明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日、十年ほど前に出した泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)で笛吹の芸人 を演じてもらったMさんにお付き合いいただき、母のホームに顔を出した。母も何かとお世話になった。その後木場のサイゼリアで飲み、夜になりT屋ヘ行くが閉まっていた。T屋のカミさんには『貝の穴』で、Mさんの女房役をやってもらったし、長女には河童に尻を触られそうになる娘を。また店の屋上で、カミさんに頭から水をかけてもらいながら『潮騒』の初枝もやってもらった。 本日、昨晩留守にしていたT屋の主人から電話をもらった。三女が検査入院した私を病院で見かけ、心配してくれていたらしい。その三女とカミさんには『牡丹燈篭』のお露とお米 をやってもらった。三遊亭圓朝は木場の娘に起こった実際の事件を元に書いた。まさに木場のお露である。三女は今その病院に勤めているというので、次回の入院時、小学生の頃から知ってる三女に剃毛でもされては、とたじろいだが、栄養士であった。手近な人材に頼り過ぎな私である。

 



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作家シリーズで最初に浮かんだのは尻はしょりして屋根裏に潜んでいる江戸川乱歩であった。私と目が合い「キミ、よそでいっちゃ困るよ。」と乱歩はいった。 先日『一休と女性たち』というフォーラムに参加したが、どこで発表するか、をともかくとすれば、一休と女性との、ある場面が浮かんではいる。〝そうしていながら“一休は、例の横目で私の方を見ている。 坐禅一つしたことがない私のような人間からすると、一休宗純の存在というのは禅宗の懐の深さを体現している人物に見える。かつて三島由紀夫を糞尿運搬人の青年にした時は「だって『仮面の告白』で私が彼でありたいって三島が書いてるんだから。」三島が見たら「キミは随分ヒマなんだねえ」といいながらガハハハと笑いながら喜ぶに決まっている。鈴木邦男さんにもそういわれた。一休の場合も、「だって『狂雲集』で一休がそう書いてるんだから。」と無邪気に済ませたいところだが。

 



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いつ心筋梗塞を起こしてもおかしくない、という話だったので来週にでも手術かと思っていたが、一回目の手術は来年一月に決まった。一時間ぐらいかかるという。一休和尚を画になるタイミング?で完成させようと思っていたのだが、歩数を間違えたハードル選手の如し。次回の展示のスケジュールがなかなか決まらないのだが、神経痛の後遺症で一時は杖を使っていたが、ようやく脚に力が入るようになって来たので、一休の背景を近々撮影に行こう。 『蘭渓道隆天童山坐禅図』良くこんなタイトルをつけるな、という作品は、背景を手の平に乗るサイズの石で創作し、今回唯一2メートル超のプリントを予定しているが、背景の滝だけは仮に本当の滝を使った。ここに至ってそれはないだろう。2年前に考えた作り方で滝をそろそろ作ってみよう。臨済宗もこの頃はまだ壁に向かって坐禅をしていた。

蘭渓道隆天童山坐禅図(部分)



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今後、様々なシチュエーションで活躍してもらうために、一休和尚には白髪や髭を増やしたり剃ったり、竹竿に骸骨や、朱鞘の大刀 を持ってもらうつもりでいる。まずは雲水姿の右の肩に、酒の入った瓢箪を乗せてみた。これは幼い頃TV時代劇で、八名信夫が無頼調に肩に乗せた瓢箪から、酒をゴクゴク飲んでいた記憶を採用した。検索すると東映フライヤーズの選手から東映の俳優に転じて間がない『紅孔雀』の〝五升酒の主水“という役であった。 順番が逆になったが、竹竿にシャレコウベを掲げた一休が正月の京の街を“門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし、御用心“と嫌味なことして挙句にシャレコウベ枕に寝てしまったところは二年前に作った。



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大燈国師はとびきり偉い人物だが、五条橋の乞食の中で20年という、一休宗純が尊敬した人物である。それを作ると考えただけで、幼い頃からお馴染みの快感物質が筑波山の蝦蟇の油の如くジワリジワリと滲み出すのを感じる。 アル中になってしまった知り合いは、幻聴や幻覚に悩まされているが、三島由紀夫が著作中で描いた死の場面を本人に演じてもらうという、様々な理由で危ないと二つのギャラリーで断られた個展の一度目がようやく決まった時、喫茶店で、止めるべきだ、と友情 を持って説得されたことがあるが、その言葉が私の耳には妙なる音楽のように聴こえ、ウットリしたのをハッキリ覚えている。幼い頃から私を支配し母を悩ませた、あの物質の作用であるのは間違いない。

