自民党の元幹事長加藤紘一が4月24日テレビの収録で麻生太郎総理大臣の取材対応が「傲慢な態度で大変よくない。すぐ改めるべきだ」と苦言を呈したとマスコミが伝えている。
ぶら下がり記者会見でそのことを突いた我が麻生と記者との遣り取りを「毎日jp」記事≪ぶら下がり取材「これは記者会見とは違うんでしょ」 4月24日午後7時20分ごろ~≫2009年4月24日)を参考引用して、先ずは安保理制裁委員会の北朝鮮資産凍結問題について記してみる。
<◇北朝鮮の安保理制裁委
Q:TBSです。よろしくお願いします。まず北朝鮮のミサイル問題なのですけど。
A:ミサイル、はい。
Q:安保理の制裁委員会が北朝鮮の3団体について資産凍結をするということで最終調整をしています。国連として初めて凍結で合意する見込みですけれども、総理としての受け止めをお聞かせください。
A:まずそれは正確に言わないといけないと思いますね、報道する立場からすれば。まだ正式に終わっていないと思いますね。従って今まだ途中の経過段階、経過だ、状況、段階ですから、経過の段階ですから、あの簡単なことは言わないほうがいい。それが最初に対する答えです。
我々としては1718の履行ということを過日の議長声明で決められていますんで、あの議長声明の出た通りにきちんと実行していただく、というのが一番大事。どの団体をどうするかというのは、これは安保理、制裁委員会は安保理のメンバーと同じ国ですので、この段階で我々としては今、対応を日本の代表を含めたところでやっているところで、最終的には決まっていないと思ってますから。
Q:おっしゃる通り最終調整段階なんですけれども、日本は14団体の指定をこれまで求めてきているわけですけども、今3団体で調整しているということなんですけれども、この点について総理はどのように。
A:ああ、それはもうきちんとまとめて動くというのは、みんなでそういう段階で決まれば、それはそれなりに結論ですからそれが。
Q:3団体であっても一定の評価と。
A:それは当然です。>・・・・
記者が北朝鮮団体に向けた資産凍結の安保理制裁委員会の決定が3団体に落ち着く「見込み」について質問したのは、それがかなり確定的方向に向かっていたからだろう。向かっていなければ質問できないし、実際にも3団体で決着を見た。
麻生首相はそのような情報を手に入れていないはずはない。手に入れていないとしたら、怠慢の謗りを受ける。当然、麻生首相はかなり確定的となったその「見込み」が実際に確定した場合についての感想を述べれば片付くことだが、まだ途中の経過段階だ、簡単なことは言わないほうがいい、最終的にはまだ決まっていない、と3団体で決着するような確定的状況にはなっていないとする態度を取った。
だが、記者に「3団体で調整している」現在の情勢について再度質問を受けると、確定的状況にはなっていないとした最初の態度を貫くと思ったら、一貫性もなくあっさりと捨て、「それはそれなりの結論ですから」と、その確定性をいとも簡単に受入れる。
だったら、最初から「それはもうきちんとまとめて動くというのは、みんなでそういう段階で決まれば、それはそれなりに結論ですからそれが」と言えば、事は簡単に片付いたはずである。
当然、まだ途中の経過段階だ、簡単なことは言わないほうがいい、最終的にはまだ決まっていないなどと言ったことは言わなくても済んだ、二言も三言も余計なことということになる。
このような受け答えは傲慢と言うよりも軽薄短小と称すべき態度であろう。麻生らしい軽薄さであり、スケールの小ささと評すべきである。
日本の「新決議」要求に対して中ロの反対で「議長声明」で妥結が図られようとしていたとき、麻生首相は「日本としては決議が望ましいとの立場だが、強い内容が確保され、国際社会が一致して迅速にメッセージが出せるのであれば、最終的には形式に固執する必要はない」と、「強い内容」と「国際社会の一致」を条件とした「議長声明」の受入れを自らのスタンスとした。
