頭部を作った仙人は蝦蟇仙人、鉄拐仙人、琴高仙人で、結局鉄拐仙人以外は仕上げを残し完成した。龍の頭に乗る呂洞賓は、それにかこつけ龍を作りたいだけであったので、何とか耐えた”人間は頭で思い付いた物を作るように出来ている”養老孟司の言葉に後退った私である。しかし作って面白い物しか作る気にならないのは何よりである。 作家シリーズはこんな面白い場面を作らせて貰えるのは、作家の発想のおかげだ、と感謝したが、中国で生まれ日本に伝わったイメージの、自由奔放さに関すればそれ以上である。そして肝心なのは、自ら人物像を作り、被写体とする私の自由を阻むのは陰影ではないか?と定め、ここ何年も陰影のない石塚式ビクトリアリズム(日本的絵画主義写真)と一人はしゃいでいる訳であるが、最近のモチーフば至るべくして至ったモチーフであり”考えるな感じろ”の成果であることは間違いがない。鯉に乗った仙人や寒山拾得に陽が当たって陰影が有ったら、そちらこそがヘンであろう、と東洋人である私は思うのであった。