近所の散歩で見掛けた青空に映えるツルウメモドキです。
赤坂憲雄の「岡本太郎の見た日本」の中に、こんな一文があった。(依然、太郎にハマッテます)
「獲物をもとめての、たえざる移動は、無限につづく『未知の世界への探検』となるだろう。
そうして不安・孤独・偶然といった要素が、(縄文時代の)狩猟民の世界観の土台になっている」
( )内は筆者挿入
おやおやこれは、獲物を知と、狩猟民を旅人と書き換えれば、一人旅に出る者の心境と
同一ではないかと思ったりしました。
一方で「(弥生時代の)農耕民の世界観は、安定と均衡、節度と従順、必然と依存の
意識といったものに支えられている」とも書いている。
これも、農耕民を現代の日本人と置き換えれば、飼い慣らされた羊たちが狭いオリの中に
閉じこめられている様な、閉塞感に満ちた現代日本社会と同じじゃないかと思います。
「旅とは、現実からの逃避である」とはよく言いますが、その本質は
農耕民的世界から狩猟民的世界への回帰、弥生的なるものから縄文的なるものへの、
DNAに刻まれた郷愁にあるのではないでしょうか。
ただし、グルメにショッピング、物見遊山を目的とした団体旅行は範疇にあらず。
あれは江戸時代のお伊勢参りの現代版です。
今日はまだ酔っぱらっておりませんぞ、暇人の戯れ言です、念のため。
今流行の、わけの分からないdnaは別としても、縄文への回帰などと云うと司馬遼太郎さんがご存命でしたなら、きっと喜ばれたでしょうね。
弥生を安定、均衡、従順と言われますがよく考えるとはっきり分からない縄文に対する郷愁はあるとしても、その縄文という単語の裏にある採取、狩猟、命と命のやり取り、そして血vsお肉といった一連の生業は不安定、不均衡、闘争の連続であったのかも、なんて考えちゃうと梅原 猛さんの影響を受けすぎでしょうか。
突拍子も無い事ですが
開高 健さんは異国を旅する事はそれが動機にしろ、触媒にしろ、己の内部を旅するようなもので行き着く所は(虚空ではなく?)空虚に達する、とどのつまり空虚にワインやパンを詰め込んでいる惨めな何たら....と「夏の闇」で比喩的に、深く静かに呟いておられましたが....。
宗教者でなく、思想家の道元先生の旅はきっと....。
愚生の近くの山々にもツルウメモドキがあり、毎年この時期に見る事のできる幸せを感じておりますし、マッキンレーの山奥でも見かけました。
タマセンニンさんの旅を宜しかったならお聞かせくださいますか?
農耕民的な人と狩猟民的な人と居ますね。
ツルウメモドキでしたか、愛別の道路脇の日当たりの良い落石柵まわりに絡み付いていました。横に豊作の山葡萄もありましたが時期が合わず収穫できなかったです。
裏山にも沢山生っているのですが、梢の高い所に有り手が出ません。
指をくわえて見上げるだけです。
先日はツルを揺すって僅かだけ採ってきました、美味しかった!