そのスタンスに一貫性を持たせるとしたら、例え日本の14団体要求に対して3団体となろうとも、北朝鮮に与える影響度(=「強い内容」)と「国際社会の一致」を「結論」とすべきなのだから、「国際社会の一致」は「きちんとまとめて動く」としたことでブレはないが、3団体が14団体に劣らないそれなりに効果を与える「強い内容」を持ち、北朝鮮に与える影響の大きさを説明すべきだったが、説明もせずに“それなりの結論”としたのは自らの姿勢にブレを見せたということだけではなく、そう誤魔化さざるを得なかったからだろう。
そもそもからして、日本が拘束力を持つ「新決議」から、例え強い内容を盛り込むことができたとしても、非拘束力性を否定できない、そのことを常に前提としなければならない「議長声明」に後退したのは最初に商品に高い値段をつけたものの、値引きして安く売ったのと同じで(最初から「新決議」で売れないことは承知していたはずだ。)、対して中ロは最安値商品の報道機関向けの非公式な「プレス声明」で対抗、最終的に一歩踏み込んだ印象を与える「議長声明」に持っていって高く売りつけることに成功した。
高く売りつけるために最初から着地点は「議長声明」と決めて、相手が安物過ぎて買うつもりもないと分かっていながら、「プレス声明」という安い商品を囮に使ったに違いない。
それを日本は「拘束力を持つ決議が望ましいと考える。しかし、決議にこだわったために内容が何となくわからんというようなものになるのでは意味がない。声明、決議文、いろいろなものがあるが、きちんとした国際社会のメッセージが伝わるのが一番大事だと考える」(麻生)といったコメントを用いて、日本が値引きしたことは誤魔化した。
その誤魔化しが「資産凍結」問題でも14団体から3団体が後退を示す厳然たる事実であることに逆らい、麻生自身が自らの人格として抱える軽薄短小さも手伝って、途中の経過段階だ、簡単なことは言わないほうがいい、最終的にはまだ決まっていないなどと二言も三言も余分なことを言ってかわす次なる誤魔化しを生むことになったのだろう。
加藤紘一の首相の取材対応は「傲慢だ」と批判したことの記者の質問に対する麻生の返事を同「毎日jp」記事は次のように伝えている。
<◇加藤紘一氏の首相態度批判
Q:次にですね、総理と私たちとのやり取りについてなんですけれども。
A:やり取り? はい。
Q:きょう、加藤紘一元幹事長がですね。
A:加藤紘一元幹事長? はい。
Q:テレビの番組収録で、総理のやり取りについてですね、総理の態度がごう慢だと。
A:はい。
Q:「わが党の総理総裁がああいう態度でお話しになっているというのは、少し考え込んでしまいます。総理のお孫さんで生まれた方なので分からなくもないんですけども、目線が高いのではないか」、というようなことをおっしゃってますけども、こうした批判について総理はどのように?
A:あの、僕は、これは立ち話ですから。これは記者会見とは違うんでしょ。ちょっと確認しておこう。
Q:そうですね。違います。
A:これ止まってるけど。立ち話。ね。歩きながらの話、立ち話。これ記者会見じゃないんだと、僕はそう理解してます。これ正しいね? いや正しいねって聞いてる。
Q:はい、正しいです。
A:正しい。ありがとう。何となく答えたのに答えたことはないなんていつも言われちゃうんで。あの、立ち話。立ち話ってのは普通、歩きながらしてる話なんで、気安くしゃべるもんだと僕はそう思ってます。みんなテレビの前できちっとしてやるという種類のものじゃないんじゃないのと、僕はそう思ってますから、なるべく普通にしゃべるように努めてます。
だいたい私の息子さんくらいの世代ですから、ですから普通に気安くしゃべるのを努めてるんですけども、そういうことではないということをどなたか言っておられる。人からどう言われようと、あんまりあれはないんですが、きちんとして僕はどの場面を見られて加藤先生がそう言われたかっていうのは分かっておられるんですか?
