阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

9月22日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月23日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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月下美人が4っ同時に咲きました。    その1

2022年09月22日 | 花・草・木・生き物

今年は 既に最初に一輪、次に2輪が咲いてもう終わりかと思っていたのに 三度目に4輪が同時に咲いてくれるとは!!嬉しいことだ。

西国の六甲山麓から移った月下美人の植木鉢が、4年経つて 移動した東国の荒川の畔の地という環境に馴染んだのかも知れない。

それともムラサキ山芋の小芋を月下美人の植木鉢に植えたことが なんらかの影響を出して来たのか??(笑)。

開花した同日の午後はこんな状態でした

 

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「坂の上の雲」と阿智胡地亭の伊予言葉とのご縁

2022年09月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年11月30日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

NHKが事前に大々的に番組紹介をプロモートしていた「坂の上の雲」というテレビドラマを見ました。

今の日本の閉塞状況にカツを入れたいという製作者側の意図も感じましたが、それはそれとして脚本はまともで、

司馬遼太郎の原作を読んだ時と同じように、ドラマも面白く見ることが出来ました。

 加えて個人的には、舞台である松山の伊予言葉が画面に流れるのも、このドラマを楽しむことが出来た理由の一つです。

私が就職した会社で はじめて配属された愛媛県の工場の職場の課には、女子社員が3人いました。

その中に正岡姓の人がいました。しばらく経ってから、ああ、正岡子規の正岡姓だと気がつきました。

 あちこち自分が転々としてきた ほかの土地で、それまで正岡さんという苗字の人に出会ったことはありませんでした。

自分がいま、正岡子規の生まれ育った伊予の国にいるのだと、正岡姓のおかげでその時 強く感じました。

 勤務地は伊予の国の中でも東予と言われるところで、松山がある中予ではありませんでした。

だんだんわかってきたのですが、伊予言葉はやはり国の中心である松山の言葉が雅やかで、東予の言葉は荒っぽい言葉と言われていました。

 しかし、よそ者の私にはそんなことはわからず、2年半ほど職場と工場内の各所で、伊予言葉のシャワーを浴びて毎日を過ごしました。

その後、大阪や東京へ転勤して直接的には伊予言葉とは遠ざかりましたが、仕事の上での日々の工場とのやりとりの中で、

結果的に 結局人生の30年ほどを伊予弁と付き合うことになりましたそれは殆ど偶然から起こったことでした。

 20歳を過ぎて知った言葉ですから、伊予言葉の微妙なアクセントはついに身につきませんでしたが、30年も付き合えば いまでも第2の母語のように伊予弁は身体の中に入っています。

そんなご縁が出来た伊予の国が主な舞台だった「坂の上の雲」の第一回の放映は、俳優さんたちの時に中途半端な伊予アクセントに心中クレームをつけながらも

ドラマの展開と、ドラマの中で話される伊予言葉を懐かしぅ、じんわり楽しんで最後まで見たけんね、えぇ。

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9月21日に目に留まったSNS・メディアの記事

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月下美人の四つの花芽が順調に膨らんでいる

2022年09月21日 | 花・草・木・生き物

ムラサキ山芋の葉っぱのカーテン

ガジュマル

シマトネリコ

おたふく南天

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日本のインタビューアーはテレビ画面にほとんど顔を見せない  相手との真剣なやりとりはしない出来ない

2022年09月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年11月13日(金)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

