武器輸出三原則見直し撤回から見る政権維持が自己目的化した菅内閣

2010-12-10 09:51:29 | Weblog

 北沢防衛相が国際共同開発に参加して技術力を維持する、国内の防衛産業を育成し、防衛技術の向上・維持を図るといった名目で見直しの方針を示していた武器輸出三原則に関してその見直し方針を撤回することになった。

 最初に断っておくが、私自身は見直しには反対である。一旦見直すと際限もない開発欲求の底なし沼に引きずり込まれることになるし、国の安全保障は総合力で他国と立ち向かうべきだと思うからである。軍事力のみが安全保障を保証するものではない。

 経済力、文化力、政治力、外交力等々のバランスのよい向上・維持の総合がよりよい国の安全保障の力となり得るはずである。

 だが、経済は20年来低迷、文化力もアニメやオタク文化、寿司等の日本食文化が一部外国で持て囃されているといっても、観光客の大幅な出超を見ても分かるように文化の発信となると、総合的には他国に引けを取る。

 特に日本の政治力、外交技術は自立(自律)的な力を持ち得ていない。軍事力を拡大させたとしても、アメリカ追従は変わらないだろうし、対中に対する尖閣諸島問題の解決、対ロに対する北方四島問題の解決に役立つ程の政治力、外交技術を持ち合わせているとは思えない。対北朝鮮問題でも韓国と北朝鮮が軍事衝突した場合、日米韓が総合して対処すればいいことだし、軍事力の拡大よりも政治力、外交技術を磨くことが重要であろう。拉致問題の交渉にも役立つはずだ。

 北沢防衛相は10月10日、ベトナム訪問中に見直しについて次のように言っていた。《「武器輸出三原則」見直しを検討 北沢防衛相が表明》asahi.com/2010年10月11日1時35分)

 北沢防衛相「国際的には共同開発が主流になってくる中で、身動きのとれないような形で(日本の)生産基盤や技術基盤が劣化していくのを手をこまねいてみているわけにはいかない」

 日本の優れた宇宙開発技術は防衛産業が関わっていたとしても、外国との共同開発ではなく、その殆んどは独自開発であるはずなのだから、北沢防衛相の「国際的には共同開発が主流になってくる」は意味を失う。

 経済力をつけ、政治力、外交力をつけることで、相対的に軍事力をカバーできるはずだ。

 記事は武器輸出三原則の成り立ちと経緯を解説している。

 〈武器輸出三原則は、1967年に佐藤内閣が、

 (1)共産圏諸国
 (2)国連決議で禁止された国
 (3)国際紛争当事国または恐れのある国――への武器輸出を認めない方針を表明。76年に三木内閣が原則禁止に適用を拡大した。83年に中曽根内閣が米国に対する技術供与を認め、04年には小泉内閣がミサイル防衛の日米共同開発・生産に限り、厳格な管理を条件に例外としている。 〉――

 次第次第になし崩し的に適用除外が増加し、原則が原則の体裁を成さなくなっていく。

 「手をこまねいてみているわけにはいかない」と見直しに積極的だった北沢防衛相だったが、その態度を急変させる。
 
 《防衛相“社民党配慮も重要”》NHK/10年12月7日 12時35分)

 北沢防衛相「防衛省としては、自衛隊装備の調達の円滑化やコストの低減に向け、ほぼ1年かけて研究してきた。内閣として、今の情勢の変化に基づいて対応することは重要であり、武器輸出三原則の見直しに向けた、わたし自身の方針は変わらないが、来年の通常国会に向け、内閣の基盤を強化するため、菅総理大臣と社民党の福島党首が会談をした。こうしたなかで、政策として進めてきたことと、政局として進めることの調和はこれからだ。わたしは閣僚の一員であると同時に、民主党の古い党員でもあるので、せっかく成し遂げた政権交代をおろそかにすることもできない」

 本人の見直しの方針に変化はないが、「内閣の基盤を強化」し、政権を維持するために「政局」を優先させるとしている。

 「政策として進めてきたことと、政局として進めることの調和はこれからだ」とは言っているが、政策に政局が付き物だとしても、異質の要素である「政局」を三原則の見直しを進めていた過程で入れることになったのだから、既にこの時点で政局を優先させたことになる。政権維持のために政策を犠牲にするということだろう。

 実際に菅首相は7日(2010年11月)に防衛大綱への武器輸出三原則緩和の明記を見送っている。政局優先・政権維持優先のキッカケは北沢防衛相が指摘しているように菅総理大臣と社民党福島党首の会談なのは断るまでもない。かつて連立を組んでいた社民党との協力を取り付けて、ねじれ状況の参院で否決された法案を衆院に戻して再採決させて成立させる条件としての衆議院議員3分の2を確保する狙いからだと言われている。

 防衛大綱への明記見送りによって菅首相は武器輸出三原則見直しの政策を捨て、政権維持の交換条件としたわけである。いわば政策に対してではなく、政局に菅首相の指導力は発揮された。

 そうだとしても、今後の展開はどういう目が出るかは今後の問題である。

 現在衆議院は民主党、国民新党、その他で312議席確保している。社民党の6議席入れて、318議席。全480議席の3分の2は320議席。2議席不足する。それでも320議席に少しでも近づきたい気持があったのかもしれない。

