【内容紹介】
内容(「BOOK」データベースより)
使用済みのオムツが悪臭を放ち、床には虫が湧く。暗く寒い部屋に監禁され食事は与えられず、それでもなお親の愛を信じていた5歳の男児は、一人息絶え、ミイラ化した。極めて身勝手な理由でわが子を手にかける親たち。彼らは一様に口を揃える。「愛していたけど、殺した」。ただし「私なりに」。親の生育歴を遡ることで見えてきた真実とは。家庭という密室で殺される子供たちを追う衝撃のルポ。
メディア掲載レビューほか
「親子愛」という粉飾が家族を追い詰める
虐待に関する書籍は九〇年代後半から数多く出版されているが、その価値は加害・被害の二分法からどれだけ自由であるかによって決まる。殺した親を「鬼畜」扱いし特殊化・周縁化すれば、ふつうの家族や親子の価値は保護され脅かされることはないからだ。厚木市幼児餓死事件などを扱った本書は、そんな予定調和的構造を裏切っていく。
加害者である親が子どもを殺そうと思っていたわけではないこと、出産直後には親子の絆やハッピーな家族像を夢見ていたことなどを丹念なインタビューから描き出す。さらに彼ら彼女たちの悲惨な生育歴を足を運んで聞き出すことで、著者は加害・被害の複層化に成功している。
あまりの悲惨さに驚かれるかもしれないが、本書で描かれた三つの事件は日本の児童虐待における氷山の一角に過ぎないことを知ってほしい。殺された子どもの背後には、表面化しないまま病死や事故死とされ闇に葬られた多くの被虐待児が存在するはずだ。幸運にも第三者に発見され、いくつかの偶然が重なって殺されることを免れて成長した子どもたちの数を加えれば、相似形の家族・親子は膨大な数にのぼるだろう。
「鬼畜」と呼ぶしかない親に育てられ、かろうじて生き延びて成長した人たちの語る言葉を、評者はカウンセラーとして二十年以上にわたり聞いてきた。戦場からの帰還兵同様に、単純に「殺されなくてよかったね」と言うことが憚られるほど、彼ら彼女たちはさまざまな後遺症や深い影響に中高年になるまで苦しめられる。それだけではない、親子の絆を称揚し、どんな親でもやっぱり血がつながっているから最後は許すべきだという日本社会に深く根を張った常識によって、そのひとたちはずっと苦しめられることになる。本書を読めば、親子愛という粉飾がどれほど家族を閉鎖的にし、結果的に子どもを殺すことにつながるかが手に取るようにわかる。
幸せを夢見ながら瞬く間に坂を転げ落ちるように破局に至る親たちの姿から、一九九〇年のバブル崩壊から二十五年を経た貧困化の進行が、このような脆くてあっけない、まるで底が抜けたような児童虐待を生み出したのではないかと思わされる。貧困は「言葉」の貧困を生み、理由や考えを語れない底辺層を厚くする。本書には著者のインタビューで初めて事件について考え言語化できたのではないかと思わせる親たちが登場するが、じっくり言語化を促し加害者を丹念に描き切ることにノンフィクションの意味を見るのは評者だけではないだろう。
評者:信田 さよ子
【著者略歴】
石井光太(いしい・こうた)
1977(昭和52)年、東京生まれ。国内外を舞台にしたノンフィクションを中心に、
児童書、小説など幅広く執筆活動を行っている。
主な著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』
『地を這う祈り』『遺体』『浮浪児1945─』、児童書に『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。』
『幸せとまずしさの教室』『きみが世界を変えるなら(シリーズ)』、
小説に『蛍の森』、その他、責任編集『ノンフィクション新世紀』などがある。
1977(昭和52)年、東京生まれ。国内外を舞台にしたノンフィクションを中心に、
児童書、小説など幅広く執筆活動を行っている。
主な著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』
『地を這う祈り』『遺体』『浮浪児1945─』、児童書に『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。』
『幸せとまずしさの教室』『きみが世界を変えるなら(シリーズ)』、
小説に『蛍の森』、その他、責任編集『ノンフィクション新世紀』などがある。
【読んだ理由】
書名に惹かれて。
書名に惹かれて。
【最も印象に残った一行】
人は誰しも、自分の生まれ育ちを選ぶことはできない。でも、ほんのわずかな勇気を持ちさえすれば、あるいはそれを促す者がいさえすれば、智恵のように救われる親もいれば、養親のもとで幸せに育つ子供がいるのも事実なのだ。
【コメント】
偶然かどうかわからないが、今回の3件のケースともどちらかの親がアトピー性の皮膚炎を患っている。