どうでもいいことだが、合理的な判断能力の持主なのかどうかに関係してくることだと思うから、野次馬的な気分も絡めて松本復興相の「震災発生からは、民主党も自民党も公明党も嫌いだ」発言を取り上げてみることにした。
大体が好きだ嫌いだと言っていられない緊急の状況にある。下げたくない頭を下げてでも、じっと我慢の子で復旧・復興に全身全霊を傾けなければならない立場に立つことになった。にも関わらず、好きだ嫌いだと言っている。合理的判断能力を働かすよりも情緒的観念を先に立たせている。
《松本復興相“基本法に魂を”》(NHK NEWS WEB/2011年6月28日 11時59分)
6月28日閣議後記者会見。
松本復興相「まず、私たちがやることは、復興基本法に魂を入れ、骨や肉をつけていくことだ。基本法は与野党が話し合ってまとめたものなので、これからも与野党双方の意見を聞きながら対策を練っていきたい。・・・・震災発生からは、民主党も自民党も公明党も嫌いだ。私の心はただ一つ、被災者に寄り添うことだけで、被災者のためにひたすら前を向いて歩くだけだ」
この発言を記事は、与野党は被災者のために協力すべきだという考えを示したものとしている。
だが、言っていることが前段と後段で明らかに矛盾がある。「基本法は与野党が話し合ってまとめたもの」と言っている以上、ハイ、基本法が決まったのだから、もう野党は必要ありません、引っ込んでいてくださいと言えるわけではなく、「私たちがやること」としている「私たち」とは、与党だけではなく、野党も含めた「私たち」であろう。与野党協力し合い、力を合わせて「復興基本法に魂を入れ、骨や肉をつけて」いかなければならないとの宣言を前段の趣旨としていたはずだ。
だからこそ、「これからも与野党双方の意見を聞きながら対策を練っていきたい」と与野党の協力を必須とした。
にも関わらず、協力を求めなければならない野党まで含めて、「震災発生からは、民主党も自民党も公明党も嫌いだ」と、好悪の感情を曝け出して反発を示した。
これは合理的判断能力を備えた政治家の態度なのだろうか。
クエスチョンマークはこれだけではない。前段では与野党一丸を訴えて「私たち」としていながら、後段では「私の心はただ一つ、被災者に寄り添うことだけで、被災者のためにひたすら前を向いて歩くだけだ」と、私一人のこととする矛盾を平気で見せている。
ひねくれ者が聞いたなら、「できるものなら、自分ひとりでやってくれ」と言いたくなるに違いない。
また、「被災者に寄り添うこと」も、「被災者のためにひたすら前を向いて歩く」ことも、施行された復興基本法に基づく復興対策本部がスタートし、担当大臣になったからすることではなく、3月11日地震発生後に菅仮免を本部長とする東北地方太平洋沖地震緊急災害対策本部設置以降行ってきたはずのことで、松本復興相からしたら継続事項であって、その任を自らが負い、なお一層前に進めていく役目を与えられたということでなければならない。
緊急対策本部長であった菅首相が最終・最大責任者として震災発生以来、果たして先頭に立って「被災者に寄り添」い、「被災者のためにひたすら前を向いて歩」いてきたかどうかは被災者支援の遅れ、人並みの生活を最低限保障する仮設住宅建設の遅れが証明して余りあるが、松本復興相はそれをさも復興相就任以後自分だけが行うことであるかのような独善を働かせている。
野党としたら、菅仮免みたいな指導力はない、責任回避姿勢だけは立派だといった首相に協力はしたくはないが、国民の生命・財産と国の運命がかかっていることだから、協力しなければならない立場に立たされている。このことへの視線が松本復興相にはない。
松本復興相のこの「嫌いだ」発言に当然のことながら自公は反発した。与野党の奮起を促すために計算尽くで殊更反発を誘ったというなら分かるが、矛盾した言い回し、独善的な物言いから、そのような高等戦術であろうはずはなく、単に反発を計算に入れることができずに無考えに発した合理的判断能力を欠いた発言に過ぎなかったということであろう。
