団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★北京精雕について中国語でどんなことが言われているのか

2023年01月08日 | 中国

 Chinaの半導体を筆頭に製造業はもう終わりと思ってましたが、中には油断できない企業もあるようです。

  それが、北京精雕(ちょう)という企業だそうです。妙佛 DEEP MAXさんがその脅威を報告してくれています。
  やはり、油断は禁物ですね。


  ちなみに、ものづくり太郞チャンネルは、何度か取り上げていますが確かに凄い情報量です。日本に夢を与えてくれまさう。あれが全て本当になれば日本の復活も期待できます。


★1/6報告書

2023年01月08日 | アメリカ

 ペロシが仕込んだと言われているトランプさんを貶めたあの1月6日の真実がいよいよ明るみに出るのでしょうか。
  それにしても、あの事件をトランプさんが本当にやったとアメリカ国民は思っているのでしょうか。もう救い用がないのかも。

  及川さんが詳しく報告してくれています。


  ペロシとニセ大統領(バイデン)達が必死でトランプに罪を押し付けようとするのは間違いないでしょう。
  さて、どうなるのか。その時、アメリカ国民は立ち上がるのでしょうか。どうもその可能性は無さそうです。


★トランプさんの納税申告

2023年01月08日 | アメリカ

 トランプさんを何としても大統領に復帰させたくないニセ大統領(バイデン)陣営が必死です。
  その一つであるトランプさんの納税問題は、やはり何も出なかったようです。

  及川さんが引き続き報告してくれています。売国奴共にはトランプさんの矜持を理解することは出来ないのでしょう。何といっても自分たちは自分の利益しか考えたことが無いのですから。情け無い奴等です。


   奴等はトランプさんが復活すると自分達が叩き潰されるのが分かっているので必死なのです。

  それでもトランプさんを再選しないアメリカならもう終わりなのは間違いないでしょう。


★西之表市長リコール届かず、馬毛島基地計画で

2023年01月08日 | 反日売国奴左翼・在日

 反日売国左翼・在日首長と言えば東京・神奈川・静岡・愛知など嫌になる程います。ところが、愛知のようにそのリコールの壁は高すぎます。
  ところが売国奴達によるおかしなリコールもあるようです。油断出来ないでですね。

  あの馬毛島基地計画で売国奴共が市長のリコールしていたようです。今回は何とか阻止できたようですが、何とも油断ならない。
  これだから外国人に選挙権を与えるのは怖い。

 何とも危なかったですね。やはり、反日売国左翼・在日共や Chineseを筆頭の外国人の一層をもっと真剣に考えなければならないようです。

  と言うか、政府・自民党が必死でやらなければならないことです。優柔不断総理では無理でしょう。

  これは、やはり高市さんですね。


★中国の異常な流通規制の後遺症がヒドイ

2023年01月08日 | 中国

 習皇帝の突然のゼロコロナ中止は流通現場に大混乱を齎しているようです。妙佛 DEEP MAX さんが報告してくれています。
  習皇帝はもう何をやれば良いのか分からないのでしょう。人民を切り捨てを平気でやったら経済がボロボロになって流石にこれはダメだと思ったのでしょうか。 
  
  しなの幕引きを早めてくれる為にはそれで良いのじゃないでしょうか。 


  さて、日本企業はこれでもChinaにしがみつくのでしょうか。くれぐれも自己責任でお願いしたいものです。今更、政府に助けを求めるなんて恥知らずなことはやらないで貰いたいですが、きっと大声で政府を非難するのでしょう。本当に恥ずかしい人達です。


★天皇の四方拝と初詣のお話

2023年01月08日 | 国体・皇室・シラス

 毎年ねずさんが書いてくれる四方拝もシラス国を知らなかったように当然知りませんでした。
  それにしても、何という素晴らしい国を我が先人は築き上げて来たものでしょうか。
  それ以上にそれを教えない今の日本教育の酷さは怒りしかない。教育界の人達は日本人をどうしたいのでしょうか。
  もしかしたら堕落した自分達のレベルに落としたいのでしょか。やはり、「日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話すけれど日本人でない者」達が潜り込んでいるのじゃないでしょうか。

