「久しぶりに家族旅行すんべ」 と、初めはウインドサーフィンの道具をトレーラーに積んで行こうとしたのですが、「なんでいつもウインドがらみなの?」と娘に微半切れされ、仕方なしに?ただの旅行としてくりだしたのが今回の浜松。
たまたま家内の関係で素泊まり可能のホテルが確保でき、もっともそうでなけりゃ金欠のうちが旅行なんぞ行けるはずが~無い。
「ホテル箔で、ウインドが無いなら 軽自動車が最強だぜ!」 というわけで、着替え程度の荷物を積んで朝7時半頃に家を出発。
早速、国道16線の原因不明~渋滞に引っかかり、あわてて逆戻りして圏央道経由で富士を回って東名高速へ、
途中で飯し食って、結局今日の目的地である 設楽が原に付いたのは3時近く。
近そうに見えて、実は結構遠いのが浜松、そこから設楽が原まではさらに小一時間くらいなので、こんな時間になってしまうのです。
ウインド出来ないなら俺が勝手にプラン決める! と、(どうせ初めから行き先をこちらに任せっきりの癖に大抵は後で文句言う女二人は無視で)何故設楽が原なのかというなら、ここはかの有名な長篠の合戦があったところ。
実質的天下分け目の戦いであり、それまでの戦術そのものを大きく変えてしまった戦いで、ここで織田群の鉄砲隊3000丁による三段撃ち(諸説がある)が行われ、戦国時代最強といわれた武田騎馬隊が退廃したのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
よく、関が原の合戦を天下分け目の戦いといいますが、その実情は単なる内輪もめでしかなく、数こそ多いですが、これが天下どうのとか言われても・・・ この長篠の合戦こそが実質的天下分け目であったと僕は思っています。
まずは資料館にいってみますが、壮大な戦だった割には、こじんまりというかんじ。
それでも火縄銃を中心とした展示物などを結構取り揃えてあり、年月の経過と供に変わってきた長篠合戦の評価を感じます。
しかし・・・・ 歴史に関してトンチンカンな家内は適当に見て歩くので、先へ進むのが早い。
対して、幼い頃から日本の歴史話を聞かせてきた娘のほうは興味深げに見ており、特に鳥居強右衛門の話には思うところがあったようです。
武田家の退廃の主たる要因は鉄砲の威力による物であることは間違いなく、それ以外に兵力差が3倍近くあった事や、騎馬が縦横に動くにはあまりにも狭すぎる戦場にあったと見ていますが、
当時武田の党首であった 勝頼が愚将だからというのは誤りで、それは武田家滅亡後に織田側が勝者として流布したものであり、実際には天下を取れる才気と智謀に長けていたことは、多数の資料を読み込むと良くわかります。
ただ、其の若さゆえに織田に通じていた数人の家臣(穴山梅雪他)の策謀に乗せられた面をあながち無視することは出来ません。
さて、そんなわけで約45分くらい館内を見て歩き、すぐに車に乗ると、戦場となった川べりの道路をゆっくり流して自分なりに当時の姿を想像しますが。
自分が武田の武将であったのなら、この地形にて戦うことはしませんね、
丘を越えるようにして織田の陣地に突入するにはこの地形は有利に働く面もあり、不利に働く面もある。
戦が行われた日は今の暦に直すと7月初めくらい、丁度梅雨の終盤で、明け間じかの豪雨が続いていたと当時の記録にはあります。
雨が豪雨であれば鉄砲は役立たないうえ、迫る騎馬の動きが良く見えませんからほぼ勝利。
逆に雨が上がれば鉄砲が有効に働きますので逆に敗北。
まさに運を天に仰ぐような戦であったのでしょう。
資料館を離れると、車で10分くらい離れたところにある、長篠城跡と資料館に立ち寄ります。
先ほどの資料館と兄弟館で、終わりが4時半までなので、これまた急いで見て歩きますが。
建物がさらに小さいのであっという間に終わり、後は長篠城跡(本丸)を見ますが、現在も残る空堀と城を守る
二つの川が作り出した天然の要塞は、武田群の攻撃で落ちなかった理由を無言で語り掛けてくれます。
しかし、異常に暑いな~!
さて、今日はこれで終了、一度ホテルに入り、コンドミニアム型なので、夕飯の買出しに出かけます。
地元の大きめスーパーがあったので入り、惣菜コーナーで寿司を買い、ビール諸々を買って戻りました。
一階に有る温泉は湖のほとりで、良。
テレビを見ていたら、日本全国35度って暑いの何の。
浜名湖も同じようなものだったのですが、多少酔っ払い、テレビ見て笑っていた家内と娘に相手されなくなった段階で 眠くなった 「おやすみなさい!」
日本最古? 信玄砲