Q:一応分かっておりますが、例えばですね、最近は4月17日のやり取りでですね、3.5島発言っていうのが、谷内さんの発言についての質問が出た時にですね、「内容は承知していませんし、毎日新聞を読んでませんから、答えようがありません」。
A:んー、だけどそりゃ、あの、谷内さんがどう発言されたかって内容を毎日新聞でしたっけ、何か出されたってのは。僕は全然読んでないから読んでないというのを、あなただったらどう答えるのが正しい答え方ですか?
Q:まあおそらく、読んで、大きく報道されていたので、まあ夕方段階ではお読みになってるのではないかというふうにみなさん思われたのではないか、ということだと思うんですけど。
A:そうすると、今のような、読んでません、というんじゃなくて、読んでいるべきだったということですか?
Q:まあそういう意見もあるのではないかと。
A:読んでいないのに、読んでいたかのごとく話をするのはちょっと危ないと思いますんで、読んでないのは読んでないというお答えする以外に、ほかに方法はないと思いますけどねえ。>・・・・
この説明を以って、「傲慢」だとは言えまい。軽薄短小、ここに極まれり、とは確実に言える。「立ち話」は「歩きながらしてる話なんで、気安くしゃべるもんだと」決めつけることができる感覚は軽薄短小の性格なくして叶わない素晴らしい信念ではないか。
麻生総理大臣のこれまでのぶら下がり記者会見での応答のすべては、北朝鮮のミサイル発射問題でも拉致問題でも、鴻池祥肇官房副長官の女性問題でも、金正日の後継問題でも、自身の失言問題でも、「立ち話」を理由にすべて「気安くしゃべ」ってきた。真剣に応答したことは一度もなかったということになる。
新聞やテレビを媒体として国民に総理大臣の言葉として情報伝達されることをも無視して、例え拉致問題で拉致家族にとって不都合な情報がもたらされたとしても、邦人がイラクやアフガンで過激派に拉致された、殺害されたといった自国民の生命にかかわる事件が起きたとしても、ぶら下がり記者会見で聞かれた場合は、「歩きながらしてる話なんで、気安くしゃべるもんだ」というスタンスを頑なに守って「気安くしゃべる」のだろう。
その程度に扱われるマスコミも、マスコミを通してその程度の質の情報しか伝達されない国民も軽く見られていることになって、マスコミも国民も軽く見られているという点で麻生の態度は「傲慢」と言えるが、元々はぶら下がり記者会見に抱いている「気安くしゃべる」ものと固定観念的に解釈している軽薄短小なスタンス自体が発生させている対人態度・対国民態度だろう。
話す態度は話の内容に応じて異なる。話す相手の年齢や立ち話であるとか立ち話ではないとかの話をしているときの状況によって決まるわけではない。それを「だいたい私の息子さんくらいの世代ですから、ですから普通に気安くしゃべるのを努めてるんです」を固定観念としている。
夫が妻に、あるいは妻が夫に離婚問題を、それがたまたま立ち話だったからと、「気安くしゃべる」ことができるだろうか。
あるいは親がまだ年齢の行かない子どもに両親の離婚を大人が息子の世代にする話だからと、「普通に気安くしゃべ」って無事片付くとでも思っているのだろうか。
離婚は夫婦にとっても子どもにとっても深刻な問題であるはずである。自ずとその深刻さに応じて、話す態度も異なってくる。政治の問題でも、同じはずだが、麻生太郎にはこういったことは理解できないようだ。
また毎日新聞を読んでいないことを以って「答えようがありません」としている同じ態度をクリントン米国務長官の金正日後継に関する発言を伝える報道にも見せている。
<――アメリカの複数の有力紙、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなんですが、クリントン国務長官が北朝鮮の権力継承問題について「仮に平和的な継承でも、一層の先行き不安が生まれ、国内の権力基盤固めのため、さらに挑発的な行動が誘発される可能性がある」と発言したと伝えています。ミサイルなどの脅威もある中、日本政府の認識を。
