帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

親としてどう考えるか

2009年02月27日 | 研究-教育・育児
数日前に息子が彼女を連れてきた事を書きましたが、今日はそれに絡んだ僕の考えを一部分書いてみたいと思います。

「あ!」\(^^;)/

“それに関して”と記しましたが、これから書く事はその娘さんの評価とは一切無関係であることを先に宣言しておきますので誤解なきようにお願いします。


家には娘がいます、将来彼氏を家に連れてくる事は当然あるでしょう。

息子はすでに大人ですから、将来ではなくてすでに現実のものとしてあります。

よく、息子が連れてきた彼女がどうだとか、娘の彼氏がこうだとか、そうした親の視点からクドクドとした不平不満話を聞く事はよく有ります。

それなら「僕にもそういったところが有るだろうか?」 と自問するなら、正直なところ空っぽな箱の様でもあり、何にも考えてないというか・・・

それじゃ同じ屋根の下で長年連れ添って来た家内はどうなのか? となるわけですが、当然に女ですから色々と細かいはずなのですが、どうも似たようなものらしく、もっとも僕と結婚するくらいですからそうでしょうね~ 

(^^) 「うんうん!」

次に、こうした自分をどう評価するか?ということですが、良く言えば一人の人間として“己の身のほどをわきまえている(本当か~?)ということで、悪く言えば打算的という事でしょうか?

なぜ空っぽな箱なのかというなら、どんな娘であったとしても人生を伴に歩んでいくのはあくまでも息子。

その可能性のある娘さんに対して“親の目線から見てしのご言う事”は、単に“親の我侭を具体化した”だけの事でしかなく、恥ずべき事と考えます。

その考え方の根本にあるのは、もし一般的常識から見て例え“駄目”といわれる娘であったとしても、それは自分たち親がそうした娘を選ぶ“息子を育てた”という事実が結晶化したという事でしかなく、そうであるなら親として息子を愛する(男としてこの表現はとても嫌なのですが、ほかに当てはまる言葉がないので書いています)様にその息子が選んだ娘も同様の愛情で接していくということに他なりません。

注意:他人の子は自分の子とポジションの違いから来る視点が明確に存在しますので、ここに書いている事は一切あてはまりません。

と、こう書けば常識の無い人間と世間様から批判されることもあるわけですが、元々“世間体を気にする”という一切自分の利益にならない行為になんら価値を見出さない僕にとっては、こうしたものは一切無関係な話でもあるし、
何より僕自身が若い頃から今に至るまで“どこぞに転がっている馬の骨”そのままですし人の事を言えた義理じゃないと言うことです。 (^^)

たしかに普通の親として 服装はどうか? から始まり、化粧やマニキュアは派手ではないか? 箸がきちんと持てるか? 脱いだ靴をきちんとそろえているか? 等々、そうしたところを見ていないわけではありません。

ただ、我が子でさえいくらでも目に入る部分は出てきますし、それに関して普通の感情は湧くものの、それは極自然な事ですし又それを否定などしません。
ましてや格好付けて自然な感情を捻じ曲げる気等さらさら無い。

そもそも不完全だらけの自分が我が子の相手だけに完璧を求めるのはおかしな話で、もしそうなら欠陥だらけの自分をまず完全にせねばならないわけですが、

「そんなことできるはずが無いだべよ!」(― ―“)  

「出来るならとっくにやっているよね~」(―◇―)/ 

(^^;)はは


親にとっての都合で相応しいとかそうでないとか、果ては人間性がどうとか論じるのは、多分に視点のずれた話としか思わないのですね。

そこにはわずかな時間しか接しない親より、直接触れている息子の方が遥かに色々分かっているし、どうしても駄目なら自然に壊れるでしょうし、そうでないなら続いて行く事になります。

親としてあくまでも表面的部分を基にして何がしかを語るは、我が子に対する不信と寸分たがわぬイクオールですから、我が子を信頼していればそうした気持ちなど生まれるはずも無いというのが考えの基本に有ります。

息子が信頼する娘なら親も信頼するということ 

(^^)「お~かっこよく聞こえる」


自分自身の若い頃をふりかえるなら、反抗的な服装、髪型、知性のかけらなんか無い言葉使い、変な格好で単車乗まわし、おまけに常識知らずだったし・・・

そうした己の過去を振り返ってみるなら高学歴で、お堅い仕事についていて、表っ面が良ければ、どんな親とて僕なんぞよりそちらのほうが遥かに良く見えるものです。

突き詰めれば親という自分のそのものをまずは厳しく見ねばならず、その延長として我が子に対する信頼というものを親としてどう捉えていくか?という事そのものが試される事ではないか?何て思うのですが・・・

空っぽな箱なのは、その中に入るべきものが娘さんの評価ではなくて、あくまでも夫婦となって二人で創り上げていく未来の姿が入っていく余地のみが存在するにだけに留まり、それは誰しもが出来る結婚で完結して終わるのではなく、結婚してから二人がどういった人生を歩んでいくかという、二人の子供が織り成す夫婦としての成長が入るだけに留まるものだからなのですね。

20歳を過ぎれば子は子の様で有ってそうで無くなり、一つの独立した存在となりますから、我が子が人生を生きていくに重要な事に際し、親の出る幕は一切無いという事です。

人と人の関係は身のほどをわきまえねば何でも不満となり、己をよく知れば多々感謝となるものです。

もし親が何かいえるとするなら、それはあくまでも助言を求められた場合とその範囲内に限り、要求されてもいない親の我侭を源とする意見等、一切思うことも言ってもならないと思ってます。

人間という生き物は実に柔軟な生き物で、自分の意思と気持ちがあれば、駄目な部分は修正でき、誤りは正すことができます。

全ての人は欠陥だらけのデコボコであり、そのデコボコの人間同士がかみあう事で強い核(一枚岩)になり家族はそれを中心にして構成される。

夫婦とはそうしたものではないか、家族とはそうしたものではないか、そう思いつつここまでやってきた、それが僕の生き方でもあり考え方でもあるわけですね。

(^^)