三世代同居家族の最若手が5歳になった。有難いことに6人みんなでお祝いできた。
祝いのケーキ。
最老年者の快気祝いも併せてのお祝い会だった。亀戸の升本の穴子弁当をとってくれた。
どの材料にも神経が配られていていい意味での老舗の名を大切にする日々の精進が伺えた。
三世代同居家族の最若手が5歳になった。有難いことに6人みんなでお祝いできた。
祝いのケーキ。
最老年者の快気祝いも併せてのお祝い会だった。亀戸の升本の穴子弁当をとってくれた。
どの材料にも神経が配られていていい意味での老舗の名を大切にする日々の精進が伺えた。
ほぼ4か月ぶりに近くの床屋で散髪。さっぱりした。終わってから電車で両国へ。博多ラーメンの「ガツン」で好きな博多ラーメンの本物を食べた。
一度帰宅して一休みしてから再度本屋へでかけた。
田辺聖子さんの「十八歳の日の記録、「空襲」「敗戦」「父の死」「夢」を鮮烈に綴った76年前の日記発見」ーー
という記事を見て読みたくなり文藝春秋7月号を買った。
歩行数 5283歩 歩行距離 3.3km
BSジャパンの番組「空から日本を見てみよう」を観ていたら、上空から見た北九州市若松区にあるJR二島駅周辺が出てきた。
阿智胡地亭は昭和23年の秋から27年の3月まで当時の福岡県若松市二島町に住んでいました。二島には鹿児島本線の折尾駅で筑豊本線に乗り換えます。
阿智胡地亭エッセイ集clickから 「九州若松昭和25年 こんなことがあった」
昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。
1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。
月に一度か2度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。気が重くなるのはそのことではなかった。
行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって
「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と高い声で叫ぶのだった。
きれいに見えた着物も近づくと薄汚れていて髪の毛も殆ど梳かした様子がなかった。その人の手前でつい足が遅くなった僕に
「早くおいで」と母から声が飛び慌ててその人の横を通り抜ける。その人を見るのがつらいのだった。
その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。
子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。
そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。
その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年も
こうしているが、駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。
2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、
大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。
機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。
こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、母の買物が済むともう帰る時間だった。
出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。
若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。
行きたくない若松も、あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。
3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。大人の声もして
県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。
あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。
朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。
先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。
「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。
もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。
赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。
その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。
それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。
芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、
そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。 そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、
若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。
当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。
町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。
それでもジープで移動する連中が子供に面白半分に投げるチューインガムやチョコレートは皆のあこがれの品物だった。 残念ながら口に入った記憶はない。
