某掲示板における私の返信文の一部をここに転記してみたいと思います。
尚相手の方の原文は著作の関係で変更してあります。
*大人は若者が縦社会に従わないとすぐ攻撃的するのですね。
大人が若者をなんでも自分の思うようしようとして、それが出来ねばすぐに攻撃するという事ですが、確かにこの国は縦関係の構成が横より強く、しかしながらそれは日本独特の文化といってもよい、“甘え”を人付き合いの主軸にしていることから来ています。
返信としてはこの“甘え”という文化を中心に説明すると分かり易いと思いますので、この方向から話して見たいと思います。
この人付き合いにおける“甘え”という概念ですが、ある意味日本独特の概念といってもよく、欧米でこれにぴたりと当てはまる言葉はありません。
シチュエーションごとには当てはまるだろう?という言葉はそれなりに有れども、全てを総合して表現する言葉としては存在していません。
かろうじてdependentという言葉がありますが、この単語その物の持つ意味は従属、依存、信頼で、どれも日本の“甘え”という言葉とは違います。
日本の社会は基本的に相互移動の難しい閉鎖的集落生活圏と階級社会による構成社会が長く続き、その歴史の中で冷たくなりがちな人間関係に“甘え”という独自のコミュニケーション手段を取り込むことで人間関係を円滑にしてきたわけです。
その名残として今でも普段の生活で“甘え”という言葉は実に多用されますし、それにからんで自分以外の人間に対するコンタクト手法としての“遠慮”が甘えとの調整約として行使されること等にも現れています。
言いたいことが一番後になる日本語文法等も顕著な例です。
XXさんが書いた“縦社会に従わないと”という部分は、排除を意味するかと思いますが、これは至極当たり前の事です。
その理由は実に簡単で、大人が組み込もうにも(といっても無理に組み込もう等とは誰も思っていません)、若者自体に自分を社会に適応させる力が欠落しているか、うまく出来ない者では当然にそうなります。
格好付けた思想など現実の前には何の役にも立たないわけです。
こうした若者の社会性欠落問題が顕著に出てきたのはごく最近ですが、もともとこの国は親子関係を基点とした厳しさを基本とする教育によって、“自分以外の人間の気持ちを読み込む”、いわゆる察しの能力を育ててきました。
それは、他人との付き合いにおいては己に対する厳しさをベースにしたうえで、自分のもつ思いを甘えというかたちでどこまで相手に認めさせる(もしくは妥協させる)ことが出来るか?という力になるわけです。
故にそれが上手く出来れば対人関係も良好ですし、信頼もされるように社会そのものが出来ています。
まずは厳しく身を引き締め、それを基本として他人との調和をはかる文化であるということです。
日本社会における人間関係は甘えと厳しさの微妙なバランスの上に成り立っているわけですね。
しかし、“厳しいことは悪なのだ”と基礎的な親子関係から排除し、おまけに単なる空論でしかない
“誉めて育てる”(本来叱るべき事をほめることで代用して育てる教育法)や、”叱らない教育”が普通になり、当然の事ですがこうした教育で育った子達の特長として自分を厳しく見ることが下手で、更には
“怒り”というものがいかに多種多様でさまざまなメッセージを含んでいるかということを“理解できない”という最大の欠陥を生み出します。
それが現実的に現れる例として他人の怒りはすべて自分への攻撃としてしか解釈出来ず、叱られれば簡単に逆切れし、その思考は相手を排除(相手を殴り殺したり刺し殺したり)することだけに支配されます。
最近起きている事件をみれば不可解な犯罪を起こしている者達の発言や言動がまさにそのままであることに気付かれるかと思います。
まあ、自分に対する厳しさを基本として構成されている社会に、“厳しさを悪”として人間関係を構成しようとする者が入り込もうとするわけですから、摩擦がそこに生じるのは当然なのです。
人(日本人)は厳しさを基礎として育てられねば、自分を引き締める事等出来ませんし、それがなければ対人関係において自己の要求を通させる手段は上手な甘えではなく、たんに相手への要求という形でしか伝わりません(表現出来ません)。
人間関係では、甘えは相手への信頼であると同時に、自分より上に立てる(見ている)という暗黙のメッセージを含みますから、甘えが上手であるほど「しょうがねーな」と笑って処理してくれても、
