ねずさんが器の大きさを何度も書いてくれています。これ程、我が身に堪える言葉はない。子供のころからその器の大きさに憧れながらその小ささに打ちのめされて来ただけに辛いものがあります。
その挙句の果てが今の極貧なのでしょう。となると器の小ささもそれ程悪いものじゃないのかも。結局はなるようになるでしょうか。
と言いつつねずさんのブログを読んでいます。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/12/25
堀秀政と人の器(うつわ)
・・・略
日本人にとって、日本語による議論は、互いが学ぶためにあります。
ですから相手の話をちゃんと聞きます。
話というのは、理由や根拠です。
それを先ず聞こうとするわけです。
ですから韓国がおかしなことを言い出すと日本人は、
「どうして彼らはそのようなことを言い出すのだろう」といぶかしく思い、相手の言い分をまずはちゃんと聞いてあげようとします。
ところが異なる文化圏にいる彼らは、日本人がこうして聞く姿勢を見せると、日本人が理解したのだと勝手に思いこみます。
そして日本が非を認めたと思い込む。
すると、こんどは「非を認めたのだから賠償しろ、カネを出せ」と本音が出てきます。
日本人が、相手の話をちゃんと聞くのは、あくまで相手の言い分をちゃんと聞いて、そこから何かを学びとり、より建設的な結論を求めようとするからです。
よくよく話を聞いて、何も学ぶことなどありはしないと気付けば、聞いた話はただの「たわごと」と判断するだけのことです。
ここに文化的ギャップがあります。
話を最後まで聞いてから判断しようとする文化と、
話の結論だけを先取りして、反応するだけの文化の違いです。
米国で働くある方から、おもしろい話を聞いたことがあります。
会議に遅刻したとき、日本人(日系人を含む)は、
「I'm Sorry!」とまず謝るのだそうです。
ところが海外の人たちには、それが不思議でならない。
「会議に遅刻して不利益を被ったのは遅刻した人自身であって、周囲の人達はその分、トクをしているのに、どうして謝らなければならないのか?」
と、本気で心配して言うのだそうです。
つまり判断の物差しが、「自分にとって損か得か」というところにしかないのです。
これに対し日本人は、その会議の目的達成のために、遅刻して他の人に遅れを取れば、周囲の人に迷惑をかけ、ひいては会議の目的達成の障害になってしまうのでは、と考えるわけです。
ここに文化的ギャップがあります。
日本人だけの社会であれば、日本文化を共有していますから、説明は要りません。
しかし、いまの日本のように、日本人のような顔をして日本人名を名乗るけれど日本人ではない人たちが混じっていたり、外国人を含めた会議やプロジェクトを 遂行しようとするときには、なぜ我々日本人は、そのような行動や発言をするのかについて、日本人自身が、はっきりと明確にその理由を、相手にわかるように 説明できなければなりません。
つまり日本人の行動に関する説明責任は、日本人自身にあるのです。
ということは、日本人が日本人の行動を、それを単に「あたりまえのこと」や「昔からそうだから」というだけではなしに、ちゃんと理由や意味を説明できるようにならなければならないということです。
男系天皇にしても、「昔からそうだから」とか、「伝統だから」、あるいは単に「Y遺伝子が」という説明では、周囲は納得もしないし、理解も得られないのです。
時代は資本の時代から、戦士の時代へと変わろうとしています。
戦士の時代は、資本よりも、個人の情報発信が、世の中を変える大きな力になる時代です。
ということは、何より個人個人の資質の向上が求められる時代になったということです。
個人の資質のことを、昔は器(うつわ)と言いました。
そして器の大きさが、その人の度量の大きさであり、実力とされました。
果たして現代日本ではどうでしょう。
早い話、政治家に器が求められているのでしょうか。
いまの世は、器の大きさよりも、工業生産品風の画一性、マニュアル的適合性しか求められていないような気がします。
しかし時代が大きく変化しようとしているときに、画一性もマニュアル適合性も、実は時代をひらくリーダーにはほとんど役に立たないのではないでしょうか。
それにしても、器の大きさには憧れます。今からでも間に合うかな。