この高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。でも何を習ったかすっかり忘れてしまいました。忘れられないのは部活で一緒に泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生にお世話になりました。とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私達悪童連を何度も自宅に招んでくれました。そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。その後、共産党系の日教組が勢力を張りだして学校の雰囲気が変わりました。先生を聖職と言い、富国強兵に協力させた明治、大正、昭和の教育政策が間違っていると主張するのです。そして先生は聖職ではなく労働者だと言い張るのです。そして「万国の労働者よ団結せよ」という思想を振り回すのです。こうして師弟愛は歴史の彼方に消えてしまいました。しかし暫くして、日教組の力も消えて行きました。現在の学校はアメリカ流に個人の個性を伸ばす教育に変わりました。
少し説明します。伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺があります。そのお寺のある山は大年寺山といいます。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。
経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区のようです。何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
故郷の景色は変わりませんが家族も親類も恩人、知人も居なくなってしまいました。

添付の写真は順に、私が卒業した東北大学金属工学科、お霊屋橋、鹿落坂、そして亡き弟(左)の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい樹木の姿を求めて旅をする」

2024年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
樹木の美しさを見ると心がやすまります。心が静まります。自分の愚かさに気がつきます。
ですから私は樹木を愛しています。尊敬しています。
幼いころからの樹木とのお付き合いを時々思い出しています。
戦前、戦後に仙台の郊外に育った私は山林の中で一人遊びをしていました。雑木林を抜けると亭々と聳える赤松の林があり、何故かいつもトンビが舞っていたのです。その鳴き声が今でも耳に残っています。私は樹木に憧れ、樹木を友にし、樹木を尊敬していたのです。
中年になって少し心の余裕が出来たころ、山林の中に小さな小屋を建てました。
山梨県北杜市の甲斐駒岳の山麓に広がる深い、深い森の中です。
どんなに深い森かを示すためにその小屋の窓から撮った森の写真を示します。

1番目の写真は小屋の西側の生い茂っている赤松の写真です。冬になり雑木が落葉すると森の梢の向こうに雪を頂いた甲斐駒岳が見えます。
窓の外の自然林を眺めながらビールをゆっくり飲みます。夕方から次第に暮れて行く山林の呼吸を感じながら時を過ごします。
この鬱蒼とした自然林の奥には鹿や猪や猿が静かに棲んでいるのです。たまにサルの一群が窓のそとに遊びにきます。
自然に生えている樹木はこの写真のように荒々しいものです。原始の姿です。
しかしそれに人間の手が入ると風景が一変します。

2番目の写真は時々樹木の美しさを見る為に通っている畑の向こうの雑木林です。埼玉県の所沢市の農村の風景です。
このように人間は樹木の美しさを畑の広がりで引き立てています。野菜を収穫するだけの目的なら、この樹木は不要かも分かりません。しかし畑作をしている人が大切に守っているのです。
一生懸命、写真を撮っていると近づいて来て、「美しいいでしょう。ゆっくり写真を撮って行ってください」と言っていました。やはり彼は野菜を育てながら樹木の美しさを楽しんでいたのです。心の豊かさに感動します。
このように樹木の好きな私は自分の家の近所でも大きな木のある所を沢山知っています。
小金井公園、武蔵野公園、野川公園には巨大な樹木があるのです。春夏秋冬、よく訪れては巨木を見上げています。
このように樹木のことを書き出したら止まりません。白神山地のブナの林も美しいものです。そして昨年の夏に行った長野県の八千穂高原の日本一の白樺林の広がりを思い出しています。
その上北海道には美しい樹木の思い出が尽きません。
北海道大学の植物園の楡の大木、ポプラ並木、そして富良野や美瑛の牧草地の境に立っている白樺林などを思い出すたびに心が癒されます。
とにかく樹木の事を考えると心が静まり幸せな感じになります。
写真に数年前の10月に帯広空港から知床へ行く途中で撮った樹木の姿を示します。

3番目の写真は帯広空港から知床へ行く途中で撮った写真です。秋風にそよぐ葉が何かを語りかけているようです。

4番目の写真も帯広空港から知床へ行く途中で撮った写真です。
風で一方に延びた枝が何かを訴えているようです。超然とした喬木の姿です。人間の矮小さが恥かしくなります。
樹木は私に心のやすらぎをくれます。静かに語りかけてくれます。自分の悪い心を直してくれます。元気もくれます。
こうして私は88歳になるまで長い、長い間、いろいろな樹木のお世話になった来たのです。感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「2024年10月27日 年間第30主日ミサ」