要求(しかも権利という言葉をすぐに持ち出します)では対価が原則ですから、そうしたした気持ちが無いまま要求を連発されている様に見える以上は、誰しも「ふざけんな!」となるわけです。
そこにきて己を引き締められない姿(自分への厳しさが無い姿勢)は身勝手でだらしない態度その物に見えますし、怒を理解できずに動けなくなりボーっと(頭の中はパニック状態)した態度では(褒めて育てられるとかならずこうした人間になります)、何度言っても分からないやつ(人の気持ちを全く理解できないやつ)と判断され、排除されます。
それが現実社会です。
次に、
*自分より上の人間には何でも服従姿勢ができないと駄目なのですね。
という言葉ですが、これも上記の事を頭に置いて考えれば容易に理解可能で、例として上下関係ができる代表は職場ですが、職場は当然のことながら、経験を中心とした能力の差による集団構成であり、当然に日本人どうしが集まれば小さな社会そのものですから、上手な甘えというものが常に要求されます。
友達同士であればこうした上下の関係は殆どありませんが、縦と言う概念が出てくればどうしても避けて通ることはできません。
*相手が自分より強い立場ならどんな無理や難題も黙って受け容れないと駄目なんですね。
会社はあくまでも営利を目的とし、また、利益上がらねば存在意味も無くなってしぜんと崩壊するものですから、それを防ぐ唯一の手段が厳しさであり、それは個々の人間からはじまって最終的には企業態度そのものへつながります。
社員がだらしなくなれば(特に経営者が)当然に社会問題となるような食品偽装問題や詐欺となるのは至極当たり前の事なのです。
ただ、こうした厳しさはやたら厳しければ良いというものではなく、適度な甘えが許される人間関係が必要で、それが上手く働けば会社全体の力も強くなり中で働く人たちもいきいきとするものです。
褒めて育てられたり、叱らない教育で育った人間は、相手の怒から、その根底にある気持ちを読むことは出来ませんし、それを基本にした甘えも当然上手く行使出来無いことはすでに書きました。
物事がなぜ無理難題に思えるのかは、それを押し立てる側の思考を推察する能力が優れているほど無理でもなく難題でも無くなり、反対に己の思いがまず先に立てばどのようなことも無理難題になるわけです。
*なんでも強弱、勝負で成績を付け、いじめるかいじめられるかもそうで
*基本的な事は従っても絶対服従はしない、でも弱い者苛めもしないという
*人間だと欠陥者なんですか?
勝ち負けは単に互いの能力の争いでもあり、同時に勝つために自己の能力を高めることでもあります。
逆に言えばしのぎ合えば当然に生じるもので、だからとて有る部分で勝利しても、ほかの部分で敗北することは日常茶飯事であり、何が問題なのかというなら、勝ち負けそのものはその目的となっている一部分の目的遂行の結果でしかないこと。
それよりはるかに大事なのは、しのぎあう為に努力する姿勢(子供であればその過程で生じることのある正しいいじめのありかた)や態度、勝っても負けてもその経験を自分の新たな進歩に結びつける事が出来るかどうか?という人間性の方が大事なのです。
社会に出る前の学生時代は、それしかないこともありますが勉強を人間の尺度のように考える傾向がありますが、勉強の出来不出来は人間性と100%無関係で、たんなる技能でしかない勉強をもって人間性を推し量ることは当然のことながら出来ません。
人は様々ですから、そのなかである程度興味を持ち、粘り強く繰り返すことが得意な子が高い点数を取るのは至極当たり前のことでしかなく、
勉強は技能だからこそテストや成績表で評価できるだけのことであり、しかしながら人間性は点数という形で絶対に表わす事は出来ず、方法の欠片すら見あたりません。
教員試験のペーパーテストでトップクラスの成績を取ったから、だからとてつもなく素晴らしい先生だ! ????そんなこと無いことくらいは誰にでも分かることですよね。
最終的には人間性が一番大事なのです。
*絶対服従しない、
いいじゃないですか、そのくらいの気持ちが無ければ進歩する事はできません。
ただし、服従しない事を皆に認めさせるくらいの努力と人間性に磨きをかけて下さい。
自然と周りが認めて(甘えさせて)くれます。
*弱い者苛はしない、
それが大人です。
*基本的な事には従う、
誰でもそうですが、人間関係を構成するに必要最低限の我慢は必要です。
不必要に従う必要もなく、かといって従わないばかりでは駄目。
服従を要求されていると感じたら、なぜ相手が自分を従わせようとしているのか?
