マイク・モラスキー著「戦後日本のジャズ文化」(青土社)を読みました。関心をもったところや感想を記します。なお、著者については、次のホームページをごらんください。マイク・モラスキー公式ホームページ
日本のジャズに関する歴史について書いた本はありますが、対象を広げ、文化に関してジャズが及ぼした影響について本格的に論考したものは、これが初めてではないでしょうか。著者は、『しいていえばジャズからみた日本の戦後文化史の試論である』として、日本の映画や文学作品のなかでジャズがどのように取り上げられ、どのような「意味」を付与されたのかという関心事から、筆を進めています。
各章は次のとおりです。
第1章 自由・平等・スウィング?―終戦前後の日米ジャズ再考
第2章 大衆文化としてのジャズ―戦後映画に響くもの
第3章 占領文学としてのジャズ小説―五木寛之の初期作品を中心に
第4章 挑発するジャズ・観念としてのジャズ―1960~70年代ジャズ文化論(1)
第5章 ジャズ喫茶解剖学―儀式とフェティッシュの特異空間
第6章 破壊から創造への模索― 1960~70年代ジャズ文化論(2)
第7章 過去の音楽へ―近年のメディアとジャズ文化
(戦後映画)
著者は、 ジャズを扱っている日本映画について、『映画の種類にしても使われている音楽にしても、すばらしくバラエティーに富んでいることにきづかずにいられない。』と記しています。戦後映画では、黒沢明監督の「酔いどれ天使」(三船敏郎主演)と井上梅次監督の「嵐を呼ぶ男」(石原裕次郎主演)を取り上げ、ジャズはクラシックに対して低俗なもの、あるいは大衆的なものとしてとらえられていたことを明らかにしています。
(占領文学)
第3章では、五木寛之の初期作品を著者が分析しています。「さらばモスクワ愚連隊」などで、ジャズライブで演奏者同士のやりとりなどの様子が見事に描かれていて、彼の初期作品を読んでみるつもりになっています。
(ジャズ喫茶)
第5章は、ジャズ喫茶好きの僕にとっては、慈しむべき章です。しかし、ジャズ喫茶を、「暗い空間で大音量のスピーカーに対峙し頭を垂れてジャズを聴く場所だという」、ステレオタイプ化をしているのには、いささか違和感を覚えました。もう少し多様性があって、許容範囲も広かったように記憶しています。もっとも、僕がジャズ喫茶に入り浸っていたのは、1970年代半ばからなので、全盛期とは異なっていたかもしれません。お店の方針や形態がどうであれ、様々なジャズを聴くことができたのは、ありがたかった。
ジャズ喫茶の現在について、著者は、『もはや〈文化の拠点〉でも〈フーテンの溜まり場〉でもなくなっている。』と記し、本格的なジャズ喫茶は、全盛期を過ぎたとしており、確かにそのとおりでしょう。一方で、ジャズ喫茶の魅力について、『膨大なコレクションのなかから聴いたことのない、しかもすばらしいレコードを選び出してもらう、という「出会いの喜び」が挙げられよう』と記述していて、これは僕の現在の気持ちと一緒です。
(破壊から創造への模索)
『1950年代末期から1970年代までの時代においては、ジャズは広く、より深く、日本の文化人層に浸透した』とし、影響を受けた小説家や詩人を紹介しています。特に破滅的なイメージをもっていたフリー・ジャズが、同時代の冒険的な作家や詩人や演劇人や映画監督などの想像力を触発してきたと書いています。
その中で、詩人の「白石かずこ」については、紙数を割き、フリー・ジャズを伴奏とした詩の朗読についても詳述しているのに興味を惹かれました。白石かずこと一緒に朗読活動をしていた、諏訪優の詩を僕は好んでいることもあり、もっと白石の詩にも注目してみたい。
(過去の音楽へ)
最終章では、『ジャズが近年の映画や文学作品に出現するとしても、それは主に懐かしい青春時代を振り返る一環としてである』とし、現在日本でジャズは、「全盛期」や「黄金時代」をとっくに過ぎてしまっていると記しています。しかし、著者は、黄金時代はまだ来るかもしれないし、あとがきでは、ジャズ演奏の特色である一回性ということから、熱心にジャズライブへ行くことを薦めていて、日本におけるジャズの未来を捨てていないのが嬉しいところです。
2006年度のサントリー学芸賞受賞作です。学術書なので、本来はじっくり読むべきでしょうが、興味のあるところを読んでも、ジャズが日本文化に与えた影響を概観できる面白い本です。