三島由紀夫が亡くなる数日前まで撮影された写真集『男の死』は三島自身が様々なシチュエーションの中で死んでいる様子が撮影された十数カットであるという。没後四十数年経た今日も未だ刊行されていない。私は三島を制作するにあたり、『男の死』の存在を知らずに、三島自身を三島好みの人物に仕立て、様々な状態で死んでいる、ということを考えた。三島自身がヤクザや魚屋や兵隊を演じた『男の死』と違い、私の場合は作り物であるし、あくまで三島作品、あるいは三島が言及した事柄などの中で死んでいるというイメージであり、オリジナルの『男の死』とは違うわけだが、それでもオリジナルの『男の死』の発表の後では、単なるみすぼらしいバッタ物になってしまうだろう。『中央公論Adagio』の表紙を担当した4年の間もずっとそんな気持ちを抱えていた。最大の危機は没後40年であったが、タイミングの天才、撮影者の篠山紀信はまだ出さない。そして終刊が決まった直後、いよいよ、というわけで、三島の愛刀、事件の際にも使われた『関の孫六』のレプリカを入手し、最終号の田中角栄を作りながら、抜き差ししていたわけである。気持ちがそちらへ行ってしまい、田中角栄は随分手こずった。元薔薇十字社の社主で『男の死』の企画者である内藤三津子さんにお会いした時にも、オリジナルが先に発表されたなら、私の『男の死』は止める、とお話していた。内藤さんは、あなたのイメージとは違うものだから、といっていただいたが、その気持ちは変わらなかった。 以後制作しながら発表の場を探したが、“右翼の街宣車に来られても”と、同じ理由で断わられた。そしてギャラリーオキュルスの渡辺東さんに『渡辺温へのオマージュ展』に声をかけていただき、個展の開催をうかがってみると「面白そう」の一言であった。 来年あたりに、というつもりだったが、偶然三島の命日がキャンセルになり、発作的にお願いしてしまった。おかげでそれ以来、寝床に本を敷いて寝心地を悪くして睡眠時間を削り、急ピッチの制作となったわけである。 そして本日、内藤三津子さんに静岡より来廊いただいた。三島さんもここに来ていて喜んでいるだろう、といっていただき感無量である。そしてもっと怖いものを想像していたら、そうではなく、と伝説の編集者の予想と違っていたことも私にはまた嬉しい。そこに内藤さんから声をかけていただき、個展の案内に一文を寄せていただいた中田耕治さんもお見えになり、内藤さんと旧交を温められた。私が内藤さんの存在を知るきっかけになった『平凡パンチの三島由紀夫』の著者、椎根 和さんにも来ていただき、編集者として触れた三島についてお話を伺った。三島がバチカンで惚れた大理石のアンティノウス像はまるで森田必勝にそっくりで、活字化されたのは椎根さんが初めてだそうだが、私も森田の頭にモップでもかぶせるとまるでアンティノウスだ、と過去にブログに書いている。来てもらいたい、と思っていた方に観に来るよう伝えてくださるという。
興奮を抱えたまま友人等と大崎で飲み、地元へ帰り、閉店間際のT千穂に向かうと出てきたKさんとばったり。想えばKさんとは浜松や房総他、撮影に行き、貢献もしてもらった。しかしこのオジサンに今日の興奮を伝えようにも伝えようがない。結局昨日オキュルスに連れてきた女性と、明日オキュルスに連れてくる女性の話を聞かされ続けた。
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