2024年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2024年10月27日 年間第30主日ミサです。
今日はインターネットを通うして広島のカトリック幟町教会のミサにあずかります。

ミサの動画配信は下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=2G0_8cLrFDw
第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節
福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節

カトリック幟町教会
〒730-0016 広島県広島市中区幟町4−42

添付のは写真はカトリック 碑文谷教会です。

「宮城野の萩が美しく咲く季節です」

2024年10月27日 | 写真
宮城野の仙台で生まれ育った私の家の庭には萩の花がいっぱい咲いていました。大きくなって知ったのですが宮城野の萩は万葉集の時代から有名だったのです。
 
宮城野の萩のことを歌った万葉集の歌です。
 
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円の 野辺の秋萩は 虚しく 咲いては散っていることだろうか 見る人もいな いので)  笠金村(巻二―二三一)
 
秋風の 末吹きなびく 萩の花 共にかざさず 相か別れむ
(秋風に 吹かれてなびく 萩の花を 一緒に髪に挿すことなく 別れていくのか)    大伴家持(巻二十―四五一五)
 
源氏物語にもあります。
宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ
(宮中の涙をそそる風の音に 若宮のことが偲ばれる)
この宮城野の萩の写真をお送りいたします。
写真の出典は、「宮城野の萩の花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗な写真を選びました。

「秋を代表する花々」

2024年10月27日 | 写真
秋を代表する花は何と言ってもコスモスです。それにキクです。その他は意見が分かれるでしょうが私はキンモクセイとガーベラにしたいと思います。
この4つの花々の写真を順にお送りいたします。

「国破れて山河在り」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は1945年8月15日に敗れました。国中の都市は焼野原になりました。国民は呆然示としてなすすべを知りません。
しかし美しい山河は変わらずあったのです。

杜甫の漢詩
国、破れて山河あり
城春にして、草木深し
時に感じては、花にも涙をそそぎ
別れをうらんでは、鳥にも心を驚かす
烽火三月につらなり
家書万金にあたる
白頭掻けば、さらに短く
すべて、しんにたえざらんと欲っす

写真の出典は、
https://www.gltjp.com/ja/article/item/20321/ です。

1番目の写真は大分県中津市の「耶馬渓」です。

2番目の写真は北海道の定山渓温泉の紅葉の風景です。

3番目の写真は北海道の南西部にある支笏洞爺国立公園です。

4番目の写真は愛知県の香嵐渓の紅葉です。

「戦後の日本(3)戦後の激変の例、農地改革」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
敗戦国となった日本は、占領地から兵士を引き上げさせられ、日清戦争以降に得た植民地を失いました。また沖縄や小笠原諸島、奄美諸島はアメリカの統治下におかれ、北方領土はソ連の統治下となりました。
国内は、空襲によって住宅や工場などが壊され、物価が急激に上昇し、多くの失業者が出ました。日本本土はアメリカを主とする連合国軍の占領下となり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれ、戦後改革が行なわれました。
GHQは、日本の非軍事化を進め、軍や政府の指導者を戦争犯罪人として、極東国際軍事裁判で公職から追放しました。昭和天皇も、GHQによって1946年(昭和21年)に「人間宣言」を行ないました。
GHQは、非軍事化と同時に民主化を進めました。治安維持法が廃止され、政治活動や言論の自由を保証し、選挙権を満20歳の男女に与えました。経済面では、日本経済の実権をにぎっていた財閥を解体し、労働者を保護する労働組合法や労働基準法を制定されました。農村では農地改革が行なわれ、自作農が多くなりました。
それでは農地改革について書きます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9 )
1945年の12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示しました。
この指示にしたがい農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡されたのです。
農地の買収は1947年3月31日に開始され、1950年7月まで16回にわたって行われ、193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡されました。
日本の農地改革は、専業的家族経営を優遇しており経営規模3反未満の零細層は原則として買受け対象から除外されました。
農業諸施設の買収では、生産力の向上を基準に是非が判断され、「中農主義」「生産力主義」 が加味されていた点が日本の農地改革の特質であると言われる。
この農地改革は同時期に施行された選挙権の大幅拡大に連動されていた側面もあったのです。
従来、賃金労働者と並んで日本共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党や戦後保守に取り込まれたのです。
結果として小規模農家が主流となり、大規模化・効率化が遅れたという指摘もあります。2000年代以降の少子高齢化により、担い手が不足し耕作放棄地が増加したため、農林水産省は農地中間管理機構を組織して、農地の大規模化や農業法人での経営を促す方針に転換しています。