《復興相の「嫌い発言」に自公猛反発》(MSN産経/2011.6.29 20:49)
自民、公明両党は6月29日に松本氏に釈明を求めていく方針を決めたという。
逢沢一郎自民党国対委員長「復旧・復興の中心に立つべき人が与野党の協力が必要ないと考えているならば任に当たる資格無しだ」
漆原良夫公明党国対委員長「信じられない言葉だ。松本氏はどうかしてしまったのか」
6月29日夕の民主党所属議員パーティーでの挨拶。
松本復興相「私は政局が大嫌いで、被災者に寄り添うことが私たちの使命であるということを言いたかった」
要するに政局優先の国会となっていて、政治の使命である「被災者に寄り添うこと」にはなっていないと言っている。確かにそのとおりだろうが、初期段階では野党は菅批判を抑え、協力する姿勢を示していた。菅仮免を筆頭とした菅内閣の震災及び原発事故対応にあまりにも不手際が目立つために反発、菅仮免では満足な対応を望めないと菅降しに動き出した。
野党が例えそういった態度に出たとしても、政府側は緊急対策本部を中心に復旧・復興に邁進し、結果として不適切な成果しか示すことができなかったとしても、懸命に「被災者に寄り添」おうとしてきたはずだ。野党や民主党内の反菅勢力が政局に動き出したからといって、「被災者に寄り添うこと」を疎かにしていいわけではない。
もしそれが疎かになっていたとしたら、菅政府が政局に巻き込まれて手一杯となり、震災対応の手を抜いたことが、これまでも見せていた不手際や遅滞をなおさら一層悪化させたということでなければ生じない疎漏であろう。
いわば菅政府自らも政局に現を抜かして、十分に手が回ってもたいしたことはできなかった震災対応・原発事故対応になおさら手が回らなくなって被災者を置き去りにすることになった。
当然、野党や与党の責任と言うよりも菅政府自身の責任となる。菅仮免自身が与党に対する指導力や統治能力、国会の動きを超えた政権運営能力、そして国を治める真の意味での統治能力を十分に備えていたなら、野党や党内反菅勢力が政局の動きに出たとしても、何ら動じる必要はなかったはずだ。
またこれらの能力を十全に発揮し得ていたなら、「被災者に寄り添う」以前に、菅内閣発足以降、国民に寄り添う政治を行い得ていただろうし、その成果として手に入れることが可能となる高い内閣支持率は例え参議院が与野党逆転状況にあったとしても、どのような政局をも阻止する力となり得たはずである。
いや、参議院与野党逆転以前の問題として、菅仮免が本来的に国民に寄り添う姿勢を持った政治家であったなら、国民生活に直接大きな影響を与える消費税増税の議論を何の準備もなく不用意に持ち出すことはなかっただろうし、当然昨年の参院選であのような負け方はしなかっただろうから、今日のねじれ国会といった窮状を招くこともなかったはずである。
だが、実際は大震災発生に関係なく、政局を阻止できる状況をつくり出すことができなかった。指導力もない、統治能力もない、当然政権運営能力も欠いている、原因・結果とは無関係に国民に寄り添うことも負債者に寄り添うこともできない、ないない尽くしが原因の今日の政治混乱であり、政治停滞なのは明らかである。
いわばすべての元凶は菅仮免自身であり、その政治能力であって、このことが招いていた震災対応・原発事故対応の不手際・遅滞であり、政局ということであろう。
当然向けるべき嫌悪の対象は「嫌いだ」と民主党や自民党や公明党ではなく、菅仮免にこそ「嫌いだ」と向けるべき嫌悪であるはずである。
以上の見方が例え間違っていたとしても、政治の最大にして最終責任者は菅仮免である。すべての責任を負わなければならないことからしても、「震災発生からは、民主党も自民党も公明党も嫌いだ」は特に政治家には必要な合理的な判断能力を、その必要性に反して欠いたお門違いな批判としか言いようがない。
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