後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ルピナスの花の植物学」

2025年02月21日 | うんちく・小ネタ
ルピナスという名前はラテン語でオオカミを意味するルプス (lupus) という言葉に由来する。

牧野富太郎は、どんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させた、塚本洋太郎は、ルピナスが大地を破壊すると畏怖されており、そこからオオカミが連想されてこの名がついたと著書で言及している。

これに対して中村浩は、語源はオオカミではなく、ギリシア語で悲哀を意味するルペー(リュペー、λύπη)であると推定する。ルピナスの豆(種子)は苦く、噛んだ人が苦虫を噛み潰したような表情になることが、その根拠であるという。

暑さに弱く、暖地の気候にはあまり合わない。この属は、アメリカや地中海沿岸地域などに分布し300種類以上ある。古代には食用、飼料用、石鹸の材料として利用された。日本では、明治期に緑肥用作物として導入された。園芸植物としての栽培が始まったのは近世になってからで、1911年にジョージ・ラッセル(英語版)が改良種を開発し、多様な園芸種が作られるようになった。現在は園芸植物としての栽培が一般的である。

詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%8A%E3%82%B9%E5%B1%9E をご覧ください。

「ニュージーランドの野原に自生する野生のルピナスの花」

2025年02月21日 | 写真
ルピナスの花は世界中に咲いております。南半球のニュージーランドにも咲きます。
2枚の写真はニュージーランドの野原一面に自生するルピナスです。(https://naturenz.net/?p=3210 )

「北海道の大雪山の麓に咲くルピナスの写真」

2025年02月21日 | 写真
北海道の大雪山の麓に咲くルピナスの写です。
北海道でも種を蒔けばルピナスは咲きます。大雪山の麓では野生化して一面に咲いています。
写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx... です。


「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」

2025年02月21日 | 写真
昔に南ドイツのシュツットガルトに住んでいました。西側には黒い森があります。郊外の草原をよく散歩したものです。そこにはルピナスが一面に咲いていました。懐かしい光景です。インターネットに「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」という写真集があります。(ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス - ルピナスのストックフォトや画像を多数ご用意 - ルピナス, 花, ルピナスブルーボネット - iStock (istockphoto.com) )
4枚の写真をお借りしてお送り致します。



「修善寺温泉と川端康成の『伊豆の踊子』」

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
伊豆半島にまつわる話を書きます。修善寺温泉と川端康成の『伊豆の踊子』について簡略に書きます。
修善寺温泉は何度か訪ねた懐かしい嘗遊の地です。
修善寺温泉には夏目漱石、井伏鱒二などが滞在しましたことも有名です。
修善寺川が流れており、私は河原の野天風呂にも入りました。川沿いには温泉旅館が並んでいました。町並みは昔風で伊豆の小京都のような雰囲気がありました。
歴史的には1194年には源頼朝の弟の範頼が自刃に追い込まれた町です。また1204年には頼朝の子の頼家が暗殺されています。鎌倉幕府を作った源頼朝の所領地だったのです。
岡本綺堂の「修善寺物語」に頼家の死をめぐる夜叉王とその娘達の桂と楓の話があります。
写真に修善寺温泉の風景を示します。家内が撮った写真です。
さて以下で端康成の『伊豆の踊子』のあらすじをご紹介します。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E3%81%AE%E8%B8%8A%E5%AD%90 です。
====伊豆の踊子』のあらすじ================
20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人伊豆への旅に出る。「私」は、湯ヶ島の道中で出会った旅芸人一座の1人の踊子に惹かれ、天城峠のトンネルを抜けた後、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。
天城峠の茶屋の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、湯ヶ野の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。
「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる無垢で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。
下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。
別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を下田港の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。
船がずっと遠ざかってから、踊子が艀で白いものを振り始めた。伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。(終わり)
この作品の冒頭の原文は次のようです。http://geo.d51498.com/seppa06/0401kyokasyo/9810izu.htm より転載しました。
『伊豆の踊り子』
 
  道がつづら折りになって、いよいよ天 城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい速さ でふもとから私を追って来た。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり紺がすりの着物にはかまをはき、学生カ バンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に 出てから四日目のことだった。修善寺温 泉に一夜泊まり、湯ケ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って 来たのだった。重なり合った山々や原生 林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私 は一つの期待に胸をときめかして道を急 いでいるのだった。
・・・・以下省略します。・・・・
原文には当時の伊豆半島の深い原生 林が描かれています。その雰囲気が踊子の娘を一層ロマンチックな存在にさせています。現在でも伊豆半島の真ん中の道は原生林が鬱蒼と覆っています。その道を若かった川端康成は踊子の旅の一座と一緒に下田まで歩いたのです。『伊豆の踊子』は川端康成の処女作のような作品です。
現在は浄蓮の滝から湯ケ野に到る旧道が「踊子歩道」として整備されています。
今でもこの作品に誘われて伊豆を訪ねる人が多いといいます。
 