鈴木邦男をぶっ飛ばせ!より2011年12月1日会場にて



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主催花園大学国際禅学研究所。白隠フォーラムに続き2回目の参加。会場の学士会館のホールは満員.さすが一休和尚である。この間の初入院時『狂雲集』を携えて行ったが、一休と女性、どこまで踏み込んで良いか、と思っていたところだったのでタイムリーなテーマである。盲目の美女は実在し、地獄太夫は架空の人物だと知った。 今後一休を軸に進めたい。白隠禅師に対抗して、蘭渓道隆と同様に、国宝の頂相を元に、リアル版乞食大燈像も作ろう。私がやらなければ今後も誰もやらないだろう。今号の『タウン誌深川』にも書いたところだが、実在した特定の人物に様々な面相を持った人物像があるのが私の〝渡世上“どうしても我慢ができない。私なりの五条橋辺りを好物のマクワウリを持って立つリアル版乞食大燈像を作る。〝彼でありたい“と『仮面の告白』で書いた三島由紀夫を糞尿運搬人にさせた私である。大燈国師を真似て横目の頂相を描かせるくらいの一休和尚が望むなら、時代を超えて共演もさせよう。

 



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作家シリーズの最初は江戸川乱歩、澁澤龍彦、谷崎潤一郎、村山槐多、永井荷風、泉鏡花、稲垣足穂だったが個展タイトルは『夜の夢こそまこと』でご存命だった乱歩のご長男の平井隆太郎先に許可もいただいた。最初の出版も『乱歩 夜の夢こそまこと』(パロル舎廃版)だった。 寒山拾得で個展をやった時は、もう実在の人はほぼ卒業する気でいたが、実在した人物を作るのは大変ではあるけれども、やはりその面白さに、すぐに戻ってしまった。そう思うと、作家シリーズの江戸川乱歩にあたるのが、一休宗純になるのではないか。そんな気がしつつ、一休和尚に人を紹介されるかように、次の人物が膨らみ続けているし、その人物からは、宗教家でない人をすでに紹介されてしまっている。



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世の写真家、写真マニアはレンズの描写だ何だと写真機材を取っ替え引っ替え忙しい。それは確固たる質感を有する既存の事物を被写体としているからである。その点私はというと、その質も自らが作っているので、何もそこまで描写せずとも。むしろ必要のない余計なことはしてくれるなよ。陰影を排除し、切り抜いて配するようになってからは、レンズの味なる物も邪魔になり、もっぱらカメラに着いて来た広角系ズームレンズ一本である。しかしこれは造形家として不器用で雑だから、と考えた手法ではない。なのにまるで私の性格、懐具合まで考慮したような手法に至っている。経験上頭を使わず考えるな感じろで行かないとこうはならない。

※テーブルに味の素が置いてある食堂の暖簾。



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博物館に行くと、師匠から弟子、親から子へと教えが伝えられた割に〝だんだん良くなる法華の太鼓“とは必ずしも行かないのが判る。であれば独学我流でも構わない、と思った。そこへ持って来て、人間も草木同様の自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている。他人の作品見て感心しているより、自分の中から何が生じるかが肝心だろう。一度入った物は出て行かないことも恐れ、出不精に拍車がかかり美術館なども行かなくなってしまった。おかげでチョッと教われば済むことに時間がかかったが、余計な情報から身を守ることにもなり、さらに考えるな感じろでやっていたら、とりあえずは、幼い頃、頭に浮かんだイメージはどこへ消えて行ってしまうのだろう、という問題に対処することだけはほぼ可能となった.それで良いはずである。



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大燈国師が悟りを開いたにもかかわらず、さらに師の指示により乞食に混じって二十年修行をした五条橋は、今の五条大橋とは場所がいくらか違うが、往来も多く物乞いも多かったらしい。坐禅をしていたのは橋の上で、なので私が大燈国師を知る前に一休をイメージしたのは雨宿り図なので橋の下である。イメージが被ることはなさそうである。それはそれとして、一休の思いをくんで?大燈国師と時代はズレているがどうしても共演させたい。手前の橋の下に雲水姿の一休禅師。橋の上には乞食状の大燈国師。橋の上と下でさりげない共演が面白そうである。当然大燈国師は国宝の肖像より若く痩せているべきであろうが、橋の上の人物が大燈国師であると判ってこそ面白いので、いやに恰幅の良い乞食となる。手には大好物のマクワウリを持たせよう。例によって、一人で何を嬉しそうにしているのだ、という話であろうが、こうでもしないと嬉しくないのだから仕方がないのである。



