春を待つ手紙
なんとなく秋なんだよね、でも夏大好きな僕にはこの曲がこよなく好きです。
幼き頃に聞いた名曲です
世の中には、叱るということに関して、とんでもない勘違いしてる人間が多くいます。
叱るは叱るであって暴力でははない、なぜなら過ちを正すことがその目的だからです。
しかしながら暴力は破壊であり虐待。
ところが結構これが分らない人間が多く、困るのは家庭裁判所の相談員初め、こうした子供の問題で相談する看板を掲げている者達が全く分っていないというのも事実です。
たとえるなら、
問題を起こす子や手のかかる子がいると、その親の子に対する接し方のパターンがいくつかに分類されると彼らは言うのですが、
大まかに次の4種類に別かれるらしいです。
1、放任
2、服従
3、支配
4、虐待
さて、さてこの中で叱るに関し、このどれかに類するか? 関する物が有るだろうか?というなら支配に該当するらしく、その理由は支配を暴力的なものと見ているからですね。
*教育評論家等の専門家という言う人たちは、ほぼ間違いなく叱るを暴力一部としています。
しかしながら、支配を本能という点から考えるなら正なのですが、これは後で詳しく書きます。
ちなみに、一番分りやすい4の虐待における 叱る は、あくまでも暴力を遂行する為の名目として使われているだけに過ぎず、そこに正す意味などほんの少しも存在しませんし、単なる親の精神的未熟もしくは異常から来る暴力行為でしかありません。
とうぜん躾(しつけ)になんら関係する事もなく、躾名目の虐待に至っては、もってのほかです。
それ以外の3つに関しては、本能を大切にし、日本の古来からある武士道初め徳と礼を重んじる育て方からするなら、けして過ちばかりではないのですが(ただし放任と服従は極端に扱いが難しく、説明には膨大な分量が必要で、そのため放任と服従はここでは肯定しておりません)、西洋式精神論という、人の持つ本能を極端に軽視した現在の精神医学初め心理学の考えからすると全て過ちとなってしまうのが残念です。
1、放任について
まず、本能を軽視した現代精神学では、放任はあくまで放任でしかなく、このような状態に子供を置くと心が不安定になり、イライラして暴力を振るったりということになるとのことですが、
しかしながら、これをどの基準をもって問題があるかと考えるなら、子供がいるはずなのに居ないかのように扱われる家庭環境であるところにあり、およそ人が人を育てるという状態すらが存在しないことから、これは単純に暴力であり、虐待。
子に接しない、話もしないから初まり、食事、洗濯、睡眠等々、ありとあらゆることが親により遮断され、拒絶されている状態で、こうした家庭の子は、人の持つ正常な愛情というごく基礎的心の発育に影響をあたえ、基本的人間性に問題を抱えることが多い。
思春期になると無気力もしくは非行行動に似た行動を取ることが多いが、こうした育てられ方をした子は、精神の健全性がきちんと確立してる事を前提にして周囲が関わる事は出来ず、無気力や非行として考えることそのものも間違っています。
こうした子に叱るという行為は全くなじまず、叱られるということそのものが親の愛情を背景にしているという事を、理解する心そのものが育っていない為に、叱ることそのものが許されません。
全て暴力という解釈しか出来ない子に育つのですから。
2、服従について
我が子可愛さの為に、もしくは”どう接してよいか?”が分らず、なんでも言うとおりになる。
一見傍から見ると、豊富に愛情を注いでいる様に見えなくもないのですが、実情は子のペット化でしかなく、その背景には親が喜怒哀楽という人の感情と、これに絡む本能という心の基本構造を経験的に理解していない場合が多い。
当然、親そのものが苦悩と格闘して乗り越えられる精神的強さを持つ人間では無い事が多く、子が思春期になる年令に達する前に他の要因(金銭的生活苦等)、もしくは子の二次反抗期に耐えられずに伴侶へ矛先をむける等して家庭不和へと発展し離婚。
さらにその後の生活苦に心を病んで通院することになる、定型パターンが当たり前の様に発生します。