まずそれを考え、そのうえで「人間的にどうするか?」を判断する。
同時に自分が今従わない事は、将来必要な時に他の人間に要求することが出来ない事を意味しますから、自分は従わないけど他人には要求する、そんな自分勝手で我侭な事は人間として恥ずべき事、そして許されないものですからよく考えねばなりません。
*欠陥者なのですか?
自分の姿を自分でどうとらえるか?それに対して外部は何らの評価をする事はできません。
欠陥者だと思えばそうでしょう、そうでないと思えばそうなります。
自分を決めるのはすべて自分であり、他人ではありません。
欠陥者だと思うなら欠陥のない人間になるように努力する、たったそれだけのことです。
最後に、私は学生時代の国語の成績は惨憺たるものでした、特に文章読み込み問題での回答が「何故これ一つと決まっている?」と混乱し、「もしそうでなかったら?」と考えて答えの堂々巡りをすることが多々有ったからです。
まあそんな人間のこの返信ですから頭の片隅に「こんな事言っていたな~」程度で覚えていてくれれば嬉しく思います。
尚相手の方の原文は著作の関係で変更してあります。
*大人は若者が縦社会に従わないとすぐ攻撃的するのですね。
大人が若者をなんでも自分の思うようしようとして、それが出来ねばすぐに攻撃するという事ですが、確かにこの国は縦関係の構成が横より強く、しかしながらそれは日本独特の文化といってもよい、“甘え”を人付き合いの主軸にしていることから来ています。
返信としてはこの“甘え”という文化を中心に説明すると分かり易いと思いますので、この方向から話して見たいと思います。
この人付き合いにおける“甘え”という概念ですが、ある意味日本独特の概念といってもよく、欧米でこれにぴたりと当てはまる言葉はありません。
シチュエーションごとには当てはまるだろう?という言葉はそれなりに有れども、全てを総合して表現する言葉としては存在していません。
かろうじてdependentという言葉がありますが、この単語その物の持つ意味は従属、依存、信頼で、どれも日本の“甘え”という言葉とは違います。
日本の社会は基本的に相互移動の難しい閉鎖的集落生活圏と階級社会による構成社会が長く続き、その歴史の中で冷たくなりがちな人間関係に“甘え”という独自のコミュニケーション手段を取り込むことで人間関係を円滑にしてきたわけです。
その名残として今でも普段の生活で“甘え”という言葉は実に多用されますし、それにからんで自分以外の人間に対するコンタクト手法としての“遠慮”が甘えとの調整約として行使されること等にも現れています。
言いたいことが一番後になる日本語文法等も顕著な例です。
XXさんが書いた“縦社会に従わないと”という部分は、排除を意味するかと思いますが、これは至極当たり前の事です。
その理由は実に簡単で、大人が組み込もうにも(といっても無理に組み込もう等とは誰も思っていません)、若者自体に自分を社会に適応させる力が欠落しているか、うまく出来ない者では当然にそうなります。
格好付けた思想など現実の前には何の役にも立たないわけです。
こうした若者の社会性欠落問題が顕著に出てきたのはごく最近ですが、もともとこの国は親子関係を基点とした厳しさを基本とする教育によって、“自分以外の人間の気持ちを読み込む”、いわゆる察しの能力を育ててきました。
それは、他人との付き合いにおいては己に対する厳しさをベースにしたうえで、自分のもつ思いを甘えというかたちでどこまで相手に認めさせる(もしくは妥協させる)ことが出来るか?という力になるわけです。
故にそれが上手く出来れば対人関係も良好ですし、信頼もされるように社会そのものが出来ています。
まずは厳しく身を引き締め、それを基本として他人との調和をはかる文化であるということです。
日本社会における人間関係は甘えと厳しさの微妙なバランスの上に成り立っているわけですね。
しかし、“厳しいことは悪なのだ”と基礎的な親子関係から排除し、おまけに単なる空論でしかない
