オリンピック開催の条件は優れた施設、効率的な運営計画、運営に過不足ない財源の裏打ち、国民の支持等で決まり、オリンピック憲章が謳っている精神は条件としていないようだ。
オリンピック憲章は「根本原則」として次のような精神を謳っている。
「根本原則 3」オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することを視野に入れ、あらゆる場で調和のとれた人間の発達にスポーツを役立てることにある――
「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会」を確立していない都市、国家はオリンピック開催の資格はないと宣言している。
「根本原則 8」で「スポーツを行なうことは人権の一つである」と言っているが、「人間の尊厳を保つ」とは、自由と人権の全面的な容認によって可能となる人間の存在性であろう。そこにどのような差別があろうとも、尊厳は傷つけられ、歪められる。差別は自由と人権の否定要素として立ちはだかる。
だから、「根本原則 6」で差別について言及することになる。「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。」
差別を伴ったなら、友情も連帯もフェアプレーの精神も未到達の領域へと追いやることになる。自由と人権を認めない差別ある場所に精神の平和も社会の平和も確立不能となる。
いわばオリンピック開催国として立候補し、開催するにはその都市とその都市が所属する国家は自由と人権の全面的な容認を武器に人間の尊厳を保障する差別とは無縁の社会・国家でなければならないはずである。
国際オリンピック委員会は中国が自由と人権の容認姿勢に問題があり、政治活動や人権活動に制限を加えて国民の尊厳を損なっているにも関わらず、その首都北京でのオリンピック開催を決定、世界に失望と怒りを与える苦い経験を味わったはずだが、そのことを何ら教訓とせずに立候補都市東京都知事と東京を支援する立場にある日本国総理大臣が共に人間の尊厳を損なうことを厭わない人種差別主義者・性差別主義者であることを無視して、東京に第一次選考通過の機会を与え、16日(4月)に国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会が来日、現地調査に入っている。
そして18日の麻生首相主催の晩餐会では麻生首相と石原都知事は差別主義者の顔を仮面の下に隠して次のように挨拶している。
麻生「日本のもてなしを満喫してください。日本は2016年のオリンピックとパラリンピックを開催し、世界の平和に貢献できると思います。またお会いできることを楽しみにしています」
石原「人類の平和と友情と調和が永遠に続くことを願います」(「NHK」
共に平和を口にしているが、オリンピック憲章が謳う「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立」は既に触れたように自由と人権を無条件に認め、すべての差別を排除する姿勢によって実現可能となるが、麻生と石原は双子の兄弟みたいに人種差別・民族差別、女性差別・弱者差別を自らの血としている。
一部の人間によって繰返し指摘されていることだが、麻生の場合は1983年の「東京で美濃部革新都政が誕生したのは婦人が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」と女性の判断能力を一段も二段も低く見る女性蔑視、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」とする日本民族優越主義とその反動としてのアジア人蔑視や民差別。
石原の場合は――
1999年東京都知事として身体障害者療育施設を視察した際の「ああいう人ってのは人格あるのかね」と語った障害者を人間と看做さない障害者無人格論から窺うことができる障害者差別。
あるいは「これは僕が言ってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です、って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね」と生殖能力の維持・喪失のみで男女の優劣を語る差別観。
あるいは2001年5月8日の産経新聞に投稿した『日本よ/内なる防衛を』で、当時多発した中国人犯罪の手口を以ってして、「日本人ならこうした手口の犯行はしないものです。・・・・こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはすまい」と手口の恐ろしさが「民族的DNA」に埋め込まれているかのような日本民族優越論に立った中国人評価等々。