今日は修善寺温泉をご紹介し、続けて川端康成の『伊豆の踊子』のあらすじを書きました。
 
 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「伊豆半島に遊び地質学の面白さを想う」

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
以前に何度か車を運転して伊豆半島に遊びに行きました。
三島から伊豆中央道路で、溶岩の盛り上がった中央山地を通り、天城峠を越え河津に下たこともありました。
河津川の岸辺に延々と咲き乱れる河津桜のもとを散歩したのです。
その時に河津で撮った菜の花の写真を示します。
1番目の写真は河津川の岸辺に咲いていた菜の花です。
河津で桜と菜の花をゆっくり見たあとは伊豆半島の東海岸沿いに熱川、稲取、伊東と北上し、火山の小室山の麓で金目鯛の昼食をとり、小室山に遊びました。
2番目の写真は火山の小室山です。
写真のように小室山は小さな火山で頂上までリフトで簡単に上がれます。
頂上からは火山の大室山や富士山や大島の三原山が鮮明に見えます。
この伊豆半島に来ると、その奇異な地形から地質形成の歴史への興味がむらむらと湧き上がってきます。
そして伊豆半島の火山群は富士や箱根の火山群とどのような関係があったかという疑問も湧きあがります。
まず富士山と箱根の噴火による形成の模型展示図を示します。
3目の写真は富士山と箱根の噴火による形成の模型展示図です。
この展示はつくば市にある地質標本館にあります。
詳しくは、https://www.gsj.jp/Muse/about/outline.html をご覧下さい。
簡単に言うと箱根は約16万年前に噴火して出来た古い火山ですが、富士山は2万年前に出来た新しい火山なのです。
さて伊豆半島はどうして出来上がったのでしょうか?
驚くことに伊豆の火山群は富士・箱根と全く関係無く南太平洋の火山島がフィリピン海プレートに乗って移動して本州へ衝突して半島になったのです。
本州で唯一、フィリピン海プレートの上にのって出来た半島なのです。
伊豆半島に行くたびに「違う!房総半島とはあまりにも違う!」と独り言を言っていましたが、その原因は地学のおかげで明快に判ったのです。
下に伊豆半島の形成の歴史を図示した写真を掲載します。
4番目の写真は伊豆半島の形成の歴史を図示した写真です。
この図の出典は、http://izugeopark.org/izugeomain/ です。
この図を是非拡大してご覧ください。
伊豆半島の歴史は地層などの証拠などによって約2000万年前までたどることができます。
約2000万年前、伊豆は本州から数百km南、現在の硫黄島付近の緯度にあった海底火山群でした。フィリピン海プレートの上にできた海底火山や火山島はプレートとともに北に移動し、やがて本州に衝突して現在のような半島の形になりました。約60 万年前のできごとです。
半島となってから約20万年前までは、陸上のあちらこちらで噴火が起き、天城山や達磨山といった現在の伊豆の骨格を形づくる大型の火山ができました。
これらの大型火山の活動が終わると、日本には数少ない単成火山群の活動がはじまり、現在は「伊豆東部火山群」として活火山のひとつとなっています。
美しい円錐形をした大室山と上の写真で示した小室山はこの単成火山の実例です。
こうした二重三重の地質学的特異性が、多くの美しい景観や温泉を有する伊豆半島を形作っているのです。
地質学的には伊豆半島は、世界のどこを探しても同種の例を見ない、地球上の特異点とも言われています。
なお、隣の三浦半島は数十万年前に海底が隆起して出来たのです。
伊豆半島を旅する度にその形成の悠久な歴史を想います。その歴史を想いながら美しい風景を眺めるとまた感慨が一層深まるのです。
そして明治のはじめに 東京大学設立当時の最初の地質学教授であり 地質調査所の設立にも貢献した ウ ーノ ン. エドムント ・ナウマン (Edmund Naumann) に深い感謝の念を覚えるのです。
ナウマンはナウマン象の発見者としても有名です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「遥かなる西伊豆の戸田と三津浜の美しい海の風景」