ンタビューというのは本来は実に面白いものだと思う。

インタビューアーの知見・見識に基づいた質問が受け手に投じられ、それを受けた相手が、またボールを投げ返す。そこに緊張感が流れ、ドキドキ・はらはらを感じていく。

 北京オリンピックの時、競技を終わった、例えば水泳の北島選手のインタビューは、彼の「何も言えねえ」という言葉で有名になった。

彼のこの時のインタビューもそうだったが、それ以前からインタビュー場面の画面に映るのは、選手の姿と顔だけで、インタビューをする側の人物は画面に一切写らず、

マイクとそれを持つ手だけしか見えなくなった。

 どんなインタビューでも最初の質問は決まりきって「今の率直なお気持ちを聞かせてください」だ。

   もうカビが生えたこのセリフはやめてほしい。

 事前の何の準備もなく、競技の途中経過も見ずに、顔を画面にさらさないで定食メニューのような質問をするインタビューアー。

それは昨日今日入社した新入社員でもできるような型にはまったお仕着せのインタビューだ。

10年ほど前はこんなことはなかった。インタビューする側もその競技を熟知して、専門的な質問を投げる間に、時に相手を称え、

時に相手が触れられたくない質問を切り込んで、丁々発止のやりとりもあった。あれはあれで一つのドラマだった。

 海外のスポーツを衛星放送で時々見るが、例えばゴルフのインタビューでは必ず画面の左にプレィヤー、右にインタビューアーが同等に映って話が進んでいく。

そして画面にはいい緊張感が流れていく。時に選手のムッとした顔も映る。

日本のスポーツ実況の最後の締めが、甘い砂糖菓子のようになってしまったのは、業界とマスコミの馴れ合いがどの世界にも蔓延してきた日本の今の体質を表しているような気がする。

顔を出さないのはおそらくプロとしての鍛錬がなく、自信も誇りもないのだろう。

 かっての 志村正順アナや越智正典アナの時代とまで言わなくても、日本のインタビューアーにも経験を積んだ見識を持っている人たちが多くいた。

彼らは相手に敬意を払いながら、相手の人間性を引き出し、深みのあるインタビューをしていた。

 日本のテレビ局さん、おのれの顔を隠さず、逃げずに、せめてテレビに自分の全身をさらし、その世界で10年は飯を喰ってきた社員にインタビューをさせたらどうですか。

それが一流のアスリート、プレイヤー、役者、芸人に対して払うべき当然のリスペクトだとも思うが。

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9月20日に目に留まったSNS・メディアの記事

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宇宙に浮かぶ 地球ーBlue Beauty          13年前の今日 2009年9月20日の本ブログ掲載

2022年09月20日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

アメリカの宇宙飛行士「Sunita Williams」さんが宇宙から撮影した「地球-Blue Beauty」です。
 

夜のとばりが下りた地球は、その灯かりの照度が地域の経済力を浮き上がらせています。




広大なオーストラリアよりも上方の列島に光の集積が・・

北極の上空から。ここでも日本の照度が目立ちます。電力消費の凄さが一目です。

アフリカ

紅海

ジブラルタル海峡

アイスランド(2006)

北アフリカから大西洋ーカナリア諸島へ飛ぶ砂嵐

スイス・アルプス

もう少し接近した夜の地球を。







 

 

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映画「ヴィヨンの妻」を見ました。

2022年09月20日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2009年11月03日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 
映画は始まったとたんからエンドクレジットが終るまで、通しでスクリーンの中に引き込まれました。