叱るという行為が必要不可欠なものであるのに、それを正しく考える認識や理解はほぼ無く、暴力と完全に混同している事から、叱ることに恐怖を覚え、叱ったとしても心が常に揺れ動き混乱していることから、結局子供になんら伝える事が出来ません。
当然、親としての叱るが ”暴力” として子に伝わる率が非常に高いので、その中身は実質的虐待。
心の弱さが背景にあるために、子の成長(特に小学校3年生より上)にともない返ってくる、思いもしない言葉や態度に逆上しやすく、一度切れ始めると叱るという名目で虐待を行う事も多く、しかもそれが虐待なのだと分らないタイプ。
常に逃げが親の心理的背景にあるため、ほめて育てる、叱らない子育て等の、労せず楽に実行可能な言葉に弱く、ペット化の自己弁解及び自己擁護のために受け入れている(さらなるペット化)事が本当に多い。
最終的に子供が思春期へ到達すると、親の弱さと不安定さをそのまま引きついでいるために極端な非行や引きこもりになりやすく、子も精神的不安定ゆえに暴力で発散する傾向が有り、親がペット化して育てた子供に、逆にペット化(奴隷化)されるという事になりやすい。
3、支配について
これがもっとも叱ることによく関係していると思われている育て方の典型ですが、なぜか同時に叩く(手を上げる)、怒鳴る(脅す)、暴言を吐く(威はく)を全て悪としてきっちり関連付けてしまっている人が結構多いのが困ったところです。
叩くと 怒鳴るは 叱る上で必要な時もあり正、しかし暴言は単なる言葉の暴力で虐待、これを全てごちゃ混ぜにして叱るという解釈をしているのですからあきれて物が言えない。
こんな風になってしまうのは、基本的に教育は支配であることを理解せず、本来有るべき自然な姿を無理やりねじまげて自由だ個性だ、開放だとやるからなのですが、
西洋式心理学を中心として教育を考えるとこうしたおかしなねじ曲げられ型をすることになる・・・・ 困った物です。
まず支配は叱ると同様、二種類あります。
一つは親の利益のための支配でこれは虐待、もう一つは子のための支配で、これは叱ると同様に健全な子供の成長のためにあるもの。
此処では健全な子供の成長のための支配に関してしか書きません、親のための支配は虐待でしかないからですが、糞味噌一緒で同じに考えて書くほど愚かでみっともないことは有りませんので。
本能を中心とした日本古来からの考え方に立つと、叱る事(親)と叱られる事(子)は互いに”礼”でありイクオール、叱るも、叱られるも供に人(心の)としての修練であり修行。
礼(相手を正しく評価するというのがこの言葉の本当の意味)から 親も成長し、子も成長し、そうして人の心が豊かになっていくからです。
”生物”は生まれ出た瞬間から親の支配をうけるのは当然のことで、成長につれ、必要性に応じて親が開放して独立させていくのも当然のこと。
およそ生物という名の付く生き物はその生態が高度化するほど子を支配する時間も長く、それによって親(社会)から授かる生きる力(学習)の量もふんだんとなり、故に親からの独立(解放)後はその能力を十分に生かして生きていくことができる。
支配が無いということは、卵を産んでそのままにしておく原始的爬虫類等、下等な生物世界のものでしかなく、一定の支配が出来る生き物ほど高度化出来たわけです。
支配は本来、保護と成長、教育の為のものであり、保護が無い、成長がない、教育が無い状態は完全なる虐待であり、その支配の中でもっとも強い支配状態が叱るということ。 故に正しさがそこに無ければ暴力でしかない。
人間ほど進んだ思考のできない生物は、叱る事に邪心を混在させられる程の能力も同時にありませんから、叱る事は全て正となるのですが、欲を初めとする怠惰を持つ人という生き物はどうしても正しさをうしないやすく、それゆえ叱ると暴力が混合した状態になりやすい。
頭の良い人間であると、すぐに分かってもらえるのですが、叩く、怒鳴るは、それを実行している親の為の利益追求が目的であるなら虐待ということです。