この農地改革は日本社会に衝撃的な影響を与えたのです。日本社会から封建的な制度を一掃し民主化に大きく貢献したのです。農地改革は日本社会の衝撃的な改革でした。

添付の写真は日本の農村地帯の風景です。写真はインターンットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「戦後の日本(2)体験した戦後の日本語の激変ぶり」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争で日本は敗れました。そうしてアメリカの軍隊が全国の津々浦々を占領しました。このアメリカ軍の占領で日本の社会が激変しました。明治維新以来の軍国主義の社会が自由と平等が徹底した民主主義の社会に急変したのです。日本語も変わりました。日本人の職業や階級による言語の違いも無くなったのです。
昭和11年生まれの私はこの激変をつぶさに見聞きし体験したのです。
今日は戦後の日本語の激変について書きたいと思います。
まず職業別の言葉の違いの一例を書きます。私の少年の頃の体験です。
終戦前に交番の前を歩いていると巡査が「おいこら!」と大声で私を呼び止めます。退屈しているので少年の私と話をしたいのです。巡査は威張って交番から出て来て私にサーベルを見せるのです。そんなことが2,3回ありました。大人に対しても巡査は「おいこら」「きさま」など威張った言葉を使っていました。しかしアメリカ軍が占領して来ると巡査は「おいこら!」などと言わなくなりました。
単に巡査だけでなく日本人の上からの威張った言葉が少なくなりました。
社会から敬語や丁寧語が急に少なくなりました。職業による話し言葉の違いもなくなりました。
その上美しい女言葉も少なくなりました。以前にNHK放送で有楽町で夜の女をしていたオトキさんの美しい女言葉を放送していました。あまりにも綺麗な日本語なのでNHKが録音して何度も放送していたのです。
現在でも美しい女言葉を話す人は沢山います。しかし英語には女言葉が無いと言って男言葉を話す女性も沢山います。困ったものです。
男と女の言葉が別なのは日本の素晴らしい文化だったのです。
それからアメリカ軍が占領して来ると日本語にやたらカタカナ語が混じるようになりました。意味不明のものもあります。困ったものでした。
戦後アメリカ軍のカービン銃を使った強盗が捕まりました。そしたら犯人が、「オー、マイミステーク!」と叫びました。このことがマスコミに出ると「オー、ミステーク!」が日本中の流行語になりました。
戦後の日本語の変化はまだまだまだありますが、長くなるので止めます。
今日は戦後の民主化による日本語の激変の数例を書きました。激変したのは言葉だけでなく職場や家庭における人間関係も変わったのです。私は民主主義というものを肌で体験しました。
今日の挿絵代わりの写真は家内が撮った甲州の桜の風景写真です。私の山小屋の付近の桜です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 
1番目の写真は韮崎の「わに塚の桜」です。古代の有力者の墓の「わに塚」に亭々と茂った桜木が満開になっている風景です。周囲には何も無い一本桜です。
2番目の写真は北杜市武川の「真原の桜並木」です。500m続く高原の桜並木です。
3番目の写真は「真原の桜並木」の西に聳えている甲斐駒岳です。残雪の甲斐駒岳が美しく輝いています。
4番目の写真は「清春美術館」の門を飾っている桜です。昔の小学校の跡地なのでぐるりと満開の桜木が囲んでいます。

「戦後の日本(1)アメリカ占領軍による日本の大改革」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代の一番大きな出来事は太平洋戦争で日本が徹底的に負け、全国がアメリカに占領されたことです。それは日本の歴史開闢以来の大事件でした。アメリカの連合国は東京にマッカーサー指揮による総司令部(GHQ)を設置して日本の根本的な改革を実行したのです。終戦後すぐに昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行きしたました。

1番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行った時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは略装です。