 いい加減で、わがままで、自分勝手なのに人蕩しでもある作家。その彼を夫にしてしまった女が、昭和21年の東京は中野の飲み屋で働く。

夫はバーの女と心中未遂を起して、彼女の元に戻ってくるしか他に行く所はない・・・。

松たか子が演じる作家の妻、佐知は人と自分を比べては生きていません。

 自分を他人の物差しで計るという事を、それまでの人生で微塵も思ったことがない26歳の女です。

流されているようで流されていない。潰されそうで潰されない。

意志を表には出さないけど、他の誰でもない自分の流儀を持って生きている。

 この映画に出てくる女にはみな、本人たちも気がつかない、生きるための胆力が備わっている。

そんなことがラストシーンに素直にあらわれていました。

世の中はやはり、かっこうをつけたがる男は、すぐれものの女にはどうも勝つことは出来ないみたいです。

 *田中陽造という脚本家は知りませんでしたが、映画はやはりまず脚本ありきだとあらためて強く思いました。原作は太宰治の短編小説だそうです。

 昭和21年の敗戦後の中野の盛り場や、進駐軍やパンパンが闊歩し露店も並ぶ銀座。そのセットも含めて美術も素晴らしいし、

松 たか子、浅野忠信、室井 滋、伊武雅刀、広末涼子、堤 真一、妻夫木聡らの俳優の演技が素晴らしい。

 特に松たか子はこの映画でお嬢さんタレントから女優に完全に変身したと思いました。

そして広末涼子は「おくり人」の爽やかな若妻役からうって変って、作家の愛人役を役になりきって演じてなんとも色っぽい。

 二人共に結婚してから演技で完全に一皮むけたと思います。天性の女優である大竹しのぶや宮沢りえとは別のタイプながら、

 松も広末もプロの役者へ進んでいるように思いました。

出演している俳優の良さを全て引きだした監督、根岸吉太郎はこの映画でモントリオール世界映画祭の最優秀監督賞を受賞しました。

根岸吉太郎という監督の映画は初めて見ましたが、若い頃、日活ロマンポルノを10本も監督しているというだけに、観客をそらしたり飽きさせるという事が全くありません。

職人技を持つ『てだれ』の監督であり、かつ自分に言いたい事があって映画を作っている作家監督の一人だと思いました。

 フィクションもここまで極まってドラマにしてくれると、その時代に彼らと共に、その場で空気を吸っているような気にさせてくれる。


ステキな映画です。おすすめです。

追記:気になっていた映画でしたが、山田洋次監督の映画『隠し剣鬼の爪』の演技で、松たか子を見限っていたので(何を演じても松たか子と言う意味で)、

映画館に行くのを躊躇していました。


 しかしsouthfellowさんのブログのこのエントリーを読んで見に行く気になりました。southfellowさん謝謝。

解説

太宰治の小説「ヴィヨンの妻」を、「雪に願うこと」の根岸吉太郎監督が映画化し、第33回モントリオール世界映画祭で監督賞を受賞した人間ドラマ。人気作家として世間から注目されるも、生きることに苦しみ酒や女に溺れる大谷と、そんな彼が酒代を踏み倒した小料理屋で働き、放蕩を続ける夫を愛し続ける妻・佐知の姿を描く。主演は松たか子、浅野忠信。共演に広末涼子、妻夫木聡、堤真一ら豪華キャストが揃う。

2009年製作/114分/PG12/日本
配給:東宝

あらすじ

秀でた才能を持つ小説家の大谷(浅野忠信)と誠実で美しいその妻・佐知(松たか子)。大谷はその才能とは裏腹に、お酒を飲み歩き、借金を重ね、妻以外の女性とも深い関係になってしまう破滅的な生活を送っていた。ひょんなことから夫の借金を返すために飲み屋・椿屋で働き始めた佐知は、あっという間にお店の人気者になり、日に日に輝きを増していった。見違えるように美しくなっていく佐知に嫉妬する大谷。そして大谷は、書くことそして生きることに苦悩し、愛人の秋子(広末涼子)と心中未遂を起こしてしまう。それを知った佐知は・・・・・・。

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9月19日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月20日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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高校の同期会(いざよい会)に126人が集まりました。            10年前の今日2012年9月19日の本ブログ掲載 

2022年09月19日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

恩師は3名出席された。同じクラスの人は15人参加。卒業以来初めて会う人もいてやはり出席して良かった。

 通学で毎日乗降したJRの駅前はもう全く別の風景になっていて 当時の面影は全くない。

同窓会の会場は巨人の原監督が一億円を払う羽目になりその原因を作った場所であると、メディアに報道されたJR芦屋駅前の「ホテル竹園」だった。 

 通学当時も読売巨人軍の関西の定宿だった駅前の旅館「竹園」は、今はホテルになった。

校歌を歌ったのは何十年ぶりだろう。

 

帰りは芦屋川沿いの道を阪急芦屋川駅に向かった。






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阿智胡地亭は高校の途中で転校したので 二つの高校に在籍したが、二つの高校はともに夏の全国高校野球大会の優勝校だった。

#33「夏の甲子園大会」 2003.8.23記

テレビで今年の夏の第85回高校野球の入場式というのを始めから終りまで見た。

入場行進の先頭の方に歴代優勝校の全校旗がそれぞれ掲げられて行進するということを初めて知った。

一緒に見ていた相方に「ボクが在籍した高校と卒業した高校の二つの校旗があそこに入って行進してるんや」とつい自慢気に言ってしまった。

「もう何回も何回も聞いてるから知ってる。ホントに良かったね」と返事がかえってきた。

 昭和30年の第37回大会は初出場の三重県立四日市高校が高橋投手の力投で優勝した。高橋投手はその後ジャイアンツに入団したが、
投手としては芽が出ず長くスコアラーとして巨人軍に在籍したと思う。当時四日市市で中学一年だったボクの同じ学年には出場選手の弟もいて、
中学も大騒ぎだったし、四日市市そのものも沸きに湧いた。