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
私は駿河湾の向こうに富士山の見える風景が好きです。
そんな風景の見える所は西伊豆の沼津から伊豆半島の三津浜から戸田にかけての西浦地方の海岸です。
東京からは遥か遠方なので観光客がめったには行かない地域です。
その戸田には昔、家内と泊まった楽しい思い出があります。それから駿河湾では北欧風のヨットで2009年に帆走した思い出もあるのです。
ある晴れた日に家内と一緒に車で西伊豆の海岸の風景を楽しむ旅に出ました。西伊豆の旅の後は宇佐美に出て湯河原温泉に泊まりました。
それでは伊豆半島の三津浜から戸田にかけての西浦地方の海岸の風景写真を示します。

1番目の写真は内浦湾の重須ヨット係留地の風景です。
ヨットのマストの上に富士山がぼんやり写っています。晴天でしたが富士山には薄い雲がかかっていて鮮明には見えませんでした。

2番目の写真は重須ヨット係留地から海沿いに車を走らせたところの風景です。養殖用のいかだの前にヨットが並んでいます。

3番目の写真は更に南下した場所のヨットの係留風景です。
伊豆半島の西側はヨットの係留料金が格安なのです。その上、漁協が経営している係留地が多く、安心してヨットを係留出来るのです。そのため多くの東京の人は沼津から伊豆半島の西海岸にヨットを係留しているのです。

4番目の写真は三津浜に近い漁港の風景です。岸壁は漁船が使い。ヨットは沖に係留します。

5番目の写真は2009年の5月に乗せて貰ったハンスクリスチャン41という北欧風の木造のヨットです。
当時あった東京湾ヨットクラブの帆走技術の先生をしていた毛利さんが船長をしてくれました。

6番目の写真はそのハンスクリスチャン41で駿河湾を帆走している場面の写真です。
五月晴れの日だったので雪のある富士山が駿河湾の上に輝いていました。

7番目の写真は戸田港を高台から見下ろして風景です。
湾を囲んでいる岬は潮流が運んだ砂が砂洲となりやがて樹木が生い茂って半島になった珍しい地形です。伊豆大島の波浮港のような火口湖ではありません。
戸田の町は現在、沼津市に合併されて沼津市戸田町と呼ばれています。
写真の左奥の戸田峠を越すと修善寺へ行けます。修善寺からはもう一つの峠の亀石峠を越すと相模湾側の宇佐美に出ます。
この山岳道路は険しい道でした。それでも午後4時には湯河原温泉の三枡家に着きました。
途中の三津浜では貝殻亭で食事をしましたが、魚類の新鮮さと美味しさに家内も感動していました。
その後でこの地方の特産品の西浦ミカンを一箱買いました。帰宅後、賞味しましたら美味絶佳の昔風のミカンの味で、これにも感心したのです。

今日は西伊豆の戸田と三津浜の美しい海の風景をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「遥かなる伊豆、美しい伊豆半島の東海岸」

2025年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
伊豆半島は感動的の美しい自然に覆われています。自宅から遠い場所ですが何度も泊りがけで行きました。
伊豆半島の東側の観光名所は城ガ崎海岸、一碧湖、池田20世紀美術館、稲取漁港、外浦海水浴場、爪木崎の野生の水仙群生地、須崎のえびす島、下田の玉泉寺、などなどです。
私の旅日記をご紹介したいと思います。
しかし旅日記の前に伊豆半島がどのようにして出来たかを書きたいと思います。
伊豆半島は小さな火山の連続的爆発で盛り上がった山々が半島になったと考えられます。従って山々が急峻で、黒い溶岩が固まった凸凹の激しい地形になっています。溶岩がそのまま海に流れ落ちて崖になっていて、その崖が伊豆半島をぐるりと囲んでいます。それでも注意深く観察すると狭い砂浜が所々にあり小さい漁船が発着できます。堤防で囲って漁港が崖のくぼみにあります。
溶岩で出来た半島なので稲作や畑作は無理です。しかし人間は山影にしがみつくようにして住んでいます。温かい黒潮が半島を洗っているので冬でも温暖です。山々は常緑樹で覆われています。ミカンの栽培が盛んです。関東地方の平野にはケヤキ、クヌギ、コナラ、カシワなどの樹木が生えていますが、伊豆半島はタブノキ類の木種で覆われています。その植生は武蔵野と全く違います。伊豆半島は伊豆七島の大島や神津島、そして八丈島と土地の出来方が非常に良く似ています。
本州に繋がっていますが、元来は伊豆七島のように太平洋に浮かぶ島だったのかも知れません。植生が本州とあまりにも違うのです。伊豆半島は別世界なのです。
伊豆半島を紹介する方法はいろいろあります。多くの観光名所もあります。しかし私はこの半島が伊豆七島の親類だということを最初に強調したいのです。写真は家内が撮ったものです。私は伊豆半島の自然を調べ車の運転を担当しました。
早速、伊豆半島の東海岸から撮った伊豆七島の写真を示します。北から大島、利島、新島、式根島、神津島、遠く離れて三宅島があります。そして八丈島や青ヶ島もあります。このように島の数は多いのですが略して伊豆七島と言います。あいにく天気の悪い日の夕刻でしたので暗い寂しい風景です。
1番目の写真は伊豆半島の稲取海岸から見た伊豆七島です。左から新島、それに付いているように見える小さな式根島、そして右へ離れて神津島が写っています。大島は左の方で視界に入って居ません。
2番目の写真も稲取海岸から見た新島です。そして右へ離れて神津島です。
3番目の写真の真ん中は大島です。左の岬は伊豆半島です。稲取海岸から北へ数キロ行ったところから撮った写真です。
半島が伊豆七島の親類だという話はこれくらいにして以下では伊豆半島の城ガ崎海岸と下田港、玉泉寺などをご紹介いたします。
4番目の写真は城ガ崎海岸です。この日は良い天気でした。
5番目の写真は城ガ崎海岸の岩礁に砕ける波の光景です。
6番目の写真は下田港です。ヨットが舫っています。

