明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



TVでエアボなるものを観る。音楽にあわせて、さも自分が歌っているかのようにボーカリストを演ずるものである。同じようにエアギターもあり、世界大会もあるらしい。実にバカバカしいものであるが、私は、これらについては大変なキャリアを誇っている。ただし私の場合は、ボーカル以外は、手持ちのギターやサックス、トランペットなどを手にしたり、抱えたりするのでエアとは言えない。さらに部屋を暗くし、目を瞑って会場の観客をイメージして没頭するので、ヘッドフォンが不可欠なのだが、愛用の物が壊れてしまい、以来、2年ほどステージから遠ざかっている。しかし、止められるものなら、それに越したことがないヘキであり、さらに重要なレパートリーであったアルト・サックスとトランペットが、アメリカの甥っ子兄弟の元に渡り、ようやく引退といって良い状態にある。ただ、ヘッドフォンを入手したら、カムバックしてしまうのではないかという不安は残る。


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先日の母との旅行中のテーマの一つは、母に携帯メールをマスターさせることであった。といっても、私自身が携帯を持っていないので。マニュアルと首っ引きで、まず私がやってみるハメになった。せいぜい私と、アメリカに住む妹あたりが相手なので、言いたい事がなんとか伝わる程度で良い。できれば妹から送られてきた孫の画像など見ることなどできれば良いだろう。しかし、妹がまたデジタル音痴なので、携帯で見られないような大きな画像を送ってきたりするので先は永い。 このせいだけではないが、母との旅行は妙に疲れたのであった。まず出発の準備に手間取るのは、心配性というより母方の伝統である。旅行中は、いまさらながら似ているところに気づき(母には絶対言わぬが)ウンザリしたり呆れたり。食事の趣味が同じなのは有りがたく、食事の間は常にお互い笑っていた。 帰ってからは、母はメールが楽しいようで、チンパンジーからの電報のような文面が頻繁に送られてくる。七十七だろうと、出来ないことにチャレンジするべきだし、ボケ防止のためにも良いことである。しかし、さらに調子に乗って、パソコンをやりたいということに対しては、まだ口で、そりゃ是非やるべきだよと言っているだけである。

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三島が共訳した『聖セバスチャンの殉教』は、作者のダンヌンツィオが、バレリーナ、イダ・ルビンシュタインの中性的な美貌に打たれ、聖セバスチャンに見立てて書いたそうである。ルビシュタインといえば、踊りはからきしながら、金は持っていたためか、ディアギレフに取り入り、バレエ・リュスに加わったダンサーである。バレエ『クレオパトラ』では、ほとんどただ立っていただけだったらしいが、確かジャン・コクトーが、その美しさに対する賛辞を残している。 三島がそれを眺めて、始めて悪習に手を染めたというレーニの『聖セバスチャンの殉教』は、この頃の絵画にありがちな両性具有的である。ガッチリした身体にポッチャリホッペは、まさに木に竹を接いだ不自然さであるが、アンテノウス同様、このあたりが三島の好みだったのであろう。本人が聖セバスチャンの殉教を演じた写真が残されているが、本人がやっていなければ、間違いなく私が作るべきところである。やりたいことを、すでに本人にやられていたなどというのは三島くらいなものである。

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Yahoo! JAPANより、Yahoo!新着情報の「今週のオススメ」で紹介するというメール。6日より掲載されるそうなので、秋のミステリーガイドという特集のようである。 三島由紀夫はだいぶ改良され、ようやく形になってきた。以前の方が似ていたという人もいるが、言いたい事は良く判るが、あれでは使えないのである。ある方向から見て、物凄く似ているように見える場合、得てして過剰に特徴を表現しているので、その分、他の角度がいけない。そうなると、撮影ポイントは限られるし、まして展示などできるものではない。随分時間がかかったが、なんとかなりそうである。ここまで作っておけば、誰も見たことがない角度から撮影できるし、絵のように、参考にした写真が特定できるような、ダサイことにはならないのである。 二泊の予定で母と南房総に出かける。退屈することは間違いないので、『仮面の告白』『金閣寺』を持っていくことにする。

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身辺雑記をブログにしてみた。ブログに関しては実はあまり良く解っていない。トラックバックもどういう意味なのか理解していないのだが、デジタルやらインターネットなどは、解って始めようなどということは、どだい無理な話で、解らないのに始められるうちが華である。だいたい頼まれもせず勝手にやっていることなので、わけが解らなくなったら止めればよいだけの話である。というわけで、いやに暖かな11月。 作家シリーズを発表して来年で10年である。キリも良いので三島由紀夫で終わりにしようかと考えている。宇野浩二や佐藤春夫の顔など作りたくはあったが、作った後の画が浮かんでこない。内田百間は、やれば面白そうではあるが、キリが良いという感じではない。スッパリとやめるには三島こそふさわしいであろう。何もエラそうに三島で止めるなどと宣言せずとも、頼まれもせず勝手にやっていることなので、始めたくなったらまた始めればよいだけの話ではある。

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