  現在の四日市高校


3年後の昭和33年に憧れの四日市高校に入学出来た。野球部はその後はだいぶたってもう一度だけ代表になったことがある。

ボクは父親の転勤で一年の一学期だけ在学して四日市高校を出てしまった。

昭和27年の第34回大会は兵庫県立芦屋高校が優勝している。データによるとこの優勝チームからプロ野球選手に植村や本屋敷*
(立教で長島茂雄と同期)が出ている。豊田泰光も水戸商業の選手としてこの大会に出場している。

*(internet 「ミスター日記」から引用)

「立大に進んでから感じたことですが、甲子園に出場した選手というのは、その背中から自信のオーラを発しているように感じられました。
大学の同期で、その後、阪急(現オリックス)、阪神で活躍した本屋敷錦吾さんもその一人です。本屋敷さんは芦屋高校で甲子園に出場して
いたのですが、入学当初から技術の高さもさることながら、非常に洗練さたプレーぶりに圧倒された記憶があります。やっぱり甲子園経験者は
違うな、というのが私の第一印象でした。」引用終わり。

 ボクが兵庫県立芦屋高校に転校し、在学した昭和33年から36年当時も、学校は報徳や育英など強豪の多い兵庫県でも常に代表を狙う位置にいた。

現在名古屋に在住する田中昭氏の送ってくれた資料によると彼の出身校である大阪府立北野高校とは、昭和24年に春の選抜大会の

決勝戦で対峙しており、この大会では延長戦の熱戦の末、準優勝だった。

 このように昭和20年代、30年代は常に兵庫県大会の上位校を維持し、ボクの在学中の34年だったか35年の春の選抜大会にも

藤投手を擁して、(もうその頃は名前が出なくなった北野高校と違って)バリバリの兵庫県代表として出場した。

 現在の芦屋高校


この選抜大会の試合当日は全校で授業は早めに終り、学校から歩いてすぐの阪神芦屋川駅から全学年の生徒が電車で甲子園に移動した。

乗車時間は15分ほどの近さである。甲子園球場のアルプススタンドで応援したのはその時が始めてだった。

野球部の練習は狭い校庭でやはり強豪だったサッカー部(全日本の加茂元監督も芦屋高校のOB)やラグビー部と同時に入り乱れて

練習していたが、藤投手はひときわ身体が大きく目立っていた。社会人になって入社した会社で、藤投手のお兄さんに懇意にして頂くとは当時知る由もなかったが。

自分がたまたま在籍した二つの県立高校が、夏の高校野球で優勝したことがあると言うだけの事なので「それがどうした」と切返されることも多いが、

高校野球のシーズンになると 入社した企業でずっと営業をやっていたボクは、初訪問の会社の技術部や資材部の方々との会話の糸口のネタとして、

通った二つの高校の夏の野球大会優勝校の話を随分利用・活用させてもらったものだ。

 四日市高校&芦屋高校の野球部員の皆さんどうもありがとう(笑)。

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庄野潤三さんが亡くなった

2022年09月19日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2009年09月29日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2009年9月21日、大阪出身の作家「庄野潤三」さんが亡くなった。88歳だった。日本の作家の中ではこの人と、神戸出身の「野坂昭如」さんとの付き合いは10代後半からだから長い。

