諏訪で花火を見たあと、ゲリラ豪雨に襲われた神戸からのツアー客を乗せた神姫バスの大型観光バスは一路白馬村のホテルへ走り、
日付が変わった時間にようやく部屋に入ることが出来ました。翌朝、ホテルのしっかりした朝食を食べ、バスは10時に出発して上高地に向かいました。
車窓からは取り入れ間近い黄金色の田んぼがえんえんと続き、安曇野は想像した以上に豊かな土地だなあと思いました。白い花が満開のソバ畑も多くきれいでした。
ついこの間、古代この地に北九州の海洋民族、安曇族が移住した史実をテーマにした小説「失われた弥勒の手」を読み、
地図を広げて“海ノ口”などの地名を見たばかりなのに、その「海ノ口駅」の真横を、自分が乗ったバスが走っていく!
本を読んだ頃にはまさか間もなく自分が小説の舞台に行くとは思ってもいなかっただけに、我ながら心が弾んで窓の外を見続けました。
実際に上高地に滞在したのは2時間に過ぎませんが、大正池から河童橋まで歩いたりして、いいところだなあと感じました。
次回はここだけに数日来たいと思いました。
2008年06月15日(日) 阿智胡地亭の非日乗に掲載。
中学生になると社会科という科目があり、その中の地理の時間に日本各県の地名を地図で習う時間があった。長野県の地図の時に、 上高地の箇所を見ると「島々」と言う地名があるのに気がついた。そこから目の範囲を広げていくと「海ノ口」や「有明」という地名もあった。 海のない山の中なのにどうして海に関係する地名があるのだろうと単純に不思議に思った。今思うとそれが地名と人の移動の関連に関心を持つきっかけだった。 今回知ったのだが上高地は元々は「神垣内」と書かれ、「穂高神社」の神域にあり、“綿津見神”も祭神の一つである穂高神社は大きな船の形をした山車が出る「お船祭り」で有名だ。 「志賀島(しかのしま)」を本拠地として栄え、対馬を交差点にして百済の国とも強い人的な交流があったという安曇族。 彼らの一派が何故志賀島を出て信州の松本周辺にまで来て住み着いたのか?。 、友人の菊池と共に韓国、対馬、北九州を歩いた。 安曇川、渥美半島など安曇、阿曇、安津見、渥美、渥見などの文字がつく安曇族の後裔が住む土地は日本列島に数多い。 神社へのお供え物には太古からの膨大な量の「鹿の角」が奉納されていて、海人族にとって釣り針に使った「鹿の角」は漁獲量の多寡という生存に直結する貴重な財産であったことが想像できる。 そしてその具体例の一つが安曇族の北九州から信州への移動・定住の物語だろう。 先祖に感謝し先祖の神を守っていることだけは確かなようだ。 |
土曜日、日曜日は観光バスは上高地の途中の駐車場までしか入れません。観光客はそこからシャトルバスに乗り換えて上がります。
大正池の手前でシャトルバスを降りて、梓川の岸をしばらく歩き、大正池から自然遊歩道に入りました。ところどころ木製の歩道が敷かれていますが、
一部砂礫の道もあります。フィットンチッドの芳香に包まれ、にわか雨にも会いながらぶらぶら歩きました。
上高地を開いた宣教師ウェストンのレリーフがある場所へ向かっていると雨脚が強くなってきました。
折りよく上高地温泉ホテルの前を通りかかったので、ホテルの喫茶コーナーで40分ほど喫茶タイムにしました。
メニューにビールがなかったので相方に合わせてケーキセットにしました。疲れていたのか珍しく砂糖を入れたレモンテイーも、ケーキも美味かったです。
河童橋の上から見ると河原に下りている人も見えましたが、そろそろ集合時間も迫っていたのでバスステーションに向かいました。
行きは名神の小牧ICから中央高速で諏訪に走りました。帰りのバスは上高地から岐阜県の平湯に出て、高山を経由し先日全面開通したばかりの東海北陸道に入りました。
一宮で名神に乗り入れ平湯出発から5時間のスムーズなドライブで三ノ宮に到着しました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます