まだ世に生まれ出て僅か、でも不思議な事というか、「それが人間なんだな~」と思うことがある。
理屈云々ではなく、実感として得られるものだ。
自分の子が生まれた時は、とにかく浮ついて記憶もさだかではないのだけれど、こうして孫だと落ち着いていられるのがとても不思議だ。
対面したのは、生まれてわずか30分足らず後の事。
母親はまだ分娩室で処置中、ゆえに息子、家内、娘、嫁さんのお母さんに次々と抱かれ、皆からすでに決まっていた名前で盛んに呼ばれるのだけれど、まだピントが合わないはずの眼をまっすぐ開けて抱いている人を見ている。
特に反応するのは息子の声で、他の人に抱かれている状態で声をかけると、殆ど動かない頭と眼を動かして声の方向を探すような反応をしている。
すでに親以外の人たちを区別しているように思えるのだけれど・・・
しばらく変わりばんこに抱いているとやがて泣き始め、そこで息子が抱いて声をかけると、ぴたりと泣きやんでじっと顔をみている。
「はれ?」と僕は思うのだが、まぐれだろうなんて思って、又他の人が次々抱いていると泣き始め、又息子が抱くと泣き止む。
お腹の中にいるときに、常に聞いていた声が生まれたばかりの子供に安心感をもたらしているのがこんなところから分るから面白い。
しかし、予想もしなかったのが、我が息子の可愛がり様。
午前中から門限の8時まで、ずっと子供の傍を離れずに抱っこし続け、常に指に触ったり、ほおを撫でたりを繰り返している。
生まれて間もない赤ちゃんはほぼ一日寝ているので、まず起きている時間は短いのだけれど、寝ていようが起きていようがお構い無しに
やっているので、「孫にしてみゃ迷惑だろうな~」 なんて冗談半分に僕は思う。
この、まだ眼も見えない一時は、匂いと肌をとおしてつぎつぎと入ってくる感覚が大脳を発達させ、特に誰が親なのかという認識を作り上げるもっとも重要な時であり、
この生まれて間もない時期に得られる感覚や声等という情報というのはとても大事なのですね。
これが無音、もしくはヒステリックな騒音(特に人の言い争う声)、冷たい、無感覚等という状況が続くと、親というものを認識するべき一番大事な部分の発達が遅れるわけで、
一見なんでもなく育っているように見える子供が反抗期(第二次性徴期)を迎える頃に人格の一部として表に出てくる。
こんな事をしてはいないでしょうか?
「いやーバッチイ!」と父親を汚いもの扱いして我が子の指や頬を触らせない
「寝ているからうるさい! しー!」と異常に神経質になって無音状態をつくる
生まれたばかりの我が子のすぐ傍で父親と母親がいい争いをする
生まれて間もない子をどこかに放置(捨てる)する
子供をほとんど抱かず、泣いても関心が薄い
こうした状況下で、生まれた後の一週間をすごしてしまうと、自分と密着すべき存在(安心感)の認識が確立不十分のまま育っていくことになる。
一番初めのやつは、父親が出張等で会えなかった場合も往々にしてあり、もちろん影響は出るもののさほどではないが、母親(夫婦)が上記のような体たらくだと後に致命的な問題となる。
同じ撫でるでも、父親のごつごつとした感覚、母親の柔らかい感覚、両方が子供にとって親を認識する為に必要なもので、欠かすことは出来ないものなのですね。
豊かな感覚と愛情をもつ子供、その始まりはこのわずかな時間にあると言い切っても良い。
ある親がいる、うまれた我が子との最初の一週間を両親がどう過ごしたか?が その子がやがて親となり生まれてきた子供に接する姿そのものにもなるわけで、
人というのは生まれた瞬間から人格の形成が始まるわけだ。