 庄野潤三さんは、教師をしたあと朝日放送に転職して、間もなく東京支局に転勤し、しばらくサラリーマンと物書きの二足の草鞋を履いていた。

小田急線の生田の丘に家を造り、長女と男児二人の日常生活をその成長にあわせて書いていった小説が多い。

私は彼の、孫の全員の名前、例えば、はにかみ屋のふーちゃんの名前も知っている。 

仕事で小田原駅に下りた時は、長女(書中では金時のお夏)が結婚してすむ南足柄山へ行く、伊豆箱根鉄道の「大雄山線」の改札口でしばらくたたずんだこともある。

一族の就職、結婚、それぞれの連れ合いの係累のことなども。大阪へ父母の墓参りに来ると必ず泊まる、グランドホテルの部屋、

そしてホテルの竹葉亭の座る席が決まっていたことも知っている。それぞれの小説を読んだ時の自分の生活も含めて頭の中をいろんなことが駆け巡る。

彼の小説は「明夫と良二」を読んだのが最初だと思う。

主な作品は初版で買い揃えたが、古い本は大阪の古本屋で探してかなり揃えて持っている。

時々、どれかを枕元にもってくるといつもなんとなく心が落ち着く

 庄野潤三さん、貴方という小説家を知って私は良かったです。本当にありがとうございました。

 これからも楽しんで繰りかえし読んで行きます。

  追記 もう一人の大阪外国語学校出身の小説家である司馬遼太郎の本もよく読んできたが、庄野潤三は大阪外国語学校で司馬遼太郎の2年先輩で、

英語と蒙古語の学科の違いがあったにせよ、二人の付き合い、交流についての記事を読んだ事がない。

 戦後、大阪外国語大学になったとはいえ、学生数の少ないカレッジだから顔はお互い知っていたと思うが、なんかあったのだろうかと不思議な気がする。

なお神戸在住の華人系作家「陳瞬臣」は司馬遼太郎と大阪外国語学校同期で、お互い付き合いがあった。

これまで読んできた難波や梅田などの古本屋巡りもして集めた庄野さんの本。 残念ながら2018年2月の引っ越しに伴い断捨離した。

 

 

 

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9月18日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月19日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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大阪キタのマンホールの蓋           11年前の今日 2011年 9月18日の本ブログに掲載

2022年09月18日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

小雨模様の大阪・キタへ出ました。ガラスが多用された新富国生命ビルの周辺の馴染んだ店も店名が変わり、

業態が変わった店もあって何となく寂しい。




 

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青年力士「胸たたき」 諏訪大社 上社十五夜祭奉納相撲                  長野日報

2022年09月18日 | 諏訪便り

 2022年9月16日 6時00分       静寂に包まれた諏訪大社上社本宮の斎庭で伝統の「胸たたき」を披露する青年力士(踊り子)たち

県指定無形民俗文化財の諏訪大社上社十五夜祭奉納相撲は15日、諏訪市の上社本宮の斎庭で行われた。

化粧まわしを身に着けた同市中洲神宮寺の青年力士11人が輪になり、古式ゆかしい相撲甚句を奉納。全国で唯一継承されているといわれる「胸たたき」を披露した。

「胸たたき」は相撲の基本である守りと攻めを表現している。

境内に響き渡る相撲甚句が終盤を迎えたころ、力士たちが輪の内側に大きく踏み出して両手で自らの胸を強くたたいた。

十五夜祭奉納相撲神宮寺保存会や諏訪大社大総代、力士の家族や参拝者が息をのんで見入る静寂に包まれた境内に、

独特の節回しと胸を打つ音が響き渡り、神聖な雰囲気を漂わせていた。

1356(延文元年)年に成立した諏訪神社最古の縁起書「諏訪大明神画詞」では、祭事の終わりに神事相撲を奉納していたとする記述がある。

十五夜相撲は神宮寺の若者たちが辻で相撲を取っていたのが始まりとされ、確かな記録に限ってもその歴史は江戸時代の1817(文化14)年までさかのぼる。

今年の大関を務めた笠原大志さん(39)は「8月末からの正式な練習の前から、新たな踊り子と自主練習を続けてきた」と練習の日々を振り返り、

「秋晴れの中で、踊り子(青年力士)と心を合わせて一つになって無事奉納することができて安心している。

コロナ禍でも皆さんのおかげで上社の境内に立たせていただいた。踊り子を10年続け、大関を務められて集大成として奉納できた」と安どの表情を見せた。

練習を見守ってきた同保存会の五味寛雄会長(54)は「コロナ禍で十五夜祭は3年ぶり。

制約のある中で力士が毎日、練習を重ね、立派な奉納ができた。文化財指定を忘れないように伝統を継承していきたい」と話した。

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