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アマゾンより大燈国師の伝記が届く。何はともあれ、まずここから始めなくてはならない。小学校に入学し、図書室と出会って以来、一体何人の伝記、人物伝 を読んで来ただろうか。引越しして大量の本を捨てた後悔もあり、制作もしない人物の伝記は読まない、入手しないことを誓った。残された時間を考えると、もう取り入れるより吐き出す方に注力すべきである。 小学四年になる時、そんなに好きなら、と産休の代理教員としてお世話になった田中先生に内緒で頂いた『世界偉人伝』をずっと探している。何が良いといって一人一頁、挿絵がイラストレーターや人形作家が描いたような物ではなく、線描ではあったが、昔の絵が使われていることであった。いずれ嘘ばかり見させられるのだから子供には嘘を見せてはいけない。私は魔力的挿絵の『星の王子様』とディズニーの写真絵本以外は子供向け絵本はすべて拒否した。



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日々制作することが、自分とは何か、に直結するとしたら、こんな良いことはない。2011年に一回目の三島由紀夫へのオマージュ展を開いた。三島由紀夫が喜ぶとしたらこれしかないと考えたのが三島の著作中の死の場面を本人にやってもらうことだったが、その後入手した芸術新潮の三島特集で本人が様々な死に方を演じ篠山紀信に撮らせていたことを知った。趣旨は違えど、本家が出る前に発表しなければならない。しかし半分ぐらいしか届かなかった。それが2020年にふげん社で、再び手掛けられる事となり『椿説男の死』とした。それは三島没後40周年のことで、篠山版『男の死』が海外で出版される5ヶ月前だった。これは三島にウケることだけを考え取り組んだ、私への三島からの褒美だと本気で考えている.またこれ以上歯応えのあるモチーフは作家ではもうない。それが二年後の同じくふげん社の『Don’t Think, Feel!寒山拾得展』となった。三島を糞尿配達人の青年にまでして死なせた(仮面の告白)私の背中を押してくれたのは三島由紀夫だったということになる。



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陰影を排除した手法の場合、日本画に見られるように、背景は無地でも不自然ではない。背景に余計な意味を持たせたくない場合はそうする。背景が必要な場合でも、中国の仙人が住まいそうな岩山など、手のひらサイズの石を使ったが、作るのが面倒な場合、というと身も蓋もないが、作るより実景を使った方が結果が良いと思われる場合は実景を使う。 竹竿にシヤレコウべを掲げる一休和尚は、正月の京の街を、時に門の間からシャレコウベを突き入れたそうで、街中に立っているべきなので実景を撮影する予定である。昔のように人形を手持ちで撮り歩く必要がないのは何よりである。大燈国師用の五条大橋は、現存の物とは違うし、記録も絵画くらいにしか残っていない。芭蕉記念館に納めた芭蕉庵は木材で作ったが、元々不器用な私が一カットのために五条大橋など作らない。こちらも撮影場所の目星は付いている。

 

 

 



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以前構想を書いたが、様々な人達が一緒に雨宿りしている英一蝶『雨宿り図屏風』をヒントに、一休と乞食や芸人などが、橋の下で雨宿りしている『一休和尚雨宿り図』を考えた。その直後、一休和尚つながりで、二十年五条大橋の辺りで乞食生活をした大燈国師を知った。雨宿り図は、たまたま軒下でなく、橋の下を考えていたのでイメージ設定が被ってしまう。 『一休和尚雨宿り図』は様々な人物を橋なりに横に並べようと考えており、ロールペーパーを使って横に数メートルというのも良い。二人は時代的にズレているので、背景は同一、メンバーが違う、という二作品も可能であるし、いっそのこと、その中に一休禅師、大燈国師もいて、単に『雨宿り図』としても良い。中に布袋尊など紛れ込ませて、イメージ作品である、とするのも良いだろう。



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やれることはやれる所までやっておくと、後悔がない、というのは初めての入院で証明された。作り残しに対する恐れの原因が、一休和尚の門松は〜目出度くもあり目出度くもなしで、なので無理すれば完成したはずの和尚の完成は退院後にしよう、という余裕もあった。 最近加わった策は先の予定を立てず、中途に終わる可能性を低めることで、せいぜい3人までと考え3人はすでに決まった。一人は一休の尊敬する大燈国師。20年乞食生活をしてしたという、白隠禅師が『乞食大燈像』を残しているが、私は国宝の頂相を元に、もっとリアルな乞食大燈像を目指す。それに備えて人形用ムシロを風雨天日に晒すため、ベランダに放り出した。結局これでは足りないと番茶や紅茶で煮込むことになるだろうけれど。



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