ムムリクさんが創ってくれた思い出のコラージュ☝
2匹は本当に仲が良かった。
「阪神淡路大震災で飼主を失くした犬が沢山いた」 阿智胡地亭便り#134 2008.01.19作成から
震災はその土地に住む人間だけでなく、犬にも猫にもほかの全ての生き物の生活を変えます。
震災の翌年5月に新聞に犬のためのボランティア団体が解散するという記事が出ました。
飼主が避難するときに手離さざるをえなかったり、飼主が亡くなったりした犬を引取り、新しい飼主を見つける活動をしていた団体でした。
震災後15ヶ月が経過し、ほぼ目途がついたので活動を終了するけどまだ何頭か残っているので、飼主が現われて欲しいという記事でした。
活動している場所がたまたま歩いていける範囲だったので相方が訪ねました。
会社に行く前に今日、犬を見てくると彼女から聞いていましたが、家に帰るとボサボサの毛の痩せこけた茶色のかなり大きな犬がいました。
話を聞くと、本部を訪ねたらその犬を一時預ってくれているお宅へ連れて行かれたそうです。その家では犬がドッグフードを食べないので持て余していて、
もう返すからと言われて本部も困っていた犬だったそうです。相方が犬を見るとその犬がすがるようにじっと見つめ返したそうです。その瞬間、
相方はこの犬家に連れて帰りますと言っていたそうです。
しかしウチには既に犬が一匹いると聞いた団体の責任者が、相性を試してからにしましょうと言いました。大喧嘩をして全く合わないケースもあると。
預っていた家の奥さんの運転で家まできた犬が車から降りて、前からいるタローが近づいてくるのを責任者や奥さんや相方は息を潜めて見守りました。
タローはじっと身じろぎもせずお座りしている犬の全身をぐるっと廻って時間をかけて匂いをかいだあと、吠えもせず静かに座りました。
そのときみんなほっと安堵の息をついたそうです。相方はタローのチエックにじっと耐えている新参の犬がいじらしかったそうです。
奥さんはこれ結局食べてくれなかったんですよと言いながら、車に積んできたドッグフードの袋を犬と共に残してそそくさと帰って行きました。
責任者の話によると、この犬は阪神の青木駅の改札のところに何日もうずくまって、どこにも行こうとしないので困った駅員さんから電話があって
引取ったのだそうです。元の飼主が青木駅からどこか別の避難先へ移って、移動先ではもう犬は飼えない事情でもあったのか?いずれにせよこの駅で
この犬は飼主が戻るのをずっと待っていたのでしょう。
当時学校から帰った長女が(いまでも時々笑いながら話しますが)、家に帰ったら見知らぬ薄汚れた大きな犬がいてエッと思ったら、
その犬が何ともやさしげな目でじ~っと娘を見つめたのだそうです。そのごあんなに優しい目は見たことないのにと言います。
犬もそのとき家のメンバーから認めてもらおうと必死だったんだねと言います。
飼ってからわかりましたが、なるほどドッグフードを食べません。皆で想像したのですが、家の中でお年寄りの飼主が食べる
食事と同じものを貰っていたのではと。犬だから食器に入れておいたらハラが減ったらかならず食べるよと私は言いましたが、
口の中に押し込んでも食べようともせず、ドッグフードがそのまま口の中でふやけてしまうくらい頑固でした。
長い間ろくなものを食べていないらしく、骨はスカスカ、毛は硬くてバサバサで身体はタローより大きいのに抱くと半分ほどしか体重がありません。
病気になっては困るのでご飯をやるとしぶしぶ食べるのですが、シーチキンなど魚関連ををかけると口をつけず、ウインナとか洋風の味の濃いものを喜びます。
これも想像ですが、避難所などに配られる洋風弁当を食べてきたような感じです。
しかしそんなエサを続ける訳にはいかないのである時から、「ウチにいる積りだったら先輩のタローが食べているのと同じのを食べないとだめなのよ」と、
相方が根気つよくパテイと名づけた犬に言い聞かせながらエサをやりました。
ちゃんとお座りも出来ないほど骨が弱っていたので、今思えば最初噛む力も弱かったのかも知れません。毛の艶も出てきた頃にようやくドッグフードを
メインにして食べるようになり、家族全員が安堵しました。茨城県藤代町生まれで神戸に移住した11歳のタローは、9歳年下ではあるけど生まれて
初めてガールフレンド(獣医さんの推定ではパティは2歳)が出来て、弱り気味だった体調が元気になりました。タローはパテイをよく可愛がりました。
そしてパテイはタローのことが大好きでした。パティは1998年の12月に家族と共にタローを見送った後、1999年の3月に後輩に迎えたむうと共に、
うちに来てから12年、14歳になった現在も元気に暮らしています。
注)パテイはその後、2010年2月1日に16歳で天寿を全うしました。
去年の暮以来、久し振りに灘区六甲道の「インドラマハール」に行きました。
パパド(ピリ辛薄焼きセンベイ)は白ワインにもよく合います。
クミンスープも外せません。
ネパールサラダ。
チーズテンプラ。ミントソースのチャツネを載せて。
メインはフィッシュテイッカ。
カレーも種類が多くて選ぶのに困るほどです。ネパールカレーの欄から「ムラチキン」を選びました。大根とチキンのカレーです。
何とも言えない深みがあっておいしいカレーでした。ナンもいくつかある中から今回もガーリックナンを頼みました。
この写真は「六甲道どっとこむ」から借用。
家族連れが二組、カップルが二組。ビジネス3人連れが一組。店内はゆったりといい雰囲気の宵でした。
店長には今回もいろいろ気を使ってもらいました。ナマステ( ^)o(^ )
一度貸切の夜があったので、歩き出す前に電話をしてから行っている。それなりに距離があるのでついてから、入れないとがっくりだからだ。
ピッツアの種類は黒板に18種類書いてあって、名前の後にトッピングがカッコ書きになっている。どれもおいしいのでいつも迷ってしまう。
(この2枚の画像は下記イルヴェントのリンク先の「六甲道どっとこむ」から借用)
結局いつもの『マルゲリータ・スペチャーレ』をオーダーした。(トップの画像)
パスタはジェノベーゼ。もっちりした特注という麺がずしんときておいしい。
いつも同じことを書いているが、外出先で、イルヴェント以外の店でピッツアとパスタを食べることはなさそうだ。
イルヴェント(IL VENT)の詳細ガイドは、こちらの「六甲道どっとこむ」でどうぞ。