「これで作業は終了です」
森林組合の作業員が私に告げに来た。
「ご苦労さまでした。ありがとうございました。無事でなによりでした」と礼を述べた。
その後質問してみた。
「チェンソーの目立ては、どの程度でやります?」
答えは非常に感覚的なものであってマニュアルに書いてあるような使用時間などは全く無関係だった。
また砥ぎ方も作業員は皆千差万別でやっているという。
砥ぎの仕上がりは左手の親指に刃を刺してみて決めるという。
私の期待していた参考になるような答えはなかった。
「私も新品の時の状態を覚えておいて切れなくなったら砥ぐというようにすればいいと思うんだけど、なかなか新品の状態を覚えておけなくて」と言う私に
「新品は切れないという感覚です自分は。新品は、まず砥いでから使います」というので次元の違いに恐れ入ってしまった。
たまたま彼は以前の職業として、我が家の電気と水道の配管に携わったらしい。
この家を建てた大工さんは男として尊敬に値するのだという。
「自分も職人になりたいと思います。5年や10年やっても、まだひよっこで、まずは20年はやらないと・・・。切り倒す木が思った方向に倒れなかったときは、その夜悔しくて眠れないほどです。翌日こそは、きっと良い仕事をしようと思う」と恥を披露するような照れ笑いをする。
しかしそれは希望に満ちた笑顔であり、その気質の高さを感じさせた。
仕事中には気難しそうで話しかけられないほどのオーラを放っていた青年は聞けば私の息子よりも年下だ。
私は春野に於いて自然の良さや恐さを53歳になって知った。
というより自分という動物が自然の一員であることをこの歳にして知ったのだ。
彼は春野に生まれ育ち、それらの感覚を、その歳で既に充分知っている。
ある意味大先輩と話すような感覚であった。
「何かあったら連絡ください」と言って住所氏名電話番号を書いてくれた。
彼の言葉に重みを感じた。
子供の頃から何かを作ることが遊びであった彼と何かが欲しければ買ってきた私の差は大きい。
「子供が生まれたら春野で育てたい」と言った彼の気持ちが今は充分に分かる。