ですから、本来の”子供の為に叱る”とはべつのものであり、これを混合して考えること事態が本来は間違いなのですね。
人は生まれながらに社会から自分を切り離して生きていくことは出来ません、生きて行くには生まれてきた子供を、社会に適応できる人間という最低の型にはまる様に育てねばなりません。
学校、会社、親子関係、友達関係、上司、部下、先生等々、およそ人がそこにあれば常識はじめとした社会の基本的ルールがあり、 それが型そのものであり、叱るは、我が子をその型に適応させる為にある。
問題は、型は型であり、窮屈にして動きがとれず、それにはめられるように育った子が、自分の力でそれに疑問を持ち、型を破るための正しい行動をとることで、あちらこちらにほころびが生じ、
そのほころびから時代の変化にあわせた新たな常識が出来ていく。
しかしながらさらにその次の世代にはその型はすでに通用せず、又新たに変化していく。
型にはめる親とそれを破る子の繰り返し、実はそれが発展であり、進歩なのですね。
問題はその型の破り方、自分かってにやりたい放題すれば単なる犯罪、自分の考えを相手に伝え、説得し、そうして現在有る型と融合させながら変化させていくのが正攻法。
これを生み出す基になるのが正しく叱られた経験です。
その為には、人の心をよく知らねばならず、特に最も難しいのが人の怒りであり、この怒りを理解している度合いが高いほど、その子は世に出て苦しむ事無く生きていける。
怒りの種類はたった二つ、正しい怒りと、間違いのある怒り。
正しい怒りは、人を進歩させることの出来るもの、間違いのある怒りは、単に暴力として破壊しかもたらさないもの。
叱るの”源”は怒りにあり、正しき怒りは正しい叱りを生み出す。
当然それによって育てられる子は、ただしく叱られる経験が有るからこそ(間違った叱られ経験も時には必要)正しい怒りを理解させるわけで、 あやまった叱りの経験ばかりを積まされると間違いのある怒りをその子自体が生みだしてしまう人間になる。
最も恐ろしいのが、叱られる経験が無い、もしくは乏しい事で、 これは人の持つ怒りの種類、すなわち正しいのか、間違いなのかという怒りの分別が出来ない人間にほぼ100成長する。
当然正しい怒りを分別できる能力が無く育っていますから、全て自分へ向けた攻撃としてしてしか捕らえることが出来ないため、これが得たいの知れない恐怖を心に引き起こして引きこもりを生み、もしくは心を病ませる。
正しい怒りというものが理解できない人間は、怒り全てを自分への攻撃としてしかとらえられず、逆ギレし、逆恨みし、ともすると殺意まで抱く。
人は怒りに恐怖を覚えるように出来ており、出来れば触れたくない、引き起こしたくはない。 しかしながら生きていれば自分の思いや願いとは裏腹に現実は必ずやってきて、その際にそれを受け止めねばなりません。
正しい怒りなのか、間違いのある怒りなのかを判断させるには、それを受け止めて耐える忍耐力、逃げ出しそうになる心を抑えて正しい判断をさせる勇気、そしてその怒りの種類をきちんと把握して理解と判断を行い、
自分が取るべき行動を判断しながら冷静さを保てる能力が必要。
正しく叱られてきた子はそれが出来る様になります。
なにより、正しき怒りを自分の成長の糧にし、間違いのある怒りを暴力とだけとらえる事をせず、間違えの手本として自分の学習課題にする進歩能力にもなる。
これが無い子は間違いなく不幸になります、しかしながらこの能力はけして本で学ぶことは出来ず、大人になっては当然手遅れ。
唯一、幼き頃より親から正しく叱られてきた積み重ねのみがなせる技で、心の訓練により成り立つ物なのですね。
故に 叱らない子育て 等という、人の持つ一番難しい感情を処理する心の訓練が行われないで育った子が不幸になるのは、当たり前の事なのですね。
叱るは正、叱らない子育てはその場こそ親は楽が出来ても、その分の苦しみを将来子供が何倍にも膨らませて背負うことになる。
親が叱る事から逃げれば、子は一番大切な教育を受けずに育ってしまう。
叱ると言うことは、とても大切なことなのですね。