  今年も、ねずさんが書いてくれています。

  何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
  

  ねずさんの学ぼう日本より      2023/01/01
  
  天皇の四方拝と初詣のお話

  ・・・略


 世界中に、王や皇帝と名のつく人は、古今東西、歴史上枚挙に暇がないほど、数多くいたし、いまもいます。
けれどそれらすべての王侯貴族は、ことごとく「支配者として君臨する人」です。
これを古い日本語で「ウシハク」といいます。
君臨する人というのは、現代の世界でもそうですが絶対に責任を取らないし、民衆のことを単に雨後【うご】の筍【たけのこ】のように「いくらでも生えてくる雑草」という程度にしか思わないものです。

 このことは議会制民主主義でも同じで、選挙で選ばれてしまえば、任期中は権力者として君臨できるわけです。
そして君臨する人というのは、実はオウムの麻原彰晃と同じです。
自分のことを神だと思うようになります。
神だから、民衆に対する生殺与奪の権を持つし、自分だけが神として崇め奉られようとします。
このような人は、自分のことを神とでも思っているから、自分では絶対に責任を取らないし、自分のことしか頭にない。
つまり自分が神だと思いこんでいるだけで、その実態は魔物【まもの】であり、西洋風に言えば悪魔です。
魔物や悪魔を社会の頂点に置けば、ろくな社会にならないのは自明の理です。

 西洋文化というものは、植民地支配が始まった16世紀以降に力をつけた民衆が18世紀末頃から王権を否定し攻撃することで生まれた比較的新しい文化です。
その新しい文化に染まることが良いことだからと、特に戦後は「古い衣【ころも】を脱ぎ捨てて」などという標語が我が国でもさかんに言われるようになりまし たが、どっこい、我が国の文化は4万年前の新石器時代からずっと続く様々な試行錯誤の蓄積の中で育まれ、8世紀にはほぼ完全な形で出来上がった文化です。
つまり欧米の文化がわずか200年少々の歴史しかないのに対し、我が国の文化は1300年の歴史の中で、様々な紆余曲折を経験する中で育まれた文化なのです。
「古い衣を脱ぎ捨てて」ではなく、いまこそ「古い衣を引き出して」新たな日本文化を開眼させるべき時代【とき】なのです。

 その日本文化の根幹にあるのが、天皇が民衆のことを知り、民衆を「おほみたから」として、先祖代々を意味する神々と直接つながられる「知らす」統治です。
「知らす」とは、現代語にすれば「お知りになりなさい」という意味です。
天皇が民衆のことを深くお知りになられ、その天皇が民衆を「おほみたから」とされることで、天皇が任命する政治権力者が、どこまでも民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会の実現のために責任を持つ、という社会の仕組みです。

 ですからシラス統治のもとでは、民衆が神々の「たから」です。
神々のたからであるということは、民衆に国家として最高の尊厳が与えられているということです。
つまり究極の民主主義といえる統治が、シラス(知らす、Shirasu)です。
日本は、神話の昔から、このことを基本にできあがっています。

 そして日本がシラス国であるためには、民衆の側にも高い民度が求められます。
そうでなければ民は我執我欲に走り、なかでも飛び切り欲の深い者が富や政治を私物化して独占し、他の民から収奪をはじめてしまうからです。

 ですから知らす統治には、そうしたゆがみを正す機能が必要です。
それが荒魂【あらたま】です。
まっすぐにすることを「たける」といい、漢字で書いたら「武・健」です。
世界中、どの国の言語でも、武は攻撃(アタック)か防御(ディフェンス)のためのものです。
しかし我が国ではどこまでも、歪みを正してまっすぐにする「たける」ために用います。

