
ひな祭りで思い出すのは、子供の頃に近所で見た5段飾りだの7段飾りの人形達。
当時の安い予算でまとめて造られた団地に大きな部屋等あるはず無く、せいぜい6畳二つに、テーブルすら置けない狭いキッチンで構成された2Kの空間で、太陽の光がにわかに春の香りを届けてくれる頃に忽然と出現する雛人形達に、なぜか尊敬するような触れてはいけない存在のような、そんな不思議な感覚を持った事を覚えています。
表情があり、でも所詮土や木製である人形達のもたらす不思議な無表情は怖さでもあり、それでいて人間ぽくて・・・・
そんなことより雛アラレだけが目当てであることがみえみえな自分達に、ニコヤカな笑顔でくれる白い包みと、それを差してくれた白い指先、袋をあけて中にはいっているあられの鮮やかな色が先の記憶と供に妙に強く残っているのですね。
今考えれば「本当に記憶どおりの大きななんて有ったのだろうか?」、「どこかで見た別のイメージがあるはずのない幻を構成してしまったのではないか?」なんて思うわけですが、娘の為にセットしたひな壇の大きさは、そうした自分の幼き頃の記憶に毎回疑問を投げかけてくるようであり、違うようであり・・・・
今ではほとんど無いであろう、木を掘り込んで手書き手法で描かれた人形達の顔は、それぞれの表情が同じようでいて微妙に異なる。
家の雛人形は娘が生まれた際に家内が受け継いだもので、すべて手縫いの衣装であることや紙で作られて一つ一つ慎重に被せねばならない帽子等、ぽんと出して終わりではないことから脇に刺す刀や弓などから始まって個々のパーツを組んでいくは面倒でもある。
でも子供を育てるという事そのものは、こうした一つ一つを丁寧に構成していくのと寸分たがわぬものであって、一つ一つの人形達を丁寧に乗せていき、一番最後に二人を乗せ、全員がそろって初めて全体を見渡すひな壇は、あたかも結婚式のようではないか?
なんて思ったりもするのです。
家の中心にセットされ、私の家族を見渡す人形達の表情はどこまでも優しく、どこまでも透明でもあり、遠き昔から今に至るまで、親たちは何度も人形達に我が子の未来を描いてきたのだけど、
御雛様をとおして見えてくる、親が我が子に注ぐ思いというものが何ら変わる事の無いものであることは、まるで人の心という面で自分をはるか古代から未来まで誘ってくれるタイムマシンのようではないか?
一年に一度というこの人形達との再開は、一つの時代の、しかも一度しかない自分の子育てに与えられた時間というものを超越した、身体を構成する全ての細胞の中にあるDNAに刻まれた祖先たちの思いと溶け合って一体化することの出来る不思議なものなのではないか?
そんな事を思ったりもするのです。
すぐそこに有るのになかなか来てくれない春も、雛人形の周りだけはとても暖かく、それがいつもより甘い酔いをもたらしてくれているような、そうでないような・・・