菅首相と福島社民党党首の武器輸出三原則見直し撤回の会談は何のためだったのか

2010-12-11 07:32:55 | Weblog

 菅首相と福島社民党党首と6日(2010年12月)昼に会談、そこで福島党首は武器輸出三原則の見直しに対する再考を求めた。対して菅首相は「社民党、すでに連立している国民新党との関係をより緊密、かつ戦略的にとらえて共闘していきたい」(IBTimes)と応じ、翌7日には早速と言うか、防衛大綱への武器輸出三原則見直しの明記を見送っている。

 さらにその次の日の8日には首相官邸で開催の11年度予算編成に関する協議に社民党は民主党、国民新党の連立与党に加わっている。連立を改めて組んだわけではない社民党は連立の一員待遇を受けた。

 昨日(12月10日)の当ブログ記事――《武器輸出三原則見直し撤回から見る政権維持が自己目的化した菅内閣 》で、〈例え武器輸出三原則をクリアできたとしても、社民党が普天間問題では県外、もしくは国外移設を党の「一丁目一番地」としている以上、早晩、そう遠くないうちに菅内閣の日米合意推進と衝突することは予定スケジュールとしなければならない〉ことを前提とすると、〈菅首相は武器輸出三原則見直しの政策を引っ込めることで社民党協力という実を取った。社民党は表向きは普天間の辺野古移設反対の政策は掲げながらも、菅内閣に直接向けた反対はしないことによって自らの政策を実質的には引っ込めることで与党に擬似的に加わる実を取ったといったところが実態なのでないだろうか。〉といったさも密約紛いのことがあったのではないかといった穿った見方を施した。

 だが、8日に引き続いて昨10日午前と午後、2回行われた民主・国民新・社民の予算編成協議で、社民党は民主党の日米合意推進に反して米軍普天間飛行場の同県名護市辺野古への移設に伴う環境アセスメントに関連する経費などの予算案計上を見送るよう要求したため、合意は見送られて14日に再協議の段取りとなったという。

 《社民 移設関連経費計上に反対》NHK/10年12月10日 23時2分)

 又市社民党副党首「沖縄県の仲井真知事も普天間基地の県外移設を求めて再選されており、基地の県外移設が県民の民意だ」

 亀井亜紀子国民新党政務調査会長「地元が反対している中で、辺野古への移設は厳しいのではないか」

 連立を組んでいる国民新党まで日米合意の実現に疑義を提示しているが、「厳しいのではないか」と言っているのみで反対はしていない。社民党の移設関連予算の計上反対は菅首相が何のために福島社民党党首と会談して、相手の要求を呑んで武器輸出三原則見直し撤回を行ったのか意味を失う。

 菅首相は例え社民党と連立を組まなくても、政策ごとに協力し合う協力関係を取るのではなく、予算協議に参加させる以上、普天間問題で取引が成立していなければならなかったはずである。何ら取引もせずに予算協議に参加させることは閣内に爆弾を抱え込むことに等しい。

 もし民主党側が移設関連予算の計上反対は受け入れられないとして社民党を予算協議から外すことにでもなったなら、何のための菅・福島会談だったか意味を失うし、武器輸出三原則見直し撤回だけが残ることになる。社民党の数は諦めました、再度武器輸出三原則の見直しを行いますでは数のために政策を弄んだことがより露骨化し、世間の笑いものとなる。

 尤も既に笑い者となっている菅首相なのだから、現在以上に笑い者になったとしてもどうってことはないかもしれいない。

 社民党としても沖縄基地問題を党の「一丁目一番地」としている以上、基地関連の予算計上の見送りを求めて受け入れられなければ、自分たちの方から予算協議から外れる以外に道はあるまい。計上見送りを求めるまでが予定のシナリオで、最終的に民主党側の説明・説得に納得して止むを得ず見送り要求を撤回するといった次なるシナリオを用意しているわけではあるまい。

 妥協、変節、転向、密約、隠蔽、情報操作、何でもありの日本の政界だから、ついつい疑ってかかることになる。

 最悪の疑いは菅首相が社民党の6名の数を引き入れることだけに目が行っていて、予定していた武器輸出三原則見直しの撤回をカードとして成功すれば、後は障害なく内閣を運営することができると思い込んでいたのではないかという疑いである。