 6日の会談後、菅首相は記者団に発言している。《菅直人政権、社民党と協力へ》BTimes/2010年12月7日 12時57分)

 菅首相「社民党、すでに連立している国民新党との関係をより緊密、かつ戦略的にとらえて共闘していきたい」
 
 記事も衆議院3分の2確保の必要上の措置だと解説している。だが、〈社民党は今年5月、米軍普天間基地異説問題をめぐり福島党首が大臣を罷免されたことから、連立を離脱していた。〉と触れているが、例え武器輸出三原則をクリアできたとしても、社民党が普天間問題では県外、もしくは国外移設を党の「一丁目一番地」としている以上、早晩、そう遠くないうちに菅内閣の日米合意推進と衝突することは予定スケジュールとしなければならないはずだが、どう話し合ったのだろうか、調べた限り、扱っているのは武器輸出三原則見直しの見送りばかりである。

 まさか何ら話し合わなかったことはあるまい。このことを解くカギとなる文言を記事の中に見つけることができる。〈ただ社民党と連立政権を組むことは協議していないという。〉

 社民党の協力を取り付けるについてはどういった形式にするか話し合わなければならないはずだから、連立に関する協議なしはおかしい。都合上の協議なしであろう。

 連立政権を組んだ場合、普天間の移設問題で社民党が現在の姿勢を変更しない限り、変更したら、存在理由を失って、支持者の殆んどは離れていきかねず、解党を強いられる危険を抱えることも予想されるが、鳩山前政権時と同じ閣内対立、もしくは連立与党内対立を引き起こす可能性は目に見えている。

 このことを避ける措置としての最初からの連立政権は組まないの合意だったに違いない。

 いわば社民党側も菅政権側から武器輸出三原則の見直し撤回の実を取る交換条件として連立を組まないという合意と共にその合意の中に政権への協力の見返りに普天間問題で取引しないというもう一つの合意を含んでいたのではないだろうか。

 あるいは逆かもしれない。武器輸出三原則では取引しても、普天間問題では取引しない。そのためには連立を組まないが双方の党存続のための最善の保証だとする総合的な合意に達した。

 それぞれが交換条件を出し合った結果、このような合意が双方に都合のいい着地点だということなのだろう。連立を組まないことによって、菅政権は日米合意に向けた立場を自由に取れるし、社民党も自らの反対の姿勢を貫くことができる。その上で擬似連立与党の役目も果たすことができる。

 しかし社民党が普天間問移設題を党の「一丁目一番地」としていることは決して譲ることはできないとする決意の言い替えであるはずである。あらゆる手段を使って何としてでも阻止する努力をしなければ「一丁目一番地」に顔向けできないと思うが、それぞれに任せることとし、他の政策では協力するというのは結果として「一丁目一番地」の放棄、党の主体性の放棄とならないだろうか。

 そもそもからして福島党首は武器輸出三原則の見直し問題では来年度の本予算案、その他の政策と絡めていたのである。当然、普天間移設問題でも絡めて然るべきだが、絡めている報道は見当たらない。

 《武器輸出三原則:首相、見直し巡り苦悩 福島党首と会談へ》毎日jp/2010年12月5日 21時04分)

 12月2日の発言。

 福島党首「(武器輸出三原則を)見直すなら来年の本予算を含め、距離を置かざるを得ない」

 だが、「距離を置く」置かないから普天間問題を抜かしている。抜かしたまま、社民党は民主党、国民新党と共に早速一昨日8日に11年度予算編成に関する協議を首相官邸で開催している。

 菅首相は武器輸出三原則見直しの政策を引っ込めることで社民党協力という実を取った。社民党は表向きは普天間の辺野古移設反対の政策は掲げながらも、菅内閣に直接向けた反対はしないことによって自らの政策を実質的には引っ込めることで三原則見直しを引っ込めさせたことに加えて与党に擬似的に連立を形成する実を取ったといったところが実態なのでないだろうか。

 確かに数を確保すれば、自らの政策を推し進めることができる。だが、数の確保の過程でときどきに妥協や取引を迫られ、武器輸出三原則の見直し撤回を社民党との取引のカードとしたように推し進めていく政策自体の変質、もしくは転向を迫られる代償を支払わなければならない。

 その問題があとに残ることになる。

 また、政策をどう変質させ、どう転向させようとも、数は法案成立の力となり得ても、党内、閣内で、あるいは野党の間で色々な意見のある政策を統一的な内容に仕上げて法案の形にするまで発揮しなければならない指導力は数は単純には力となり得ない。

 例え数の力で法案を成立させることができたとしても、政策を法案の形に纏め上げる過程で指導力は国会議員だけではなく、国民の目に常に曝されることになる。決して隠しようのない指導力である。

 数を獲得したとしても、合理的判断能力を欠いた菅首相がこの点をどうクリアするかである。

 菅首相が「わたし自身どこまで頑張りきれるか分からないが、物事が進んでいる限りは石にかじりあついても頑張りたい」と言っていたことの具体化の一つが衆議院3分の2確保に向けた社民党からの協力の取付けだろうが、政策を犠牲にした取引である点を見ると、「石にかじりついても」が政権維持が自己目的化した無節操を厭わないなり振り構わない姿勢に見えて仕方ない。

 無節操は指導力に最も遠い資質であろう。


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