・所在地 東京都千代田区大手町1-1-1
・建立年 徳治二年(1307)
・建立者 真教上人
・説明板 『東京都文化財 将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔 桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定し自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった 世にこれを天慶の乱という
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが三日後白光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちた 大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという 村人は恐怖して塚を築いて埋葬した これ即ちこの場所であり将門の首塚と語り伝えられる。
その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため徳治二年時宗二祖真教上人は将門に蓮華阿弥陀佛という法号を追贈し塚内に板石塔婆を建てて日輪寺に供養しさらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ下僚は収奪に民の膏血をしぼり加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった その為これら力の弱い多くの人々が将門によせた期待と同情は極めて大きなものがあったので 今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである
また天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱気を助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にきわめて大きい 茲にその由来を塚前に記す。史蹟 将門塚保存会』
・撮影日 2005/04/15
・位置図
・メモ 日本のビジネスの中心千代田区大手町にある、周囲とは対照的な雰囲気を醸し出している。日本三大怨霊といわれ崇徳上皇、菅原道真に並び称され、心霊スポットの一つとして逸話も多い。写真中央の石塔婆には「平 将門 蓮華阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 徳治二年」と書かれてあり、この石塔婆の後ろに首塚がある。また脇に蛙は地方に転勤された方が無事本社に帰れたことに感謝して勝手に奉納されたものだという。誰が手向けられるのか、綺麗な生花が手向けられていたのが印象的であった。
・建立年 徳治二年(1307)
・建立者 真教上人
・説明板 『東京都文化財 将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔 桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定し自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった 世にこれを天慶の乱という
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが三日後白光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちた 大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという 村人は恐怖して塚を築いて埋葬した これ即ちこの場所であり将門の首塚と語り伝えられる。
その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため徳治二年時宗二祖真教上人は将門に蓮華阿弥陀佛という法号を追贈し塚内に板石塔婆を建てて日輪寺に供養しさらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ下僚は収奪に民の膏血をしぼり加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった その為これら力の弱い多くの人々が将門によせた期待と同情は極めて大きなものがあったので 今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである
また天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱気を助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にきわめて大きい 茲にその由来を塚前に記す。史蹟 将門塚保存会』
・撮影日 2005/04/15
・位置図
・メモ 日本のビジネスの中心千代田区大手町にある、周囲とは対照的な雰囲気を醸し出している。日本三大怨霊といわれ崇徳上皇、菅原道真に並び称され、心霊スポットの一つとして逸話も多い。写真中央の石塔婆には「平 将門 蓮華阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 徳治二年」と書かれてあり、この石塔婆の後ろに首塚がある。また脇に蛙は地方に転勤された方が無事本社に帰れたことに感謝して勝手に奉納されたものだという。誰が手向けられるのか、綺麗な生花が手向けられていたのが印象的であった。