円山応挙が松に積もる雪を描かず下地の色で雪を表現しており、それを私も思い付いて今年、雪が降ったのに雪を撮りに行くのを止めた、と昨日書いた。これは大家応挙と同じ事を思い付いた私、という話ではなく、写真作品で雪深い景色を描くのに、雪を全く撮らない私、という話である。愉快な話だと思うのは私だけだろうか?あまり聞いたことはない。陰影さえ無ければこんなことも可能である。 これは毎度のことだが、そろそろ最近起き抜けに見る夢が、ほとんど制作の事を普通に考えている。三島由紀夫の時はベランダの洗濯物を見上げても、私と洗濯物の間に三島が挟まって見えた。子供が口を開けたまま、西の空でも眺めていたら、ろくなことは考えていないのだから、手遅れになる前に、アンモニアを嗅がせたり、頭の一つも叩いて我に返すべきだ、と良く書くが、やる奴は、某施設に連れて行って検査をしょうが相談しようが無駄である。不幸中の幸いは、たかだか可愛らしいお人形を作って写真を撮る程度で収まっていることであろう。と昨日に続いて同じ事を。 寒山拾得は今のところ2カットであるがもっと増えるだろう。