7番目の写真は下田の玉泉寺にあるペリー艦隊の兵士の墓の写真です。
玉泉寺の裏山には、ペリー艦隊の5人の死亡者のお墓もあります。

今日は「遥かなる伊豆、美しい伊豆半島の東海岸」をご紹介致しました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしい山形蔵王山のスキー場の写真」

2025年02月19日 | ブログ
茫々65年前の大学生の頃、山形蔵王のスキー場に何度も通ったものです。一緒にスキーをした萩生田君は故人になってしまいました。
山形蔵王は当時は高湯と言ってました。私は仙台に住んでいたので仙山線で山形まで行き、そこからはバスで高湯まで上ったのです。そしてドッコ沼の小屋に泊まったものです。
現在、高湯は山形蔵王と呼ばれスキー場は昔のままの風景です。
その昔のままの風景の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。


「冬の忍野八海の水の美しさ」

2025年02月19日 | 写真

富士山の忍野八海は車で90分で行けるので気軽によく行きました。富士五湖の山中湖の傍にある昔風の集落の中にあります。忍野八海は特に水が綺麗で中を泳いでいるヤマメやマスが鮮明に見えます。なんとかして、水の美しさを写そうと、いろいろ苦心して撮影しました。

冬の忍野八海の水の美しさをご想像しながらお楽しみ頂いて下されば嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

011 


「冬の琵琶湖の風景」

2025年02月19日 | 写真
箱根の関から東側に一生住んでいると、「琵琶湖」が色々な意味で憧れの湖として心に棲みついてしまいます。そんな湖のほとりにネットの上での友人の ちひろ さんが住み、何時も感性豊かな写真をブログへ掲載しています。何故か写真作品へ心が引かれ何度も転載の許可を頂いて、このブログでご紹介して来ました。何度、掲載しても飽きないのです。今日も初冬の琵琶湖風景の写真を3枚ご紹介します。心が静かになり安らぐような写真です。初冠雪の山稜は比良山の山並みだそうです。(http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/
尚、ついでに ちひろ さんからのご返事の一部も下に
ご紹介します。最近、あまり見ない美しい日本語ではありませんか?
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

8ebff9bba7f868a9c06816d5a86339791 26a02e4c6ddae39745a5045e8a3e83e01 1e71438cb224ff769e54f16eb5d938dc1 

=====ちひろさんからのご返事の一部=======

とても皆様に見ていただけるような画像ではありませんが、取り上げてくださって光栄に思います。
自然の風景や花々、そして小鳥たちが私の身近な慰め人のように優しくしてくれます。
そしてブログ友さま方の暖かいコメント、コメントを頂かなくてもただブログやホームページを覗いてくださるだけでも、嬉しくて励みとさせていただいております。
藤山さまの仰るようにブログって素晴らしいですね。
今宵も素敵なお月さまが「元気かい」って、笑顔を見せてくださいました。
素敵な秋の夜長をお過ごしくださいませ。     ちひろ 拝 


