昨日のブログで書いた堺の街に立つ一休。人形制作者としては、背景として堺の家並みを描くより、人物により表現したくはある。庶民の中で生きることを好んだ一休の横に乞食か夜鷹を並べたいと思ったが、さらに老婆や子供や犬も、なんて考えてしまう。そんな時のために写る所しか作らない、という特技を持つ。その場合、数度の角度も振れないくらい余計な所は作らないが、そうはいってもたった一カットのために、と熟考を要する。 反面、その前日のブログでは〝幸福の度合いは、脳内に溢れる快感物質の量で決まる”なんて書いている。厄介なのはこの物質、立派な作品を作る場合に溢れる訳ではなく、むしろこんなことをやってるのは私だけだろう?なんて時に、より溢れがちなことである。良くも悪くもこの物質が私の作風、モチーフはおろか、人生すら左右してしまったことになる。