明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



最新作が一番良いといえるのは嬉しいことである。自作ながら目が慣れていなくて新鮮、というのが主な理由なのだろうが、それにしたってしばらくは自惚れていたいではないか。作品として、そのぐらいの気分がないと、ずうずうしく発表などできるものではない。しかし、そんな気分は幸か不幸か長続きしないものである。時間と共に、あのとき何であんな作品を発表してしまったのかと後悔する。そのくり返しなのである。作家でいえば、江戸川乱歩が過去の自作にたいする後悔反省をやたら書いている。黙っていれば判らないだろう、ということまで自分でいってしまうところが面白い。残酷なシーンを描いて、あとで辟易したと後悔し削除する。乱歩独特の自虐趣味であろう。  まだ完成したわけではなく、着彩もしていないセルゲイ・ディアギレフを眺めて、いつまで続くかわからない楽しい気分に浸っている。ディアギレフと見つめあいながらストラビンスキーやサティを聴いたりして。私がヘルムート・バーガーやビョルン・アンデルセンだったら、さぞ画になることであろう。こんな人物を今作っているのは地球上で私だけだろう、というのは物凄い快感なのだが、数年ぶりに会った友人のO君は、だからどうした、という顔をしている。まあいわゆる自己満足そのものだが、それがなくて、何で制作などできようか。そしていずれ、気に入らなくなる日がくるかもしれないが、それはまた自分がランクアップした証であるから歓迎すべきである。成長期に骨が急激に成長する程度の多少の痛みは伴うわけである。

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ディアギレフは、立体作品自体は一度も発表したことがない。発表もせずに改造ばかりで、いったい何年かけているんだ、と自分でも呆れる。しかしディアギレフを軸に、他の同時代の人たちを作るとなれば、ディアギレフの出来は重要である。 先日、ディアギレフとコクトーが二人並んだ写真を見た。デイアギレフの内心がたまたま写ってしまった写真もそうだが、写真の記録性というのは有難いもので、二人の年齢差、身長の差が一目瞭然である。コクトーの顔は、齢とともに深まっていく悲しげな表情が好きなのだが、ディアギレフと並べるには、髪も黒々として颯爽とした青年であるべきであろう。デイアギレフが座る幅60センチほどのソファーの隣りは、やはりまずはコクトーということになりそうである。そしてディアギレフの視線の先にはニジンスキーである。 動くニジンスキーの映像など残されていないのに、多くの人を惹きつけるのは、写真からただよう人に非ず的色気であろう。しかしそれにはグロテスクともいえる、異様に隆起した筋肉が貢献しているは間違いない。しかし以前にも書いたが、絵画や漫画、その他で表現されるニジンスキーは、まるであの筋肉が目に入らないかのように、いつのまにか美しく描かれている。かつての私もそうだが、それはニジンスキーに幻惑された結果だと見ている。残された肖像に、それだけの力があるからこそ、見たこともないのにファンと称する人々が未だにいるのだろう。そこまで判っていれば、私が次にニジンスキーでやるべきことは決まってくる。

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ディアギレフは写真は残されているが、太ったり痩せたり写真によって感じが違っていたりする。患っていた糖尿病と関係あるのかもしれない。母親がそれが原因で難産で死んだという説がある巨大な頭に、コンプレックスを持っていたのは間違いなく、サイズが合っていない小さい帽子で頭を隠していることが多く、大きな襟の付いたコートを愛用するのも、頭を小さく見せる工夫であろう。私が始めてディアギレフを作ったのは2001年だが、当時、レオン・バクストの肖像画を見て、こんなタレ目の人間がいる訳がないと思ったが、バクストの作風からして妙なデフォルメをする訳がない。しかし正面の写真を見ても、タレてはいるが、それほどでもない。同じようなことは他にもあり、まるで鉄腕アトムのツノや、矢吹丈の前髪はどっちを向いているのだ状態であった。つまり、角度によって様々な様相見せる顔なのである。ディアギレフの頭部を作ったのは正確にいえば2つということになるが、長らくこの矛盾を解決することができず、常に未解決部分を残していた。そして2つ目の改良を続けているうち、原型はほぼなくなってしまった。そして本日、午前4時40分、私としてはついに回答が出たという気がしている。つまりディアギレフという人物は、おそらくこんな顔だったろう、という私の結論である。もっとも私のことだから、またいつ手を加え始めるか判らないが、とりあえず本日は目出度いと、木場公園にて午前中から花見。そういえば、ディアギレフもこんなポーズで、最後を看取ったリファールや、ボリス・コフノ等と、草の上に寝転がっている写真があったな、などと想い出した。

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一日  


長年人物像を作っていて未だにつまずくのが、出だしが快調な時である。勿論、最初に作る頭部の話だが、下手すると作り初めて2、3日でゴールが見えることさえある。今回はいい調子で短期間で完成しそうだ、なんて思うときは、後でだいたい大変な目にあう。原因は上手くイメージを捉えたと思ったニュアンスを大事にしてしまい、結局バランスが悪くなり、苦労することになるのである。何度となく懲りずに同じ反省を繰り返しているが、しかし半分はしょうがないことだとも思っている。なにしろ常に上手くいくという確信などないまま作っている。毎回スリル満点なのである。このあたりのことはシャレにならないので、あまり細かく書くことはないが、ちょっとした光明に飛びついてしまうのはしょうがないことであろう。そのときは自分では活路を見出したつもりでいるのだから仕方が無い。

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携帯電話が未だに身につかない。肌身離さずというわけにいかずよく忘れる。まったく使いこなせていないが、マニュアルを読む気になれない。 私はもともと能書き好きで、薬から食品から、説明書を必ず読んでいた。昔はアナログレコードを買うと、帰宅途中の電車の中など我慢できずにライナーノートを熟読したものである。もちろん電気製品も同様であったが、デジタルな製品が多くなり、解説読んでも面白くなくなった。というより解説書読みとしてはついていけなくなった、というのが正直なところであろう。近日中に、自宅録音用のアンプシミュレーターというものが到着するはずである。これはパソコンにつないで色々な音を出せるというものだが、中に真空管が入っていて、アナログ機器風な外観なのだが、その実、持ってみると中はスカスカのデジタル製品らしい。相当に煩雑な解説書がついてくると思うと頭が痛い。いつからこうなったかというと、インターネットを始めたのが、私のやっていることを言葉で説明するのが面倒で、HPに全部載せたら楽ではないか、と思ったからで、このHPもマニュアル見ながら自分で作ったわけだが、それまでワープロさえ触ったことがなかったのでイライラしどうしで、柱に正拳突き、マニュアル本を2度ほど全力投球した。マニュアルばなれは、あそこからだろう。  携帯電話がかかってくる気配がないと思ったら留守番電話になってしまうらしい。駅の近所には携帯屋?があるから相談しろといわれるのだが、もともと自分でやってもみないで人に聞くなど失礼だ、と考えるタイプで、解説を読もうともしない女性等には、常にそういってきた。だがしかし、興味がない物に非情な私は、携帯を逆関節に真っ二つに折る衝動をなんとか抑え、自転車でひとっ走りしてくることにしたのであった。

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