“誉めて育てる”(本来叱るべき事をほめることで代用して育てる教育法)や、”叱らない教育”が普通になり、当然の事ですがこうした教育で育った子達の特長として自分を厳しく見ることが下手で、更には
“怒り”というものがいかに多種多様でさまざまなメッセージを含んでいるかということを“理解できない”という最大の欠陥を生み出します。
それが現実的に現れる例として他人の怒りはすべて自分への攻撃としてしか解釈出来ず、叱られれば簡単に逆切れし、その思考は相手を排除(相手を殴り殺したり刺し殺したり)することだけに支配されます。
最近起きている事件をみれば不可解な犯罪を起こしている者達の発言や言動がまさにそのままであることに気付かれるかと思います。
まあ、自分に対する厳しさを基本として構成されている社会に、“厳しさを悪”として人間関係を構成しようとする者が入り込もうとするわけですから、摩擦がそこに生じるのは当然なのです。
人(日本人)は厳しさを基礎として育てられねば、自分を引き締める事等出来ませんし、それがなければ対人関係において自己の要求を通させる手段は上手な甘えではなく、たんに相手への要求という形でしか伝わりません(表現出来ません)。
人間関係では、甘えは相手への信頼であると同時に、自分より上に立てる(見ている)という暗黙のメッセージを含みますから、甘えが上手であるほど「しょうがねーな」と笑って処理してくれても、
要求(しかも権利という言葉をすぐに持ち出します)では対価が原則ですから、そうしたした気持ちが無いまま要求を連発されている様に見える以上は、誰しも「ふざけんな!」となるわけです。
そこにきて己を引き締められない姿(自分への厳しさが無い姿勢)は身勝手でだらしない態度その物に見えますし、怒を理解できずに動けなくなりボーっと(頭の中はパニック状態)した態度では(褒めて育てられるとかならずこうした人間になります)、何度言っても分からないやつ(人の気持ちを全く理解できないやつ)と判断され、排除されます。
それが現実社会です。
次に、
*自分より上の人間には何でも服従姿勢ができないと駄目なのですね。
という言葉ですが、これも上記の事を頭に置いて考えれば容易に理解可能で、例として上下関係ができる代表は職場ですが、職場は当然のことながら、経験を中心とした能力の差による集団構成であり、当然に日本人どうしが集まれば小さな社会そのものですから、上手な甘えというものが常に要求されます。
友達同士であればこうした上下の関係は殆どありませんが、縦と言う概念が出てくればどうしても避けて通ることはできません。
*相手が自分より強い立場ならどんな無理や難題も黙って受け容れないと駄目なんですね。
会社はあくまでも営利を目的とし、また、利益上がらねば存在意味も無くなってしぜんと崩壊するものですから、それを防ぐ唯一の手段が厳しさであり、それは個々の人間からはじまって最終的には企業態度そのものへつながります。
社員がだらしなくなれば(特に経営者が)当然に社会問題となるような食品偽装問題や詐欺となるのは至極当たり前の事なのです。
ただ、こうした厳しさはやたら厳しければ良いというものではなく、適度な甘えが許される人間関係が必要で、それが上手く働けば会社全体の力も強くなり中で働く人たちもいきいきとするものです。
褒めて育てられたり、叱らない教育で育った人間は、相手の怒から、その根底にある気持ちを読むことは出来ませんし、それを基本にした甘えも当然上手く行使出来無いことはすでに書きました。
物事がなぜ無理難題に思えるのかは、それを押し立てる側の思考を推察する能力が優れているほど無理でもなく難題でも無くなり、反対に己の思いがまず先に立てばどのようなことも無理難題になるわけです。
*なんでも強弱、勝負で成績を付け、いじめるかいじめられるかもそうで
*基本的な事は従っても絶対服従はしない、でも弱い者苛めもしないという
*人間だと欠陥者なんですか?
