575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

シマトネリコ                草女

2010年07月16日 | Weblog
久し振りに栄の好日山荘という登山用品店に行ってきた。道路を隔てた隣のビルがすっかり完成し、落ち着いた雰囲気になっていた。ソニーの関係らしいそのビルは歩道よりかなり奥まって建てられ、空いた空間に6~7mもありそうなシマトネリコが何本か植えられて、いい感じになっている。

 3,4年前から、シマトネリコを植えている家が増えてきた。モクセイ科トネリコ属の常緑高木で、自生しているのは、沖縄、台湾等で暑さには強い。耐寒性には少々難ありだが、今の名古屋なら大丈夫。なんといってもサラサラとした葉の様子が涼しげで爽やかである。雌雄別種で薄いクリーム色の小さな花を円錐状に付ける。6~7月に咲き、8~11月に白い実を結ぶ。涼しげで爽やかなのは、他の常緑樹と違い枝振りが粗く光を通し、奇数羽状複葉の小葉は明るい緑色で少しの風でも揺れるからだろう。

 日本に自生するアオダモ、海上の森にあるマルバアオダモも同じ仲間であるが、これらは全て落葉樹であり、シマトネリコほど成長が早くない。シマトネリコを植える理由はよく分かる。見た目がいい、成長が早い、強い木である。けれど一抹の不安がある。名古屋等の都会に植えられているうちはいいが、森が近いところでは野に逃げ出す可能性が高いとおもう。ニセアカシア、シンジュなどは、同じ様な理由で導入され野に逃げ出している。海上の森では、現在のところ入り口で留まっているが、いずれ
森の中に届くだろう。売る人も買う人も野生化の可能性を考えて欲しい。


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明け方の出水のラジオ人の息    朱露

2010年07月16日 | Weblog

   七月十一日早朝木曽川水難事故続出。
   聴くに耐えず起きこれを書いている。
   大波に巻かれ岩に激突した子供の私。
   息をするのがやっとの胸苦しい記憶。

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夏座敷碁盤碁石と座布団と    朱露

2010年07月15日 | Weblog


    むしゃくしゃすると必ず棋譜を並べる。
    むしゃくしゃしなくても好局を並べる。
    六畳間に碁盤と碁石と座布団しかない。
    こんな途方もない贅沢をしていいのか。

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夏の色

2010年07月15日 | Weblog
句会が近づいてきました。
皆さん、夏の色は見つかりましたか?なかなか難しいお題でしたね。

先日、映画「オーケストラ」を見て来ました。
旧ソビエトのブレジネフ政権時代で迫害されたある交響楽団。
ふとした偶然から解散した楽団を再結成。
チャイコフスキーの名曲「ヴァイオリン協奏曲」をパリで演奏することになり。。。
笑いあり、涙ありのすばらしいロシア映画でした。

大きな劇場では公開されませんでしたが秀作に出会え、梅雨の晴れ間を見た気分でした。

遅足さんの旅のレポートを読んで私の旅心も刺激されました。
明日から一泊で金沢へ出かけます。どんな色に出会えるかな?

     夏の色探して能登へ旅に出る   麗
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句会近づく     遅足

2010年07月14日 | Weblog
今回の宿題は「夏の色」
狗子さん、ちょっと困っているとか・・・
たしかにイメージがつかみにくい宿題ですね。
もうしわけありません。反省!

私は、子どもの頃の夏の思い出を
句にしようかと苦戦中。

それは白い父の背中です。
小学生の一、二年生のころ、豊橋の御馬海岸へ。
新聞社の支局長で多忙だった父との海水浴。
父の裸を見るのは、珍しかったのでしょうか。
日焼けしていない背中の白さが印象的でした。
子どもたちは真っ黒になって遊んでいた時代です。

  裸子を追う父の背の白さかな

あの御馬海岸の海のきれいだったこと。
もう帰らぬ日々です。

写真はHさんが中国で撮影された「あおいケシ」です。
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八月や戦争知らぬ男たち     朱露

2010年07月14日 | Weblog


    六十前後の男二人ラジオで対談。
    大学教授と歌手で皆知っている。
    但し彼らは戦争を知らない子供。
    で、どうしたの? ということ。

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感性、お若いですね   鳥野

2010年07月13日 | Weblog
先週4日の日曜日。中日歌壇をご覧になった方は多いと思います。

 
 ・ 初夏の水の眼に手を沈め瞳のごとき石を取り出す

遅足さんの作品です。岡井隆の選に入りました。

評は「水の眼は泉のようなものか。その底にある石を瞳にたとえたのだ。
どこか象徴詩のような味わいのある歌で、解釈はいろいろありうる」

石を瞳にたとえる修辞。お若いですよね。

不安定で鬱陶しい気候に爽やかな風を送っていただいて感謝。

今後もご健詠を。わくわくして待っています。
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二人ほど水鉄砲で銃殺す    朱露

