写真は魚市場
釜山に近づくにつれて、高層マンションが次々に目の前に。
韓国の南の玄関口、人口は380万の大都市。
港には、山が迫っており、その山は中腹までマンションや住宅がびっしり。
世界第5位の港湾都市であり、超過密都市でもある。
フェリー乗り場も国際色豊か。
入国すると、すぐにオジサンが近づいてきて、
円をウォンに両替よ、と近づいてきます。
銀行の窓口で1万円を両替、127000ウォンでした。
港のお隣は、ジャガルチ市場(シジャン)つまり魚市場。
3階建てのビルの一階や、周囲にはお店がずらり・・・
とれたての魚、貝、イカ、生きているタコなど。
おばさん(アジュンマ)の威勢のいい声が買物客に飛んでいきます。
店先に並んでいる魚を買うと、その場で料理、奥の部屋で味わうことが出来ます。
仕事が終ったサラリーマンが、夕食をかねてやってくるそうです。
ここの人々は、港町のせいか、開放的で、
言葉も日本でいえば大阪弁にあたるとのこと。
真剣なうなぎ逃げ出す魚市場
釜山ではホテルに泊まり、朝食はパン。
魚介類の続いた胃袋は少しほっとしたようです。
街を走る車は、日本でいえば3ナンバー。軽乗用車はまったく見当たらない。
スピードを出しているうえに、割り込みなど、運転が荒い。
一旦事故が起きるとダメージが大きいので、小さな車は敬遠されているそうです。
30年前に訪れた時のウォンをガイドさんに見せたら、?・・・という反応。
みたことがないとか。
また当時、タクシーは相乗りだったが、今は禁止されているという。
今では、日本の都市よりも元気でエネルギーに満ちている。
前のガイドさんは、観光地を訪れると
「ここは秀吉に焼かれました」と説明していたのが印象的でした。
今回は「この橋は日本人が造りました」と。
インフラの整備に日本人の力があったことを解説。
時の流れを感じました。
韓国では「顔が広い」ことを「足が広い」というそうです。
旅の仲間のKさん、とても足が広く、
知り合いの知り合いというSさんが、
倭館の址を案内して下さいました。
観光名所となっている龍頭山公園一帯が倭館のあったところ。
公園のタワーにのぼって説明をうけました。
朝鮮は、対馬藩主らに官職を与え、日本国王の使として、
倭館での交易を認めました。
日本人は、倭館を出ることは許されず、
ここに住んでいたのは、対馬藩から派遣された交易官や通詞。
小間物屋、仕立屋、酒屋などの生活に欠かせない商人。
さらに医学や朝鮮語を学ぶ留学生。
400人から500人が滞在していたとか。
当時、朝鮮は医学先進国であり、医術を習ぶために倭館に来る者が多かった。
また雨森芳洲が、対馬に朝鮮語学校を設置すると、
優秀な者は、倭館留学も認められた。
交易は、日本が銀を輸出して、朝鮮人参の他、主に生糸、絹織物などの
中国製品を輸入していた。
対馬藩は、この中継貿易によって巨額の利益を上げたのです。
Sさんは、若い頃、日本を訪れたことがありますが、
シマチョゴリの女性が近づいてくると、さりげなく避けたという。
北の人と仲良くしていることが分かったら手が後に回ってしまった
と、・・・笑っていました。
倭館は、長崎の出島とほぼ同じ時代に建設され、明治になって廃止されている。
Sさんは、この200年あまりは、平和の時代であり、
韓国と日本の友好のシンボルとして、倭館の復元が夢であるという。
出島の現地にも出かけており、この夏、その研究結果を学会で報告するとのこと。
平和のシンボルとしての倭館、というアイデアに感服。
対馬と釜山がとても近く感じられました。
ひとつぶの梅雨を額の倭館かな
旅の間、お天気には恵まれてきましたが、ここに来て雨。
市内は地下鉄工事の真っ最中。
最近、土の中から大量の頭蓋骨が見つかったという。
朝鮮に出兵した秀吉の軍が、朝鮮から逃げ出す際、殺した人たちの骨という。
400年あまり前の戦争は、決して終ったことではない、と改めて感じました。
市内には、忠烈祠と呼ばれる、倭軍と戦った英雄たちを
顕彰する施設があります。
広い公園にもなっていて、子供たちが先生に引率されて
祖国防衛に立ち上がった英雄の話を聞いていました。
幼い頃から、こうした歴史教育が行われているのが韓国なんだと
ここでも認識を新たに。
両国の間に横たわる歴史認識の違いを克服していくのは
なかなか大変な課題と感じました。
帰りのフェリーは、夕方に釜山を出て、翌朝、博多に着く韓国の船。
大きな荷物を3つも担いでくる「カツギや」のおばちゃん3人と一緒に。
3人とも元気一杯。乗船も人より一歩先んじ、エレベーターの順番も仕切っている。
フェリーのなかで
博多について乗ったタクシーの運転手さん、
カツギやは、昔は日本からパンティストッキングを買い込んで売る、
稼ぎの良い商売だったけれど、今では本当に数が減ったと。
博多の街は雨。釜山に比べると本当に静かな街でした。
帰宅してから「壬辰戦争」という本に出会いました。
韓国の歴史学者が中心になって「壬辰戦争」を研究したもの。
日本では「秀吉の朝鮮出兵」「文禄・慶長の役」
韓国では「壬辰倭乱・丁酉倭乱」
中国では「抗倭援朝」と呼ばれている戦争。
私も文章にする時、ちょっとしたトマドイというか、ヒッカカリを感じました。
それは、歴史学者を悩ます大問題でもあったのです。
これまでそれぞれの国という枠組みのなかでのみ
論じてこられた戦争に共通の名前を与えること。
これが研究への第一歩でありこと。
「壬辰戦争」という名を与えたのが、韓国の学者であること。
これは倭館の復元を夢見るSさんのように、
韓国で最先端の動きが始まっていることを強く感じました。
これで旅の記録は終わります。読んでくださってありがとうございます。