野田首相の誰にでも頭を深々と下げる低姿勢とトップリーダーとして必要な資質に見る二律背反性

2011-10-16 11:52:05 | Weblog

 野田首相が10月12日(2011年)、東京都内で中曽根康弘元首相と会談。会談時間は約10分間。野田首相が就任挨拶のために申し入れたのだそうだ。

 《中曽根元首相「低姿勢続ければ長期政権」 野田氏を激励》asahi.com/2011年10月12日20時15分)

 中曽根元首相「首相に向いている。今のような低姿勢でまじめにやれば長期政権になる」

 中曽根元首相は戦後4番目に長い5年の政権を維持したというから、これ程心強い太鼓判は辺りを見回しても見つかるまい。

 野田首相のこの低姿勢は融和重視の思いから発している姿勢だと記事は指摘しているが、と言うことは何事も「低姿勢でまじめ」という立ち位置を野田首相は生涯のあるべき姿勢としているのだろう、そういった姿勢を貫くという条件付きの長期政権ということになる。

 菅前首相の景気回復策、「一に雇用、二に雇用、三に雇用」の勘違いしたスローガンに準えるとすると、野田首相の場合は「一に低姿勢、二に低姿勢、三に低姿勢」となる。

 記事添付の写真は中曽根首相が握手する右手を自然な形で突き出して軽く前傾姿勢を見せているのに対して野田首相は中曽根元首相の右手を両手でしっかりと握った全身に力をこめた姿勢で中曽根元首相の胸の辺りにまで深々と頭を下げている。

 相手がそういった姿勢を見せるから、中曽根元首相は自然と野田首相の脳天を離れ位置から上から眺める形となり、否応もなしに心理的な上下関係まで浮き立たせることとなっている。

 自分が低姿勢を見せることで中曽根元首相に対して最大限の恭しさを演出したということなのだろう。見ようによっては就任の挨拶というよりも、時の首相が切羽詰ってどうしても実現させなければならないからと必死な思いで元首相に陳情か何かお願い事に行ったシーンに見えないこともないが、これぞ低姿勢を凝縮させた姿だと誰に説明しても恥ずかしくない野田首相のワンポーズとなっている。

 中曽根元首相「あなたは非常に得している。敵がいない。まじめに一生懸命やったら国民は支持する。あなたはドジョウではない。もっと清潔だ」

 手離しの絶賛であるが、全身に慇懃さを込めた野田首相の低姿勢が功を奏して、ついつい乗せられたのかもしれない。

 中曽根元首相(11月以降、主要20カ国・地域(G20)首脳会議など外交日程が続くことを踏まえて)「30分も話せば、どの程度の重さのある人物か分かる。よく準備して、思い切って発言するとよい」

 この発言は最初の発言と比較して矛盾する。「低姿勢でまじめ」は長期政権を約束する条件になるかもしれないが、低姿勢は必ずしも人間的な重みを約束する条件足り得ない。

 低姿勢とは一言で言えば、周囲の人間に対して常に自分を下に置くことを言う。常に自分を上に置いたのでは低姿勢にはならない。自分を下に置くためには自説を押し通さない、自説を伝えない、相手の主張を受入れることが必要条件となる。

 自己主張を自ら封じるということである。誰に対しても低姿勢であった場合、八方美人ということになる。

 こういった政治家に人間的重みが期待できるだろうか。

 断っておくが、自分を上に置くということは偉ぶるということではなく、主導的位置に立つ、あるいは主導性(=リーダーシップ)発揮の姿勢を示すということである。低姿勢=自分を下に置いたのでは主導的位置に立つことにはならないし、主導性(=リーダーシップ)を発揮する姿勢にもつながらない。

 このことから導き出すことができる唯一の答は低姿勢とトップリーダーとして必要な資質とは二律背反の関係にあるということであろう。

 中曽根元首相は野田首相に対して「低姿勢でまじめ」を求めながら、ないものでねだりであるにも関わらず、人間的重みを求める矛盾を犯した。

 野田首相の政権運営を滞りなく進めるための低姿勢の3条件を伝えている記事がある。《野田首相:気配り政権運営「安全運転」3原則》毎日jp/2011年9月26日 2時30分)

