死の床で“陰影のない鎌倉、室町時代の人間にこそ陰影を与えるべきだった!”と気が付くことを想像するとゾッとする。一休和尚は私にとってマッチポンプのようなものである。和尚にいわせれば”陰影さえなくせばなんとかなる、と思い込んでいるようだから、良きところでポンプで水をぶっかけたのだ“というかもしれない。 こうなったら途中挫折の可能性を低めるためには、作戦を変え、作るべき人物は熟考に熟考を重ねなければならない。昔は余計な物を作っては、そんな物が道を作ってきたのは確かではあるけれど、今となれば状況は違う。“もし私が一遍上人を作ったなら?“などと考えてはならない。 一休和尚自身は相反するものを抱えながら、そういう顔をしていない。禅というものの奥深さなのか一休個人の特質なのか、座禅ひとつしたことのない私には判らない。