 菅首相の合理的判断能力を全く欠いた、甘い考えしかできないノー天気な頭からしたら、あり得る思い込みかもしれない。

 そうとでも考えなければ、あまりにも早過ぎる障害の説明がつかない。

 菅内閣が最終的に社民党の基地関連予算計上見送り要求に屈した場合、アメリカとの関係がギクシャクする。数を重視するのか、アメリカとの関係を重視するのか。あり得ないと思うが、アメリカとの関係を無視して社民党の数をより重視することとなったら、菅首相の政権維持に向けた亡者ぶりはここに極まれりとなる。

 【亡者】「金銭や権力などに対する執念に取り憑かれている者」(『大辞林』三省堂)

 「亡者」という言葉に出会ったなら、菅首相の顔を思い出せば、その意味がすぐ理解できる。

 菅首相のノー天気振りが露骨に現れている例を示すことができる。昨10日夜の首相官邸でのぶら下がり記者会見。
 

 《【菅ぶらさがり】首相とは…「修行の身という意識でやる仕事」(10日夜)》MSN産経/2010.12.10 20:09)

 【今年の漢字】

 --きょう、今年の漢字が発表された。首相にとって今年の漢字とは

 「考えて、書いてきました(筆字で『行』と書いた色紙を示す)。「ぎょう」。修行の行でもあり、実行の行でもあり、行うという、すべては行う。一番実感があるのは修行の身という、その感覚ですかね

 --特に何に対しての修行と考えたのか

 「この総理という仕事は修行している身だという意識でやらなきゃいけない、そういう仕事だと、そういう実感を持っています」

 「行」が「修行の行でもあり、実行の行でもあり」と修行と実行の両方を兼ねた「行」だとしているが、「一番実感があるのは修行の身という、その感覚ですかね」と、「修行の身」「一番実感」を置いている以上、「修行の行」により重点的に意識を置いた「行」であろう。

 この意識は次の「この総理という仕事は修行している身だという意識でやらなきゃいけない、そういう仕事だと、そういう実感を持っています」の言葉に引き継がれている。

 菅首相は実行の意識よりも、より重点的に「修行している身だという意識」「総理という仕事」を務めていると自ら価値づけている。

 「修行」とは悟りを開くための行(ぎょう・行い)を修める(身につける)ことを言う。いわば自らの身につける行為だから、本質的には自己利益のために存在する。あるいは修行とは自己に対する働きかけであるゆえに自己利益行為と言える。

 悟りを開いたとしても、その悟りの境地を第三者が伝え聞いたとしても、同じ悟りの境地を得ることができるわけではない。第三者自体が自らの方法で悟りを開くための行を修めなければならない。悟りによって価値ある言葉を見い出して、それを第三者に伝え広め、第三者が何らかの利益を得たとしても、社会全体に向けた何らかの実利を約束する利益ではなく、より精神的な個人的利益の範囲にとどまるはずだ。

 修行が主として自己に働きかける自己利益行為であるゆえに、あくまでも第三者利益(=国民の利益)を目的として何かを伝えたり、広めたりする実践行為とは程遠いと言える。菅首相は「総理という仕事」を自己利益行為である修行だと価値づけ、第三者利益(=国民の利益)を目的とした実践行為に置かずに首相を務めていることになる。

 一国の首相は自らの政策を伝え広める実践の使命を負うはずだ。いわば首相官邸とは第三者利益(=国民の利益)を目的とした内政・外交の実践を陣頭指揮する場であり、首相とは伝え広める実践の陣頭指揮者そのものであろう。陣頭指揮の過程で色々と修行することはあっても、その修行はあくまでも派生的な出来事であって、首相官邸を主として修行の場とし、首相を重点的に修行の身に置いた場合、内政・外交の実践を疎かにすることになる。

 自己利益にのみ重点を置き、第三者利益(=国民の利益)は二の次だと言っていることと同じことを言ったことになる。あくまでも自らの政策を伝え広める実践者だという意識が薄い。

 合理的判断を全く欠いたノー天気人間な上、指導力が全然ないからこそ言える「この総理という仕事は修行している身だという意識でやらなきゃいけない、そういう仕事だと、そういう実感を持っています」であろう。

 もし強力な指導力を備えていたなら、第三者利益(=国民の利益)を策す実践あるのみで、「修行」などという言葉は一言も口を突いて出ないはずだ。

 尤も「首相がコロコロ変わるのは良くない」からと選んだ首相である。実行力・指導力を基準に選んだ首相ではない。

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