 人々が私的な欲を自ら抑えこみ、誰もが公徳心を持って真っ直ぐに生きることができるならば武は必要ないかもしれません。
けれど、そのようなことは人間社会ではあり得ませんから、歪みを正す武【たける】が必要となるのです。
いまの日本に欠けているのは、その武です。
そもそも歪みを正すための「武」と、他人の迷惑を顧みない暴力とでは、まったく意味も方向も結果さえも異なるものです。

 ともあれ、高い民度を保たなければならない国に、私たちは生まれました。
これはとてもたいへんなことです。
ひとりひとりにルールが求められるからです。

 赤信号ならば、誰もいなくても、ちゃんと停まらなくてはならない。
それは誰もいなくても監視カメラがあるからではなくて、天が見ているからです。

 そしてどこまでも謙虚に、自分の幸せだけでなくみんなの幸せを願っていく。
天皇陛下が率先して、元旦の早朝から、そうしておいでになるのです。
国民もまた、互いの「愛」を大切にする。
そうすることで、互いに信頼しあえる国を築いていく。
それが日本であり、日本人の行動です。



  それにしても、こんな凄い国は何としても取り戻さなければなりません。今の劣化した日本人にそれが出来るとは到底思えませんが、そんなことを言えばねずさんに叱られること間違いなし。
  ここは、ねずさんを信じましょう。世界もそれを待っているはず。


★日本が韓国への信用状を発行しないと大英断

2023年01月08日 | 韓国

 貿易に携わったことが無いので、信用状の意味も全く知りませんでした。Koreaがそれを日本のお世話になっているにも関わらずその恩恵を全く考えていないようです。
  と言うか、それを放置していた日本のお人好しには呆れます。そうやってKoreaを優しく熱かってきたことがこそが日本の間違いだったのは確かですね。

  【にほんのチカラ】が、詳しく解説してくれています。


  それにしても、こんな状況で日本の足を引っ張ることをしないKoreaとはやはり恩知らずです。
  どう考えても相手にすべき国じゃない。何としても、今年には国交断絶して貰いたいものです。


★いまの日本で古典愛好家はウルトラ・マイナー

2023年01月08日 | 日本再生

 宮崎さんと同い年なので、古典や漢文に苦労しました。内容は面白いので楽しみましたが、所詮は読めないので授業としては嫌いでした。
  その勉強不足の所為もあってねずさんのブログでも苦戦しています。あれをそのまま理解出来たら良いなあと反省していますが、手遅れのようです。

  宮崎さんがそんな古典と日本人について書かれた本を書評で取り上げてくれています。

  何と、古典は専門家だけにやらせておけという考えもあるそうです。そういう考えも有りでしょうが文化から考えると勿体ないのじゃないでしょうか。  

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より   令和四年(2022)12月30日(金曜日) 通巻第7572号 

  書評 

 いまの日本で古典愛好家はウルトラ・マイナー
  三島由紀夫は古典の現代語訳に絶対反対を唱えていた

 前田雅之『古典と日本人──「古典的公共圏」の栄光と挫折』(光文社新書)
 
 現代日本語は、本当に日本語なのか? 軽薄で横文字が多すぎないか? 戦後教育によって国語教育現場は荒れ果てた。源氏物語も土佐日記も、徒然草さえも現代語で読む。もちろん古事記も。
 古典愛好家はウルトラ・マイナーとなり、大學で古典を教える著者の前田氏からみれば、「メジャーの人々は国語科目で大学入試に出題されるから、やむなく学んでいるに過ぎない」のだ。
 教育現場からの憂いである。