 (1)余計なことは言わない、やらない
 (2)派手なことをしない
 (3)突出しない

 この3原則だそうだ。これも自分を下に置く低姿勢の範疇に入る姿勢であるはずである。あるいは低姿勢を基本とする3原則であろう。

 野田首相が就任直後に首相官邸で官房副長官や首相補佐官らを集めて「3原則」を自ら説明。「これを徹底してほしい」と指示したと記事は書いている。

 〈与野党や官僚に気配りして「安全運転」の政権運営を進める首相は、次期通常国会に提出する12年度予算案や、悲願の税制関連法案の早期成立を念頭に、与野党協議の成功を最優先。来年3月までの半年間は、波風を立てず融和に努める構えのようだ。〉と解説している。

 菅前政権の失態の反省に立った、そうと決めた姿勢だそうだが、元々の低姿勢の性格がそう仕向けた面もあるに違いない。低姿勢を性格としていない人間が低姿勢を演じるのは苦痛で難しく、ツケ焼刃で終わりかねない。

 少なくとも低姿勢を本来的な性格としていることによって、最大限に低姿勢を表現し得る。

 記事の結び。

 11年度第3次補正予算案や12年度予算案、税と社会保障の一体改革の関連法案を〈念頭に、首相は8月の民主党代表選前から既に「3原則」を考えていたとみられる。代表選期間中の党中堅議員との会合で、首相は「政策課題で突出してはいけない。党内融和、与野党協議ができなくなる」と、自らに言い聞かせるように語った。

 ただ、強くこだわる財政健全化の取り組みに関しては「ぶれない、逃げない、おもねらない」とも周辺に語っており、「3原則」が功を奏するかどうかはまだ見通せない。週明けの衆参両院の予算委員会が首相にとって最初の本格的な試練の場になりそうだ。【小山由宇】〉・・・・・

 野田首相の前後の姿勢が矛盾している。

 予算編成も、それが補正であっても、また税と社会保障の一体改革であっても、深く財政健全化に関わっている。財政再建と一体化しているはずの予算及び税と社会保障の一体改革に関しては3原則に抵抗を感じないとしながら、財政再建化に関しては抵抗を見せるとする矛盾である。

 勿論、3原則は単なる立ち位置であって、最終決定に関しては自身の判断を上に置くと言い逃れはできる。だが、初期的に「余計なことは言わない、やらない」、「派手なことをしない」、「突出しない」の自分を下に置く低姿勢でスタートし、他者を上に置く状況を受入れた場合、自他のこの関係を最終局面にまで維持していかなければならないはずだ。

 維持されなければ、あの男の低姿勢は見せ掛けだと警戒心を呼び、低姿勢に誰も乗ってこないことになる。

 スタートから中盤、終盤まで貫いてこそ、3原則の低姿勢は意味を持つ。一旦見せた低姿勢は最後まで消すことはできないということである。 

 自分を下に置き、他者を上に置く低姿勢は、また、臨機応変の行動の放棄を背中合わせに持つことになる。臨機応変の行動は自主的・主体的判断に則った行動であるのに反して、自分を下に置き、他者を上に置く低姿勢は他者の判断に従う行動を言い、両立する行動ではないからだ。

 臨機応変の行動とはブレたり、迷走したりすることを意味しないのは断るまでもない。逆に他者の判断を基準とした低姿勢の行動の方が、他者の判断に従うということだからブレや迷走を呼び込みやすい。

 臨機応変の行動の放棄は自分で自分の行動を規制することによって成立する。

 低姿勢がブレや迷走を呼び込みやすいことを証明している記事がある。《「低姿勢」で政権迷走 首相、周囲の考え「丸のみ」》asahi.com/2011年10月15日20時34分)

 記事は冒頭で、〈「低姿勢」が売りの野田佳彦首相だが、政策の方針は定まらない。低姿勢のあまりに閣僚や周囲の考えを尊重して、「丸のみ」するためだ。最優先課題とする東日本大震災の復興策でも迷走するため、政権の掌握力を問う声も出ている。〉と言っている。