2010年07月12日 | Weblog

   ヒトの娘はナニジンであっても美しい。
   ヒトの中年男は例外は認めるが卑しい。
   何故こうなるか人類史的テーマである。
   模範解答、自信満々中年男は見苦しい。

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この夏会いたい花         愚

2010年07月12日 | Weblog
 連れ合いの植物歳時記をめくっていたら、素敵な植物に出会った。

 夏の高原に咲いて、青紫の長い花穂を風に揺らせている。

 いかにも爽やかで涼しげである。

 僕が知っている植物では「虎の尾」という植物そっくりである。

 だから「紫虎の尾」という名前かと思ったら、「九蓋草くがいそう」だという。

 名の由来は花ではなく葉の付き方からきていて、数枚ずつ十数段に輪生する様子が

 多宝塔九輪や仏のかざす天蓋に似ているからだという。

 いずれにせよ、この草の群生地は高原のの草地や渓流のほとりだという。

 さてさて、二階に上がっても息の切れる私。まずは体力をつけなくては。

  みな里へ向きて吹かれて九蓋草  青柳志解樹

  紫の穂の凛としてクガイ草    平林孝子
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四姑娘山       遅足

2010年07月12日 | Weblog
山大好きのHさんが、中国四川省の山旅をしてきました。
高度3000~4200mで、酸素不足と過酷。
山を走る道路もひどい状態で、がけ崩れで3回通行止めに遇ったそうです。
写真は、四姑娘山(スークーニャンシャン) 6250m。

良いですね。写真、ありがとうございます。
私なら生還できなかったでしょうね。



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からだより水洩るる音麦の秋   遅足

2010年07月11日 | Weblog
船団のえなみドクターの診断です。

いい感じではあるが、季語との響きが
分かりにくかったです。

   

麦の秋、という季語が持っている
イメージについて、充分な確信を持てぬまま
なんとなく良いかな?という感じで
取り合わせてしまったようです。
ウエットな季語ではダメだなという気が
していますので、さらに考えます。
ありがとうございます。

    


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釜山への旅⑤   釜山   遅足

2010年07月11日 | Weblog
        写真は魚市場

釜山に近づくにつれて、高層マンションが次々に目の前に。
韓国の南の玄関口、人口は380万の大都市。
港には、山が迫っており、その山は中腹までマンションや住宅がびっしり。
世界第5位の港湾都市であり、超過密都市でもある。

フェリー乗り場も国際色豊か。
入国すると、すぐにオジサンが近づいてきて、
円をウォンに両替よ、と近づいてきます。
銀行の窓口で1万円を両替、127000ウォンでした。

港のお隣は、ジャガルチ市場(シジャン)つまり魚市場。
3階建てのビルの一階や、周囲にはお店がずらり・・・
とれたての魚、貝、イカ、生きているタコなど。
おばさん(アジュンマ)の威勢のいい声が買物客に飛んでいきます。

店先に並んでいる魚を買うと、その場で料理、奥の部屋で味わうことが出来ます。
仕事が終ったサラリーマンが、夕食をかねてやってくるそうです。
ここの人々は、港町のせいか、開放的で、
言葉も日本でいえば大阪弁にあたるとのこと。

  真剣なうなぎ逃げ出す魚市場

釜山ではホテルに泊まり、朝食はパン。
魚介類の続いた胃袋は少しほっとしたようです。

街を走る車は、日本でいえば3ナンバー。軽乗用車はまったく見当たらない。
スピードを出しているうえに、割り込みなど、運転が荒い。
一旦事故が起きるとダメージが大きいので、小さな車は敬遠されているそうです。

30年前に訪れた時のウォンをガイドさんに見せたら、?・・・という反応。
みたことがないとか。
また当時、タクシーは相乗りだったが、今は禁止されているという。
今では、日本の都市よりも元気でエネルギーに満ちている。

前のガイドさんは、観光地を訪れると
「ここは秀吉に焼かれました」と説明していたのが印象的でした。
今回は「この橋は日本人が造りました」と。
インフラの整備に日本人の力があったことを解説。
時の流れを感じました。