このように差別は人格を全面的に認めない他者を存在させることによって生じ、差別に応じて尊厳意識は濃淡を描くことになる。
人格は断るまでもなく自由と人権の保障を得て十全な姿を取ることができる。
多分麻生や石原の自民族優越意識とそれと対を成している差別意識は個人の問題であって、東京も日本も全体としては人間の尊厳が確立された都市、社会となっていると言うだろう。
だが、麻生・石原が持つ優越意識と差別意識の政治性を自覚的に支持する者がいる一方、多くはそのことに無自覚に支持することによって総理大臣となり、都知事となっているのだろうが、自覚的な支持にしても問題だが、無知からくる無自覚の支持は二人が持つ差別と優越意識を社会の底流に生きづかせて、そのなくならない延命に手を貸す役目を永遠に担うことになる。
石原は国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会への施設や運営計画の説明後、都内で記者会見した際、英国人記者から「知事は日本の朝鮮半島への行為を矮小(わいしょう)化しているため開催地に選ばれるべきではないという、韓国での報道を知っているか」と問われて次のように答えている。
「ヨーロッパの国によるアジアの植民地統治に比べ、日本の統治は公平だったと朴大統領(朴正熙(パク・チョンヒ)・韓国元大統領)から聞いた」(「asahi.com」)
「日本の韓国の統治がすべて正しかったと言った覚えはまったくない。日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだったということをじかに聞いた」(同「asahi.com」)
「日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだった」としたら、植民地朝鮮に於いて日本人と朝鮮人が「非常に優しくて公平な」関係を築いていなければ成し遂げることができなかった統治風景だったはずである。敵対関係、あるいは優劣の差別関係にあったなら、関係内容はその内容のままに統治行為にも反映されて、敵対的・差別的統治風景を描いたはずである。
だが、過酷で情け容赦のない朝鮮人の土地に対する日本人の暴力的な収奪、日本に強制連行して労働力に仕立てるべく手当たり次第に力づくで行った人狩り、朝鮮女性を従軍慰安婦にすべく強引に狩り集めた暴力的拉致の例を挙げるまでもなく、戦前・戦後を通じた日本本土に於ける日本人の朝鮮人に対する差別は日本の植民地に於ける日本人の朝鮮人に対する差別、身分の扱いを正直なまでに見事に反映した姿としてある両者間の上下・優劣・尊卑関係の成果としてあった姿であろう。
このような関係が最も過激・先鋭に濃縮された形で現れた事件として関東大震災のときのデマが起こした全国で数千人の朝鮮人が殺された朝鮮人虐殺事件を挙げることができる。多くの日本人が無防備・無力な朝鮮人を見れば追い回し、殺していった。
もし植民地に於いて日本人と朝鮮人が「非常に優しくて公平な」関係を築いていたなら、日本本土に於ける日本人と朝鮮人にしても「非常に優しくて公平な」関係を築けていたはずだが、そうはなっていなかった。
もし「日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだった」としたら、1919(大正8)年3月1日を期して勃発し、朝鮮全土に拡大した朝鮮民族の植民地支配者日本に対する激しい独立運動は起こるはずもなかっただろうし、その独立運動に対して日本は死者7500人、負傷者4万5千人、検挙者4万6千人まで出す武力鎮圧に乗り出しす必要もなく、ありもしない歴史的事件となったに違いない。
石原のみにととまらず、麻生にしてもそうだが、差別を隠して平和を語る彼らの発言を許しているのは多くの日本人が麻生や石原といった差別主義者を無知・無自覚に支持し、総理大臣や都知事の職に就けているからだろう。
麻生や石原が発する差別主義に無知・無自覚であってはならないということである。
それは国際オリンピック委員会に対しても言えることである。オリンピック憲章で「人間の尊厳」や人権を謳っている以上、いくら口では平和を語ろうとも、内に人種差別や性差別を抱えて人間の尊厳や人権を蔑ろにしている人物がオリンピック開催に支配的に関わっている場合、それを個人の問題とせず、またそういった差別意識を社会の底流に生きづかせて、そのなくならない延命に手を貸さないためにも、それらの有無を財源や運営計画より上の開催の主たる条件に付け加えるべきはないだろうか。
だが、現実はそうはなっていない。政治家の抱える差別意識に無頓着となっている。
自らの差別主義を隠して世界の平和を語ること程、性質(たち)の悪い冗談はない。だが、麻生にしても石原にしても平然と語っている。