575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

籐椅子の籐ほどけるも俺の所為   朱露

2009年07月04日 | Weblog

   名古屋・東京・名古屋・豊橋が三カ所あり。
   壊れたりすり切れたりしないのは人間だけ。
   良くも悪くも一切の責任は私にあるのかな。
   と、ボロ籐椅子に沈んで思いめぐらす夏だ。
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柿通信    角寿

2009年07月03日 | Weblog
ご無沙汰してます。
なんだか、はっきりしない梅雨ですね。
柿のほうもこの時期は、あまり変化がなく、
実の成長も止まっているようです。

   

柿はどの位、大きくなったのかな?
と、思っていました。
だんだん実も大きくなっていますね。
そういえば、稲沢の工場の屋上が緑化され
カルガモの子が生れたとか。
秋が楽しみ・・・

              (遅足)



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蓮池に死ぬ気配ない鯉数匹    朱露

2009年07月03日 | Weblog


    赤岩寺の大池には山の清水が落ちている。
    蓮の葉が密生し殆ど水面が見えない程だ。
    眼を凝らすと居るは居るは巨大な黒鯉群。
    何を食って何年生きていて生き甲斐は何。

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タガソデソウ(誰袖草)       草女

2009年07月03日 | Weblog
 優雅な名前を持つのはナデシコ科ミミナグサ属の30~50cmの多年草。花は
直径2cmとこの仲間にしては大きく、ややうつむき加減の白い花は名前にふさわしく優美である。上高地、河童橋付近の堤のあちこちに咲いているが、群生してはいない。賑やかに大勢の人々が行き交うのに誰も見ようとしない。無理もない人々は、足元はあまり見ない、美しい山や川を見にきているのだから。

 古今集「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも」からの着想で、衣服の袖の形にした楊枝いれや匂い袋もあったという。また、様々な豪華な女性の衣装を衣桁にかけた図も誰袖といい、屏風絵などに用いたという。

 タガソデソウは絶滅危惧Ⅱ類の草で、長野県と山梨県にしか生息しない。と言っても、私は上高地でしか見たことがない。そんな数少ない草にこのような名前を付けた人はどんな人だろう。植物にも文学にも精通していた人かな。

 私は写真に撮ると、観察したような気になり、匂いを嗅いだり、触ったりすることが疎かになってしまう。いつも反省するが、そのときはすっかり忘れ果て写真が撮れているかどうかが気になっている。今回も同じでタガソデソウに香りがあるかないかわかっていない。、来年また上高地にこの時期いくことができるように願うばかりである。



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半夏生   麗

2009年07月02日 | Weblog
夏至から11日後、今日は半夏生です。

関西ではこの時期タコを食べます。意識していた訳ではありませんが
私も最近よくタコとキュウリの酢の物を作ります。
今季ゴーヤチャンプルも夕食に初登場。
毎晩のように枝豆もゆでます。

そんな折り見つけた「塩入れて湯の立ち上がる半夏生」(正木ゆう子)

さりげない家事仕事に半夏生をあわせる巧みさ。日常を大切にする作風を目指したいものです。
でも昨今のニュースを見ているとなんともいえぬいらだちも感じてしまいます。
そこで時事句を作ってみました。蒸し暑さが増してきます。

          解散の風も吹かない半夏生    麗
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俳句教室お休み   遅足

2009年07月01日 | Weblog
中京大学で新型インフルエンザの患者が出て
俳句教室も、お休みとなりました。
いよいよ新型インフルエンザも身辺に・・・

   

正木ゆう子さんの句集「静かな水」を
パラパラとめくってたら、
地下鉄 四句として冒頭にこんな句が。

  地下鉄にかすかな峠ありて夏至

一度、地下鉄を詠もうと試みたのもこの句を読んだことから。
なぜ、この句に魅かれるのか?

人工的な都市空間で、自然から一番遠そうなもののひとつが地下鉄。
季節感はほとんどない。
なのに、わずかな高低を感じる身体感覚。
それを夏至という季節感に取り合わせるセンス。
地球というか、宇宙感覚と、身体感覚が共振して
この句が生れたのだろうか?

都市のなかに残された自然としての人間の身体。
その身体が宇宙とつながっているという発見。
それが、私のココロを揺さぶるのだろうか?
哀しい句かも・・・











  
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時間はどこで生れるのか? 遅足

2009年07月01日 | Weblog
92歳の母をみていると、自分が転んだことは覚えていますが、
それが昨日だったのか?一昨日だったのか?は定かではありません。
さらに、30分前に、飲んだ薬のことを、もう忘れています。
加齢によって、時間の観念が失われていくのがよく分かります。

時間とは、一体、なんなんだろうか?そんな疑問が湧いてから
あちこちの本を読みましたが、今ひとつでした。
そして、出会ったのが、この本。
「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書)。
物理学の研究者の書いたもの。
ミクロの世界では、時間も空間もない、
というのが常識だそうです。(ビックリ)
そうした常識?を土台にした時間論です。
難しくて、ほとんど理解不能でしたが、
なんとなく気に入った部分もありました。
こんな一節です。

時間は、刹那、刹那の生命の意思が作り出すもの。
生命の個体が外部から干渉をうけ、自らの行動を決断する。
その刹那、刹那から、主観的な時間が生まれる。
そうした主観的な時間には、現在しかない。

たしかに、母の話を聞いていると、「いま」が中心。
極端に言えば「今」しかありません。子供と同じ。
さっき言ったことと矛盾していても無頓着。
その時、その時の欲求にしたがっているのです。
これが、生きていることか!と思いました。

本は、もうひとつの時間について、こう説明しています。
この刹那、刹那の意思が「記録」されるようになると、
生命は誕生から死へつながる一連の自己を意識する。
こうして時間も向きや流れが意識される。

たしかに子供から大人になるということは、この時間を
身につけていくことにようです。
そして、加齢によって、この記録装置が壊れしまうのでしょう。
社会的な行動に齟齬が生じてきます。

しかし、生きているかぎり、「今」を楽しむことは出来るのです。
時間の創造は宇宙の創造である、という著者の言葉に、
納得するものがありました。

  かたつむり銀河の水をのみにゆく





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