韓国では「顔が広い」ことを「足が広い」というそうです。
旅の仲間のKさん、とても足が広く、
知り合いの知り合いというSさんが、
倭館の址を案内して下さいました。

観光名所となっている龍頭山公園一帯が倭館のあったところ。
公園のタワーにのぼって説明をうけました。

朝鮮は、対馬藩主らに官職を与え、日本国王の使として、
倭館での交易を認めました。
日本人は、倭館を出ることは許されず、
ここに住んでいたのは、対馬藩から派遣された交易官や通詞。
小間物屋、仕立屋、酒屋などの生活に欠かせない商人。
さらに医学や朝鮮語を学ぶ留学生。
400人から500人が滞在していたとか。

当時、朝鮮は医学先進国であり、医術を習ぶために倭館に来る者が多かった。
また雨森芳洲が、対馬に朝鮮語学校を設置すると、
優秀な者は、倭館留学も認められた。

交易は、日本が銀を輸出して、朝鮮人参の他、主に生糸、絹織物などの
中国製品を輸入していた。
対馬藩は、この中継貿易によって巨額の利益を上げたのです。

     

Sさんは、若い頃、日本を訪れたことがありますが、
シマチョゴリの女性が近づいてくると、さりげなく避けたという。
北の人と仲良くしていることが分かったら手が後に回ってしまった
と、・・・笑っていました。

倭館は、長崎の出島とほぼ同じ時代に建設され、明治になって廃止されている。
Sさんは、この200年あまりは、平和の時代であり、
韓国と日本の友好のシンボルとして、倭館の復元が夢であるという。
出島の現地にも出かけており、この夏、その研究結果を学会で報告するとのこと。

平和のシンボルとしての倭館、というアイデアに感服。
対馬と釜山がとても近く感じられました。

   ひとつぶの梅雨を額の倭館かな

旅の間、お天気には恵まれてきましたが、ここに来て雨。

      

市内は地下鉄工事の真っ最中。
最近、土の中から大量の頭蓋骨が見つかったという。
朝鮮に出兵した秀吉の軍が、朝鮮から逃げ出す際、殺した人たちの骨という。
400年あまり前の戦争は、決して終ったことではない、と改めて感じました。

市内には、忠烈祠と呼ばれる、倭軍と戦った英雄たちを
顕彰する施設があります。
広い公園にもなっていて、子供たちが先生に引率されて
祖国防衛に立ち上がった英雄の話を聞いていました。
幼い頃から、こうした歴史教育が行われているのが韓国なんだと
ここでも認識を新たに。
両国の間に横たわる歴史認識の違いを克服していくのは
なかなか大変な課題と感じました。
   
帰りのフェリーは、夕方に釜山を出て、翌朝、博多に着く韓国の船。
大きな荷物を3つも担いでくる「カツギや」のおばちゃん3人と一緒に。
3人とも元気一杯。乗船も人より一歩先んじ、エレベーターの順番も仕切っている。

   フェリーのなかで

博多について乗ったタクシーの運転手さん、
カツギやは、昔は日本からパンティストッキングを買い込んで売る、
稼ぎの良い商売だったけれど、今では本当に数が減ったと。

博多の街は雨。釜山に比べると本当に静かな街でした。

帰宅してから「壬辰戦争」という本に出会いました。
韓国の歴史学者が中心になって「壬辰戦争」を研究したもの。

日本では「秀吉の朝鮮出兵」「文禄・慶長の役」
韓国では「壬辰倭乱・丁酉倭乱」
中国では「抗倭援朝」と呼ばれている戦争。
私も文章にする時、ちょっとしたトマドイというか、ヒッカカリを感じました。
それは、歴史学者を悩ます大問題でもあったのです。
これまでそれぞれの国という枠組みのなかでのみ
論じてこられた戦争に共通の名前を与えること。
これが研究への第一歩でありこと。

「壬辰戦争」という名を与えたのが、韓国の学者であること。
これは倭館の復元を夢見るSさんのように、
韓国で最先端の動きが始まっていることを強く感じました。

これで旅の記録は終わります。読んでくださってありがとうございます。





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釜山への旅④  続・対馬  遅足

2010年07月10日 | Weblog
        写真は西山寺のあじさい

対馬は、一時は7万の人口があったが、いまは半分以下の3万という。
厳原の港の近くには、ボラが上って来る小川があり、
両側には昭和を思わせる町並みが続く。
寅さんの映画のロケに使われた醤油屋さん。
こし餡をカステラの皮で巻いた「かすまき」を売るお菓子店。
(これ、意外に美味しい)
ホテル、バーなどが軒をならべている。