「冬の武蔵野、雑木林の中の散歩道」

2025年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
以前に八王子の郊外の都立小宮公園によく行きました。四季折々の雑木林が美しい所です。冬の風景もよいものです。
落葉した梢の美しいシルエットを飽かず眺めたのを思い出しました。冬の雑木林は静かで幻想的な雰囲気です。
小宮公園の雑木林の中の散歩道の写真をお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「韓国人はお祭りやイベントが好き」

2025年02月18日 | 写真
日本の技術援助で韓国南東地域の浦項に近代製鉄所が出来た。技術研究所の所長は、以前東京大学にいた金鉄祐氏でした。その頃、私も東大で働いていたので金鉄祐氏と仲良くなりました。その彼に招待されて韓国へ講義に行ったのです。1985年に妻と一緒に行きました。
 
そうしたら韓国人は祭りやイベントが好きなのです。祭りやイベントを開催して楽しく暮らしているのです。日本人の祭り好きとよく似ています。そんな韓国の祭りの様子は、「韓国のお祭り2014」に数多く紹介してあります。その中から私の気に入った祭りを5つ選んでご紹介いたします。http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_5.jsp?cid=977374 を開けてみて、あなたのお好きな祭りを選んでみるのも楽しいと思います。
(1)ソバの花が主役の祭り:平昌孝石文化祭り
1番目の写真は平昌孝石文化祭りです。
韓国現代文学の大家、李孝石(イ・ヒョソク)の故郷である平昌(ピョンチャン)郡の蓬坪にある孝石文化村は彼の代表作である「蕎麦の花の咲く頃」の舞台でもあります。この祭りでは、作品に登場する地域を巡るコースや様々な民俗体験イベント、文学・料理イベントを楽しむことができます。また、祭りは白い蕎麦の花が蓬坪一帯を覆う最も美しい時期に開催されるため、見どころいっぱいの祭りといえます。 会場:江原道 平昌郡 蓬坪面の一帯(文化村一帯)
(2)菊の花が主役の祭り:カゴパ菊花祭り
2番目の写真はカゴパ菊花祭りです。
馬山(マサン)は韓国で初めて菊の栽培を始め、初めて日本に輸出もしました。2000年から開催されたカゴパ菊花祭りのイベント会場では、雄壮なフラワーゲートや5千輪の菊で作った菊の丘、菊のキャラクターのある花の塔など美しい菊が満喫できます。 会場:慶尚南道 昌原市 馬山第1埠頭の一帯 
(3)漢城百済時代の文化が感じられる祭り:漢城百済文化祭
3番目の写真は漢城百済文化祭です。
ソウル特別市松坡(ソンパ)区一帯は2000年前、約500年間漢城百済(ハンソンペクチェ)として都があった場所です。ソウルの歴史が始まったといえるこの地には、風納土城や夢村土城など由緒正しい遺跡があります。燦爛たる花の漢城百済時代の歴史や文化を感じられるお祭りです。 会場:ソウル特別市 松坡区 オリンピック公園一帯、慰礼城大路、風納キョンダン歴史公園など
(4)韓国の民謡、アリランの哀愁を懐かしむ祭り:旌善アリラン祭り
4番目の写真は旌善アリラン祭りです。
旌善(チョンソン)アリラン祭は、保存と継承の発展のため、自然と人とアリランがひとつになる祭りです。旌善アリランの哀歓をこめたアラリいかだの再現、旌善アリランや拍子を覚えるアリラン体験やカムジャジョン(ジャガイモのチヂミ)やメミルジョン(蕎麦のチヂミ)などの料理体験などがあります。また故郷の香りをいっぱいに感じられる、躍動力あふれる旌善市場(伝統市場)は、祭り期間中は毎日開催され、農産物や食べ物を安価で購入できます。 会場:江原道 旌善郡 公設運動場、朝陽江の一帯 
(5)薬草と韓方薬の祭り:智異山(山清)韓方薬草祭り 5番目の写真は智異山(山清)韓方薬草祭りです。智異山(山清)韓方薬草祭りは、健康に関心がある現代人にぴったりのお祭りです。この祭りでは自宅でハーブのように育てて食べられる薬草の鉢植えや薬草を材料にした韓方料理などを展示して、観光客にわかりやすく薬草を伝えています。 会場:慶尚南道 山清郡 山清インター入口の祭り広場および東医宝鑑村の一帯。

今日は韓国のいろいろなお祭りをご紹介致しました。韓国の祭りは色彩豊かで派手ですね。日本より中国に近い文化と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)