2番目の写真は1945年9月にミズリー号での降伏文書の調印式に出た日本側の代表です。先頭の重光外務大臣が調印しました。日本政府代表は横須賀沖に浮かぶ戦艦ミズーリの船上で、イギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダ、中華民国、ソ連ら連合国との間で降伏文書に正式に調印したのです。
ミズリー号での調印式の後でマッカーサーの総司令部(GHQ)は日本を徹底的に改革することを始めたのです。改革の柱は1945年10月に発表された「五大改革政策」でした。この「五大改革政策」で旧学校制度は廃止され、さらに小作農が解放されました。これに関して私が直接体験したことを書きます。終戦の時私は国民学校の3年生でした。しばらくして天皇陛下と皇后陛下の写真への敬礼が廃止になりました。教育勅語を祀って保管している奉安殿が取り壊されました。教科書の軍事教育的な文章が多数墨で黒々と消されてました。国民学校の看板が小学校に変わりました。小学校を卒業して出来たばかりの新制中学へ入学しました。制度が出来ましたが校舎がありません。隣町の大きな小学校の空いた教室に間借りしました。机も椅子も無くミカン箱を机にして板の床に座って授業を受けました。1年後に新校舎が完成し引っ越した時は本当に嬉しかったものです。さて次に小作農に関して直接見たことを書きます。家内の祖父は地主でした。あれは1960年代で戦後から15年も経っている頃でした。昔の小作農の人が作った野菜を持って家内の祖父のところへ農地を貰ったお礼に毎年来ます。何気無く見ていると昔の小作農の人が庭に跪いているのです。昔の地主は縁側の上に座って昔の小作農の人を見下ろしているのです。こんな光景を何度か見ました。私は地主と小作の身分の違いに衝撃をうけました。同時に優しかった地主を慕う小作の人の心の美しさに感銘を受けました。ここで終戦後の進駐軍の写真を3枚示します。

3番目の写真は当時憧れのまとだったジープと少年の姿です

4番目の写真はアメリカ兵と仲良くしている2人の女性と少年たちです。

5番目の写真は1人の女性と楽しそうに歩いているアメリカの兵士たちです。これらの写真は終戦後の日本の町でよく見られた風景でした。

今日は以上で終わりにしたいと思います。
それにしてもマッカ-サーは明治維新以来の日本の富国強兵政策を徹底的に壊滅したものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

2024年10月25日 | 写真
今日の散歩は都立武蔵野公園まででした。
武蔵野公園は広々とした公園です。ブランコも滑り台もありません。何も無いのです。野川の水音だけが聞こえます。それが良いのです。静寂が支配してます。撮って来た写真をお送り致します。

「戦争の記憶(7)1945年8月の敗戦」

2024年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の歴史で徳川幕府の成立や明治維新は大きな歴史の転換でした。それらに匹敵する歴史の転換は1945年の日本の敗戦でした。軍国主義の国がいきなり民主主義の国になったのです。その時代はまさに激動の時代でした。戦前生まれの高齢者はみなこの激動の時代を体験しています。
1945年の8月15日に終戦になりました。ですから夏が来ると思い出すのは日本の敗戦です。
私は当時仙台市に住んでいて向山小学校の3年生でした。
私が通よっていた向山小学校でも敗戦で急にいろいろな事が起きました。
石で出来た立派な正門にかけてあたった「向山国民学校」の看板がすぐに「向山小学校」に変わりました。教科書はわら半紙に戦前の文章を印刷した紙の束でした。ちゃんと製本してませんでしてませんでした。
そして戦前の軍国主義的な部分を墨で消したのです。墨で消す部分は先生が教えたのです。私どもはところどころが墨で消えたわら半紙の束を教科書として使っていたのです。
先生は軍国主義を批判し民主主義を教え始めました。それは日本の歴史の転換でした。軍国主義が急に民主主義になったのです。民主主義の教育はその後の新制中学でも続きました。
敗戦後の激動の時代は深刻な食糧難の時代でした。戦争中は統制もとれ少ないながらも米の配給がありました。
米は田舎に買い出しに行きました。三食はお粥や雑炊でした。味噌汁に小麦のダンゴを入れたスイトンをご飯の代用食として食べました。
食糧難のことを書くともっと酷いことが沢山ありますが悲しくなるので止めます。
今日は日本の敗戦という激動の時代の私の体験を書いてみました。
添付の写真は終戦直後の宮城前の光景、買い出し列車、ヤミ市の写真です。写真の出典は、 https://kirigami.hatenablog.jp/entry/70205741 です。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は終戦直後の宮城前の光景です。人々が自分達の努力が足りなくて戦争に負けたことを昭和天皇へ謝っているのです。
2番目の写真は買い出し列車です。列車はいつも満員でした。
3番目の写真はヤミ市の写真です。