勝ち負けは単に互いの能力の争いでもあり、同時に勝つために自己の能力を高めることでもあります。
逆に言えばしのぎ合えば当然に生じるもので、だからとて有る部分で勝利しても、ほかの部分で敗北することは日常茶飯事であり、何が問題なのかというなら、勝ち負けそのものはその目的となっている一部分の目的遂行の結果でしかないこと。
それよりはるかに大事なのは、しのぎあう為に努力する姿勢(子供であればその過程で生じることのある正しいいじめのありかた)や態度、勝っても負けてもその経験を自分の新たな進歩に結びつける事が出来るかどうか?という人間性の方が大事なのです。
社会に出る前の学生時代は、それしかないこともありますが勉強を人間の尺度のように考える傾向がありますが、勉強の出来不出来は人間性と100%無関係で、たんなる技能でしかない勉強をもって人間性を推し量ることは当然のことながら出来ません。
人は様々ですから、そのなかである程度興味を持ち、粘り強く繰り返すことが得意な子が高い点数を取るのは至極当たり前のことでしかなく、
勉強は技能だからこそテストや成績表で評価できるだけのことであり、しかしながら人間性は点数という形で絶対に表わす事は出来ず、方法の欠片すら見あたりません。
教員試験のペーパーテストでトップクラスの成績を取ったから、だからとてつもなく素晴らしい先生だ! ????そんなこと無いことくらいは誰にでも分かることですよね。
最終的には人間性が一番大事なのです。
*絶対服従しない、
いいじゃないですか、そのくらいの気持ちが無ければ進歩する事はできません。
ただし、服従しない事を皆に認めさせるくらいの努力と人間性に磨きをかけて下さい。
自然と周りが認めて(甘えさせて)くれます。
*弱い者苛はしない、
それが大人です。
*基本的な事には従う、
誰でもそうですが、人間関係を構成するに必要最低限の我慢は必要です。
不必要に従う必要もなく、かといって従わないばかりでは駄目。
服従を要求されていると感じたら、なぜ相手が自分を従わせようとしているのか?
まずそれを考え、そのうえで「人間的にどうするか?」を判断する。
同時に自分が今従わない事は、将来必要な時に他の人間に要求することが出来ない事を意味しますから、自分は従わないけど他人には要求する、そんな自分勝手で我侭な事は人間として恥ずべき事、そして許されないものですからよく考えねばなりません。
*欠陥者なのですか?
自分の姿を自分でどうとらえるか?それに対して外部は何らの評価をする事はできません。
欠陥者だと思えばそうでしょう、そうでないと思えばそうなります。
自分を決めるのはすべて自分であり、他人ではありません。
欠陥者だと思うなら欠陥のない人間になるように努力する、たったそれだけのことです。
最後に、私は学生時代の国語の成績は惨憺たるものでした、特に文章読み込み問題での回答が「何故これ一つと決まっている?」と混乱し、「もしそうでなかったら?」と考えて答えの堂々巡りをすることが多々有ったからです。
まあそんな人間のこの返信ですから頭の片隅に「こんな事言っていたな~」程度で覚えていてくれれば嬉しく思います。