 「丸呑み」にしても自分を下に置き、周囲を上に置くことによって可能となる姿勢である。与野党協議で野党自民党の案を丸呑みするといったことはそういうことであるはずだ。

 復興に関しての野田首相のブレ、迷走は「ポピュリズム(大衆迎合)」というキーワードで10月19日(2011年)の当ブログ記事――《野田首相の災害復旧事業全額国費負担は動機不純な震災復興ポピュリズムが正体に見えるが? - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取上げた。

 上記「asahi.com」記事では復興庁の設置場所の決定を迷走の最初の例に挙げている。首相が9月下旬の衆院予算委員会で「現地に設置」と表明したが、4日後の平野復興相の「県には復興局、本部は東京が基本」の否定を受けて、復興庁は東京、復興局が被災3県に設置の復興庁設置法案が固まったという。

 野田首相が菅前首相がオハコとしていたように前以て関係省庁や被災自治体と検討を重ねずに先っ走りして独断で打ち上げたとしたら、自らが掲げた「余計なことは言わない、やらない」、「派手なことをしない」、「突出しない」の3原則、低姿勢に反することになり、このこと自体にもブレ、迷走したことになる。

 矛盾を突かれて、野田首相は次のように発言したという。

 野田首相「(復興)局をそれぞれ置いておくという趣旨だった」

 要するに「現地に」と言ったのは復興局のことで、復興庁を指したのではないというわけである。

 だとしたら、平野復興相は「県には復興局、本部は東京が基本」とわざわざ断ることはなかった。

 低姿勢も然ることながら、弁解、ゴマカシの類いもなかなかの才能を持ち合わせているようだ。

 次の例。

 首相が「重要政策を統括する司令塔機能」と位置づけたものの、未だにテーマや人選が決まっていない国家戦略会議。最初のテーマとしたTPPの交渉参加問題は立ち上げの遅れを理由に除かれたと書いてある。

 藤村官房長官 「遅れているのではなく、総理がじっくり考えてきた」

 なかなかの言い逃れである。低姿勢を基本姿勢とすることによって自主的・主体的判断に基づいた臨機応変の行動を放棄しているのである。当然、「じっくり考え」たとしても、適切な考えは思い浮かびようがない。

 首相周辺「総理が具体的なイメージを持っていなかった。心配して見ていたら、1カ月余りが過ぎてしまった」

 この解説こそを妥当と見なければなるまい。

 細野原発相「野田総理は説明すれば『そうか、そうか』と聞いてくれる」

 この発言に自分を下に置き、周囲を上に置く低姿勢=主体性・自主性の放棄を象徴的に見ることができる。当然野田首相自身の臨機応変な行動や考えは期待できないことになる。

 〈迷走の背景には、低姿勢ゆえ周囲の意見を聴いてしまうことがある。〉、周囲に〈受けがいいが、周囲の意向に配慮するあまり、首相や政権としての主体性はぼやけてしまう。 〉

 トップリーダーとしての「意向」をトップリーダーらしく重視する主体性の保持=リーダーシップ(=指導力)を優先させるのではなく、周囲の意向をより重視する他者の主体性尊重はやはり自分を下に置いた低姿勢から発しているはずだ。

 内閣府のスタッフ「首相や閣僚が政治決断すべきところを避けている。みんなで集まってババ抜きをしているようだ」

 「決断」は深く主体性・自主性に関わって発揮し得る。周囲の人間に対して自分を上に置く主導性(=リーダーシップ)を必要条件とする。野田首相が「余計なことは言わない、やらない」、「派手なことをしない」、「突出しない」の3原則に立っているから、「政治決断すべきところを避けている」ということだけではなく、何よりも周囲の人間に対して常に自分を下に置く低姿勢を自らの姿勢としていることが主体性・自主性に始まって主導性(=リーダーシップ)を欠くことになって、決断の回避につながっているはずだ。

 トップリーダである首相が決断しないから、閣僚も責任を押し付けられるのを嫌って同じく決断しない姿勢を倣うこととなり、誰かに損を掴ませる「ババ抜き」をし合うことになるということなのだろう。

 中曽根元首相が言うように「今のような低姿勢でまじめにやれば長期政権になる」としても、そのことによってトップリーダーとして必要な資質の欠如を必然的に伴うとしたら、そのような長期政権にどれ程の意味があるだろうか。

コメント (1)
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