麻生「あの、少なくとも、外国の外務大臣が言った言わないって話を、外国の報道機関を通じて入った、そのことに関して、裏もとれない間に、コメントすることはありません。>(「asahi.com」)
「外国の報道機関を通じて入った」クリントン発言を実際に言ったか言わないかは本人からなのか、他の誰かなのかは分からないが、確認(=裏)を取っていないからコメントできないとする文脈でマスコミの報道自体を「読んでいない」ことと同じ次元に貶めている。
要するに、「読んでませんから、答えようがありません」を確認の問題にすり替えて回りくどく言ったに過ぎない。
読んでいないから、答えようがない、記事が取り上げていることは事実だとしても、確認が取れていなければ答えることができないでは、例えそれが「立ち話」相応のぶら下がり記者会見であっても、遣り取りする意味だけでなく、報道機関が報道することの意味まで失う。
二階利権顔(と菅直人に言われた)経産大臣の政治団体が西松建設からの政治資金の処理をめぐって捜査の対象となっていることについて問われたときも、
<「あの、新聞情報しか知りませんので、個別の案件についてコメントすることはありません」
――説明責任を果たされるべきだというふうには考えないか。
「新聞情報だけで、その種の話をコメントすることはありません」 >(「asahi.com」)・・・・
これも「裏もとれない間に、コメントすることはありません」と同様に「新聞情報」を無意味化しているし、金正日の後継問題でもニュースソースを聞いたうえで、
「聯合ニュース、はい、新聞の、他国の新聞の一情報をもとにして、私どもがそれに対してコメントすることはありません」(「msn産経」)と「新聞情報」を同じく意味のないものと貶め、済ましている。
失言問題でマスコミに散々叩かれたから、マスコミに対する恨みつらみは理解できないこともないが、金正日後継問題は現在のところ「他国の新聞の一情報」であったとしても、いつかは日本に関係してくる重要な外交問題であると同時に世襲か否かで北朝鮮の政治体制に違いが生じるだろうし、その違いに応じて日本に対する影響も違いが生じるとことは自明の理となっている将来的事実なのだから、「外交の麻生」と言うのであるなら、「他国の新聞の一情報」であることを前提としつつも、何らか説明があってもいいはずである。それが国民に対する説明責任というものであろう。
だが、「コメントすることはありません」と何ら説明を行わない。
こう見てくると麻生の新聞記事を無意味化するぶら下がり対応はマスコミの情報に対する自身の側からご都合主義的にバリエーションを持たせつつ、答えないことを旨とした情報操作の常套的態度と見ることができる。
この答えることができる範囲内で限りなく丁寧に答えるというのではなく、新聞報道を無意味化してまで答えまいとするご都合主義は「傲慢」から来ている態度が窺えないこともないが、やはり軽薄短小ゆえの親切心のなさ、無節操から来ている説明責任の放棄と見るべきだろう。
読んでなかったなら、どういうふうに新聞に書いてあるのか質問をした記者に詳しく問い質して、問い質したその内容を基に新聞はそう見ているが、自分はそうは見ていないとか、あるいは新聞が書いてることについて自分はこう考えている、こう受け止めているとすれば、記事の内容と自身の答の間に否定・肯定を含めた解釈の整合性は確保できる。
それを「読んでませんから」とか、「裏もとれない間に」、「他国の新聞の一情報をもとにして」といったことを口実に答を避ける。説明責任を果たさない。中身ある内容の答を咄嗟に用意できないから、あれこれ口実を設けることになるのだろう。
中身ある内容の答を用意できさえすれば、「読んでませんから」とかを口実にする必要はない。