575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「六根清浄 お山は晴天」~巡礼の道~ 竹中敬一

2016年11月11日 | Weblog
40年前、ドキュメンタリー「木曽の四季」を制作しました。
その取材で、御嶽山へ登ったのですが、当時、山頂を目指すのは、
圧倒的に六根清浄を唱えながら杖を手にした白装束の人たち。
山頂の御嶽神社奥社への登拝が目的でした。

御嶽神社の神官、武居家に残る室町時代の資料によると、
御嶽登拝は百日精進などの重潔斎をした者だけが、
年に一回6月14日に許される習わしだったそうです。

それが、江戸時代になって、春日井出身の覚明行者が黒沢口から、
武蔵の普寛行者が王滝口からのそれぞれルートを開き、以後、
御嶽講が組織されて、全国的に信者が広がっていきます。

私の住む日進市には、岩崎御嶽山があります。
尾張地方に御嶽講が結成されるようになったのは、1800年代初めのことで、
その拠点となったのが、岩崎御嶽山です。(日進市史)

米野木地区に伝わる御嶽詣でに関する資料が残っています。(日進町誌)
明治19年 (1886 )、村の戸長に提出した「旅行御届」というもので、
差出人は米野木地区四ヶ村の農民。(意訳します)

「右の者、今般、長野県下信濃国の御嶽神社へ志願につき、
参拝の仕度をしております。
本日、出発して、同11日まで、日数は10日間です。
旅行受け人とも連署をもって、この段、御届け申し上げる次第です。

      明治19年9月2日 武田市五郎 加藤栄重 (旅行受け人)

四ヶ村 戸長 武田弘 殿」

御嶽詣でだけではなく、伊勢神宮や善光寺へ行く時にも、村の責任者に
旅行日程を提出するよう義務づけられていたようです。

先達以下、村の代表10数名は、今の国道19号線、下 (した)街道
(江戸から中山道と名古屋城下を結んだ脇街道 )を歩いて、春日井に入ります。

郷土誌「かすがい」によると、「春日井では新しいワラジにはきかえて、
内津峠 (うつつとうげ )で昼飯、釜戸か大井で一泊。木曽谷でもう一泊、
御嶽山に近い村で更に一泊して4日目から頂上を目指した」とあります。

明治43年 (1910)中央線が木曽福島まで開通すると、下街道からの
御嶽詣での人たちの姿は消えていきました。

御嶽山の麓には、夥しい数の霊神碑がありますが、御嶽山五合目には米野木地区の
霊神場があり、今でも夏場、信者が20人位が参拝に訪れているそうです。

専門機関の調べでは、御嶽山は2万年前までに、何回か大噴火を起こしており、
ある時は火山灰や軽石 (テフラ)が関東地方にまで降っています。
また、大規模な山体崩壊で、土砂が王滝川、木曽川流域を埋め尽くして、
下流の愛知県犬山市に、その泥流の堆積物が残されているということです。

精進潔斎した者だけが年に一回だけ、御嶽山への登拝を許されるという厳しい掟は、
遠い遠い昔からの言い伝えをもとにしたものとも考えられ、今の私たちに
何か警告のシグナルを送っているように思われます。

               

写真は、画用紙にペンで描いた作品。「狛犬」です。(縦10cm X15cm)
作者は、敬一さんの息子さん。竹中健さんです。
               

(ちょっと箱根へ行ってきます。遅足)


コメント
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