 評者(宮崎)の世代は、古文と漢文の時間があり、ほかの科目はともかくも、好きな時間だったし、源氏物語は参考書も多く、二回ほど通読した。とろこが大學では国語の時間も無かった。
 三島由紀夫は王朝文学の現代版を綴った。初期の作品群、たとえば『軽皇子と衣通姫』や、『花山院』など、『春の雪』はまさに『源氏物語』の再現のような味わいがある。
 三島は古典の現代語訳には反対だった。それは、現代語訳を読むだけでは、古文原文のもつ感性、感覚、リズム、そして、現代文とは異なる文章の組み立てられ方が理解できないのである。これらは受け継ぐべき伝統であると三島は考えていた」(21p)

 古典を捨てた日本の現代人はアイデンティティの基本を失った。
靖国神社へ参拝にはいかないが、ハロウィンに熱中し、カラオケでは演歌も軍歌も歌われず、わけのわからない喧しい曲が流行し、いつしかテレビや新聞の広告も日本語が外国語に切り替わり社名が英悟の企業まで登場した。
 井上毅と言えば明治憲法、皇室典範、教育勅語の起草者である。その井上が1893年に文部大臣となったとき『国語改革論』を提唱した。

 「古文古語固より尊重すべし。但し専門として尊重すべし。また或る場合に限り一種美術として尊重すべし。之を一般の国民教育として用いるべからずなり」

 つまり古文古語は美術骨董品のように鑑賞すべきだが、教育に用いてはいけないと、過去の実績を自ら打ち消すようなことを言っているのである。
 著者の前田教授は言う。
 「近代=西欧と捉えていた当時にあって、古典の文章は、およそ『西欧的論理』=近代的論理に乗らない旧世代の代物」とする強迫観念があったからだ。
 それ以前に、国学熱狂派は維新後、くるりと文明開化派となり、尊皇攘夷を叫んだ武士達が西洋の服をきて鹿鳴館で踊った。まさに伝統主義は「神風連の乱」と「西南戦争」で滅びたのではないか。
 前田氏はきつい一言を放つ。「こうした古典の王国を破壊したのが『維新』、そして『文明開化』と命名された近代社会に他ならない」(231p)

 およそ860年前、藤原レジュームが黄昏れだし、平家が天下をとる保元・平治の乱(1156~1159)も、南北朝の動乱も、応仁の乱も「長かった戦乱にもかかわらず、和歌古典は繁栄した」と前田氏は指摘する。
 「応仁の乱は、破壊の限りを尽くしたが、他方、それが起爆剤となり、古典復興に繋がったのである。否、古典的公共圏にとって、破壊行為は決して和歌古典を抹殺したりはしない。逆に古典を復興させる方へ向かうのである」(174p)。
本書のキーワード「古典公共圏」は著者独特の定義である。

 江戸時代に儒学が徳川の官学となると従来の道徳観はおおきく変化する。
 水戸光圀の和学ブレーンとなった安藤為章は『紫家七論』を書いて、「『源氏物語』の光源氏と藤壺の密通、さらに不義の子を天皇に即位させたことを初めて問題にし」た。
 宣長は『紫文要領』で光源氏と藤壺の密通を儒教的に批判する見解に対して「又あひがたく人のゆるさぬ事のわりなき中は、ことの深い思ひいりて哀の深きものなり」と批判した。
 この箇所を重視する前田氏は、
「不倫、しかも義母との不倫という世間的かつ儒教的に見れば断固許されない行為においてこそ『もののあはれ』が至高の状態にあるとして、心から肯定したのであった。(中略)もののあはれの窮極を描くために、この恋を記したと(宣長は)解釈したのである」(218p)

 こうして古典の本質をつく議論が本書で展開されていて、古典・伝統重視の文学論であるが、同時に文化防衛論である。

  勉強嫌いの身にとっては苦労した古文・漢文ですが、やはり安易に捨て去るものじゃないのは間違いない。
  今更授業での復活は難しいでしょうが、一定数の研究者は絶対に必要です。そうしないと漢字を捨てたKoreaのように国家としては崩壊に向かうしかなくなりそうです。
  やはり、自国語は国の基本です。古典が読めなくなった国は滅びるしかないのかも。

教育は本当におそろしい!