漁業の盛んだった頃には、漁師さんたちで朝まで賑わったとか。
現在は、昼間はもちろん、夜もあまり人影がありません。

港を見下ろす高台に西山寺があります。
対馬藩の朝鮮外交の窓口のあったところ。
あじさいの花が咲く閑静な境内に立っていたら、観光客の一団が。

添乗員に「こんにちは」と挨拶したら、返事がありましたが、
ちょっとアクセントが違う。
一行は、添乗員ともども、韓国からやってきたツアーだったようです。

   夏座敷対馬を風が吹き渡る

韓国から対馬に観光客がやってくるようになったのは、
21世紀に入ってから。
韓国の経済成長にともなって、海外旅行を楽しむ人が増えたこと。
釜山から50キロにある外国という手ごろさ。
さらに対馬の自然が韓国の人たちを惹きつけたようです。

そのきっかけとなったのが、
1990年に日本を訪れた韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領の
宮中晩餐会のおける演説でした。
盧泰愚大統領は、対馬藩にあって外交交渉にあたった雨森芳洲の名をあげ、
その哲学である「誠信の交わり」を賞賛したのです。
この時、居合わせた日本のほとんどの国会議員は
芳洲の名を知らなかったとか。

もちろん対馬でも知る人は多くはなかったそうです。
長寿院にある雨森芳洲の墓を案内してくれたガイドさんも
全く知らなかったと話していました。

雨森芳洲は滋賀県の出身で、朝鮮語を学び、対馬藩に仕えた人。
朝鮮出兵後の最初の朝鮮通信使とともに江戸に向かっています。
外交の精神は、お互い欺かず、争わず、
真実を持って交わる誠の心であると説き、実践しました。

新井白石とも同門で、外交について、論争をしたと伝えられています。
1755年に88歳で永眠。
250年を経て、眠っていた芳洲が甦ったのです。

   登りつめ芳洲の墓今年竹

       

厳原では、毎年8月の祭に、朝鮮通信使行列を再現。
韓国からの参加希望者も増えているそうです。

小さな寺の境内を訪れたら、新しい石碑が建立されていました。
殉国の碑でした。
義兵抗争で日本の官憲に捕らわれ、死亡した崔益鉉の顕彰碑。
いま対馬では、朝鮮に関係した記念碑があちこちに建てられいます。
静かに歴史の読み直しが進んでいるようです。

   殉国の風にやさしさ白むくげ

韓国からの観光客の急増は、当初は地元から
歓迎されるばかりではなかったそうです。
観光の目的のひとつが山登り。
しかし、残されたゴミの山。
釣り。韓国では撒餌が盛んで、大量の撒餌で、
海が死んでしまう恐れがあるといいます。

トイレに紙を流さない生活習慣の違いもトラブルの原因に。
対馬の人たちは、マナーや習慣の違いについて説明、
最近では改善されてきているそうです。

対馬への観光客は日本人より韓国からの人が圧倒的に多く、
経済効果は20億円に。
対馬の経済にとって欠かせない収入源になっているとのこと。

対馬の最北端から韓国までは、わずか50キロ。
韓国展望台から釜山市の町並みを
かすかに眺望することができました。

比田勝港から釜山への高速船に。
船には、釣りを楽しんで帰国する人たちの姿が。
今年の通信使祭の打ち合わせに釜山へ向かう
旅行代理店の社長さん一行と乗り合わせて、
入国の手続きの案内をしていただきました。

旅の最後の目的地、釜山までは1時間余りです。



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五十年共に暮らしてメロン食わず   朱露

2010年07月10日 | Weblog

     共に暮らす前からメロンなどは食わない。
     コラソン・デ・メロンを聞くと頭へ来た。
     だから子供たちにもメロンなど食わさぬ。
     歳時記にメロンがあるからこうなるのだ。

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川柳ができるまで     遅足

2010年07月10日 | Weblog
川柳作家の丸山さん。
そのブログに、どのように句を推敲していくのか?
プロセスが掲載されていました。

  切れやすい男と糸を切りにいく

最初は、切れやすい男は縁を切り難い、だった。
ちらっとDVや幼児虐待などが頭を過った。
「男」は「女」でもよかった。
匿名性を出そうというのと、
句会の参加者は女性が多いのは分かっていたので
共感を狙って「男」にした。
「縁」は付き過ぎなので「糸」にした。
「切り難い」は決まり過ぎなので
「切りにくい」とした。
その後「にくい」を「にいく」に並び変えた。
それで仕上がりとした。

    

  切れやすい男は縁を切り難い

  切れやすい男と糸を切りにいく

随分と変化するものですね。
考えてみれば、私も俳句をつくる時、
似たようなことをしています。
推敲しながら、何かを考えているようです。


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