英語の4技能「読む・聴く・書く・話す」のうち、なぜか「話す」だけがその最高峰として解される傾向が強く、「中高6年間も英語を学んでいるのに、簡単な会話すらできない」とはよく言われることです。
しかし、最近になって、「読む」力回帰の趨勢が見られるようになってきました。事の重要性にようやく気づき始めたか、というのが英語の指導現場に身を置いている者の一人としての感想です。
「読み書きはできるが話せない」もよく聞く常套句ですが、英文を正しく読めている人がどのくらいいるのでしょうか。試しに公立高校の入試レベルの英文を読ませてみたら分かると思います。
中学卒業時に、中学卒業レベルである英検3級にどの位の生徒が合格できているのでしょうか。
高校卒業時に、高校卒業レベルである英検2級にどの位の生徒が合格できているのでしょうか。
正しく英文を読めるようにし、その正確さとスピードを上げていく勉強をしていけば、書く力と話す力は自ずとついてきます。そして、日本人が英語が出来ない原因のすべてを学校教育に追わせるのも止めなければなりません。「英語表現」「オーラルコミュニケーション」など授業名を変えただけで、英語は出来るようになりませんし、むしろ逆効果です。オーラルやスピーキング中心主義に英語教育政策の舵を切ったため、英語のレベルがむしろ落ちてしまったことを認める時が来ているように感じます。
同時通訳の神様と言われる國弘正雄さんの『國弘流 英語の話しかた』には、こんなことが書かれています。
「彼ら(=英語ができる人)には、英語なんて自分で努力するもの、という心意気があるのです。そういう人は、中学・高校でどんな教師に教わろうが、どんな教え方をされようが、結局自分で道を開いていきます。」(339ページ)
的を射たり、と言った感じです。小学校における英語必修化の議論さえ空しく感じられます。英語の早期教育だけを特別視して議論するのはおかしな話。いくら早くから英語に触れたからと言って、絶対できる様にはなりません。算数は皆小学校1年生からやっていますよね。でも、中学・高校では他教科に比べて数学嫌いの数ときたら半端ではありません。むしろ英語好きの方が多いくらいです。
英語だけを、しかも「話す」力のみを取り立てて、表面的なことだけを変えても何も変わりません。現場にいる教師の混乱と生徒たちが犠牲になることだけは避けなければなりません。付け焼き刃的ではない本物の英語力を養う筋道を示す英語政策が求められています。