阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

このところの昼食や夕食

2021年06月22日 | ある日の肴/夕食

「あなたが普段から食べているものを教えて欲しい。あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」

これは19世紀フランスの政治家で、美食家でもあったブリア=サヴァランの有名な言葉だ。

さて阿智胡地亭はこんな人だとブリア=サヴァランは当てることができるのだろうか??

 ☝ 冷やし中華   ☟ キーマカレー

ナポリタン 

焼きビーフン

唐揚げなど

天丼

辣椒担々麺 

酒のアテのサラダ

亀戸の升本の取り寄せ弁当

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日乗      6月21日    一回目の新型コロナ・ワクチン接種を受けた

2021年06月22日 | 阿智胡地亭日乗

ワクチン接種の仮予約をしている医院から電話が入った。ようやく接種の日程の確定日の連絡かと思ったら

「接種実施の日程の一番早い日が今日の午後3時からなんですが、来院可能でしょうか」という問い合わせの電話だった。

夫婦二人とも行ける状態だったので、はい、行けますよと即答したら、ありがとうございますとお礼を言われた。

 医院で実際に注射をしてくれた看護士さんからも、今日は急なお話だったのにありがとうございますと言われた。

どうやら本日の予約分にキャンセルが出たので、医院から歩いて来れる範囲の2名同時予約申し込み者に電話をかけたらしい。

当方はお陰で思ったより早く一回目の接種がすみ、3週間後の2回目の日程も確定してありがたいことだった。

 ちなみに注射後30分たっても幸いにも一切の副反応はなかったしそのあとも何も変わったことはない。

それにしても病院にかかって、先方からお礼を言ってもらう経験は初めてだった。

    医院往復 歩行数 1732歩 歩行距離 1.1km

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昨日のムラサキ山芋のツルと葉

2021年06月22日 | 花・草・木・生き物

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甲南病院が建て替え工事をスタートした。   2017年の今日 6月22日に掲載

2021年06月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

「涼宮ハルヒの消失」の舞台、神戸・甲南病院が建て替え工事へ【写真で見る近代建築】(クリック)
バスの中から ガードはJR神戸線。

甲南病院。ガードは阪急神戸線。

 阪神御影から久しぶりに甲南病院ルートのバスに乗って帰りました。病院の工事が始まっていました。



















完成予想図


甲南病院  グループ概要
人類愛の精神に基づき、あらゆる点において病人を本位とした「悩める病人のための病院たらん」


創立者 平生釟三郎
昭和9年に平生釟三郎氏により開設された財団法人甲南病院は、第二次世界大戦や阪神大水害など幾多の危機を乗り越えてきました。当初118床であった病院は、昭和62年には400床の病院になり、その後も発展が続き、平成4年に六甲アイランド病院が、平成12年には国立加古川病院の移譲を受け加古川病院が、そして引き続いて六甲アイランドに介護老人保健施設ならびに訪問看護ステーションが開設されました。人類愛の精神に基づき、あらゆる点において病人を本位とした「悩める病人のための病院たらん」という創立者の思いを基本理念として、質の高い医療を提供できる病院、そして皆様に開かれた信頼される病院として在り続けたいと願っております。

平生釟三郎の言葉

人類の生存を脅かし、幸福を覆すものの一つに病気があります。病気は何人も避けることのできないものであるだけに、病みて十分の治療を受けられる病院が必要であります。
ここに我々は、人類愛の精神に基づき、共存共栄に助け合って行きたいものと考え、あらゆる点において病人を本位とした「悩める病人のための病院たらん」ことを切望し、甲南病院を設立したものであります。
(昭和9年6月17日)

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和20年(1945年)11月27日)は、日本の実業家、教育者(甲南学園創立者)、政治家(廣田内閣で文部大臣、貴族院勅選議員、枢密顧問官)。Wikipediaから部分引用。

明治、大正、及び昭和初期に活躍し、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が訪伯経済使節団長としてブラジルに渡るなどした。その功績により、1935年ブラジルコメンダトール勲章。灘購買組合(日本初の生協)の設立、大阪ロータリークラブの設立にも尽力。政治家の床次竹二郎を後援し、献金をした。甲南大学の創立者でもある。 東京外国語学校露語科の同級生に二葉亭四迷がいる。二人は首席を争った。


国際留学生協会のHPから部分引用
ブラジル移民支援
  平生釟三郎が、ブラジルと関わりを持ち始めたのは、海外移住組合連合会の2代目会長に就任してからである。当時の日本は満州事変(1931年)後、侵略国家の烙印を押され国際的孤立状態に陥っていた。その中で唯一ブラジルだけが日本からの移民に好意的だった。そのブラジルが移民を制限しようとする動きに出たので、政府としては民間の経済外交で事態を打開しようとしたのであった。政府はブラジルへ経済使節団の派遣を決定し、釟三郎に団長就任を依頼してきた。大いに迷いながらも、ブラジル移民問題は「より高い奉仕である」という結論に至り、最終的に受託した。この時も無報酬を貫いたのである。
  釟三郎の基本的考えは、移民問題は時間をかけて解決するもので、まずは両国が共存共栄のパートナーになることが先決だというもの。ブラジルの綿花を輸入し、貿易により経済に貢献することで、移民の道が閉ざされないようにしようと考えた。使節団の滞在期間は、実に7ヶ月に及び、民間外交は大成功をおさめた。両国の貿易額は、一気にそれまでの10倍を越し、両国の親善友好関係は確実に深まった。ブラジルで盛り上がりかけていた排日気運を一挙に押し返すことに成功したのである。この功績で、帰国した釟三郎は天皇陛下に御前講演を進講する栄誉を担い、ブラジル政府から勲章を贈られた。
  釟三郎のブラジルとの関わりはこれで終わらなかった。ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の理事長に就任し、移民支援事業に本格的に取り組み始めるのである。そして、拾芳会の第一期生であり、平生家に寄宿していた坂国人
clickをブラ拓の専務理事(最高責任者)として送り込み、全面的な支援体制を築き上げていく。彼がこうまでして移民支援に乗り出したのは、共存共栄の国策を進めることで、戦争回避を目指していたからでもあった。それが国家への奉公と確信していたのである。
  しかし戦争回避の願いむなしく、日本は太平洋戦争へと突入してしまった。日本が敗戦したその年(1945年)の12月、焦土と化した日本の再生を祈りつつ、80歳の生涯を終えた。「人は如何に生きるべきか」。社会奉仕に身を捧げた平生釟三郎の生涯は、この問いに一つの解答を残してくれた。

宮坂國人
 20世紀日本人名事典から引用。
昭和期の移民事業家 南米銀行創始者。 ブラジル移民事業の先駆者。
国籍ブラジル


生年明治23(1890)年7月15日
没年昭和52(1977)年3月21日
出生地長野県諏訪市


学歴〔年〕神戸高商(現神戸大学)〔大正2年〕卒
主な受賞名〔年〕ブラジル南十字星勲章,勲三等旭日中綬章,サンパウロ市名誉市民
経歴東洋移民に入社、ペルーに渡り移民事業に従事、大正8年帰国。11年太田工業に転じフィリピンに渡航。昭和4年ブラジル柘植組合(のちの海外移住連合会)設立に参加、同連合会専務としてブラジルに渡り、サンパウロ州、パラナ州に4つの日本人移住地を経営。11年パラグアイに最初の日本人移民を導入、コルメナ移住地を創設。15年南米銀行設立に参加、のち社長、会長を務め、日系企業育成、日語普及会会長、日本文化協会長として日系社会発展に尽力した。死後宮坂国人記念育英基金が設けられた。

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暑くなると クワンアンゴンのヴィエトナム料理     2014年の今日 6月22日に掲載 

2021年06月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

独特の旨みと辛みが懐かしくなると「クアンアンゴン」に足が向きます。
この店のピータン豆腐のピータンはこれまで食べてきた神戸の中華料理店のそれよりも旨いと思います。

揚げ春巻きは六個をオーダー。ヴィエトナム調味のタレが甘酸っぱくていい。

今回は油淋鶏ではなく、ヴィエトナム香辛料の醤油鶏にしました。

ひさしぶりに酸っぱいスープのカインチュア*をオーダー。トムヤムクンに似てたまらなく旨い。

仕上げはビーフ入りのフォー。ヴィエトナム焼酎がよく合った。

デザートはココナッツミルクのチエ―。私はさすがにもう手が出なかった・・\(◎o◎)/!



*カインチュア (Canh chua) はベトナム南部のメコンデルタ地域の特色あるスープである。近年は近隣のホーチミン市はもちろんハノイなど北部でも広く食されている。
概要[編集]
カインチュアのcanh は「澄んだおつゆ」、chua は「酸っぱい」を意味し、文字通り酸味のあるスープである。スープの酸味は一般にタマリンド(メー、me)によって出される。タマリンドは少量を湯に入れてしばらくかき混ぜ、酸味がよく出てからスープに加える。
タマリンドの他、メコン川から獲った魚、パイナップル、トマト、モヤシで出汁を作り、具として他にオクラ、ハスイモ (dọc mùng, bạc hà) などの野菜を使うこともある。カインチュアの具に合わせて、レモンのような香りのハーブであるシソクサ (ngò ôm) 、炒めたニンニク、ぶつ切りにしたネギの他、ベトナミーズコリアンダー (rau răm)、オオバコエンドロ (ngò gai)、タイバジル (rau quế) 等のハーブが薬味として添えられる。

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神田駿河台のニコライ堂。     2007年の今日 6月22日に掲載

2021年06月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

4月の中ごろ神田の「四川一貫」でいつもの辛しそば(坦々麺)を食べ終わったころ、ご主人が調理場から出て来てくれて「今度は久しぶりですね。

このあいだ四国のどこだったかからお知り合いが来られてましたよ」と言いました。「新居浜の松岡さんですか」と聞くと

「そうですそうです、新居浜だ、新居浜と言われていた。確かお名前は松岡さんと言われていました。

孫の宿題で大人にインタビューというのがあって、孫に捕まってインタビューを受けてくださったのでお名前を知ったのです」と言いました。

つい一ヶ月ほど前に新居浜で松岡さんとお会いしていたので少し驚きました。
 ご主人とはもう27,8年の付き合いです。ということはこの店の坦々麺をそれだけの間、飽きずに食べていることになります。

しばらく四方山話をしてからJRお茶の水駅まで歩きました。小川町の交差点から駿河台の坂を登ると、駅の手前にギリシャ正教の教会ニコライ堂があります。

ひさしぶりだったので携帯のカメラで写してみました。

小さく見えるJRお茶の水駅東口の向うは東京医科歯科大学の建物です。

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