平野達男震災復興担当相が18日(2011年10月)、福島県二本松市で開催の「民主党・新緑風会」の研修会で挨拶、その中の発言が人を傷つける言葉だ、大臣にふさわしくない発言だと批判を受けている。
どんな発言か、この問題を多く取上げている「MSN産経」記事から、その発言要旨と釈明会見発言を全文参考引用して見る。
《平野氏の発言要旨》(MSN産経/2011.10.18 20:37)
民主党参院議員らの研修会での発言について釈明する平野復興相=18日夜、福島県二本松市
平野達男震災復興担当相の発言要旨は次の通り。
「(津波被害を受けた)現地で何が起こったのか。これもさまざまな角度から検証が必要です(中略)。前の津波の経験からここの高さに逃げていれば大丈夫だと言ってみんなで20~30人そこに集まってそこに津波が来て、のみ込まれた方々もいます。逆に、私の高校の同級生みたいに逃げなかったバカなやつがいます。まあそういったね、彼は亡くなりましたけれども、バカなやつって言われてもしようがないですけどね、そういったことも全部、一つ一つ検証して、次の震災に役立てることがもう一つの大きな課題だと思っています」 |
《「個人の思いが入ってしまった。心からお詫びする」》(MSN産経/2011.10.18 22:53)
民主党参院議員らの研修会での発言について釈明する平野復興相=18日夜、福島県二本松市
平野達男震災復興相は18日夜、自身の「私の同級生のように逃げなかったバカがいる」とした発言に対し、訪問先の福島県二本松市内で記者団に対し、緊急に釈明を行った。詳細は以下の通り。
「今日の私の、東日本大震災の一連の報告の最後の部分だったと思いますが、今回の震災の教訓を生かさねばならないという話の中で、高台でここは大丈夫だといって波に飲み込まれた方もいる、その中に、逃げなかった方もいる-という話の中で、私の友人の、友人というより高校の同級生ですけどね。その話をして『バカなやつ』と言いました。
この同級生は、高校の時の私の友人で、私(の出身高校)は水沢高校ってとこですけど、彼は陸前高田で、そこによく遊びいって、高田松原で一緒に遊んだ仲でして。
今回、彼は高田で歯医者やってたんですけどね、逃げられると思えば逃げたんですけど、高校の時から、どっちかというと豪胆な男で、だいたい想像できたのは、こんな地震で大丈夫だといって、逃げなかったのは想像つくんですよ」
「そういう意味で『何で逃げなかったのかな』という思いはずっとあって、地元で話をするときに、『何で…、あいつはバカなやつだ、逃げなかった』と。どういう表現していいのか、残念だったという話をすればいいのか、逃げればよかったのにというふうに話をすればいいのか。この間の地元の同級会でもそういう話で、『あいつバカだった、なんで逃げなかったんだ』とちょっと言ったんですが、そのときの思いが今日の中にでてしまい、冷静に客観的にしゃべらなくちゃなんないところに、個人的な思いが入ってしまいました」
「趣旨は、もう正に、あの(民主党研修会であいさつした)瞬間は、客観的な状況から友人への思いがふっとこみ上げてきて、そういう言葉が出たんだと思います。字面にすると、逃げなかった人はバカだ、みたいな報道になっているようですけど、私は今回の震災、亡くなった方、私の友人、その友人を含め、後援会で世話になってる方も何人かいますし、私の友人にも津波で亡くした方たくさんいます。
助けようとしても助けられない。目の前で手をおって、助けようとしても助けられない、それを悔やんでる人もたくさんいます。
そういう方々の思いは十分踏まえているつもりで、それが本当に伝わらなかったのは残念だし、これでもって不快な思いをされた方には心からお詫び申し上げます」
「要は、この震災を踏まえて、なぜ亡くなったのか。助かった方もいます。普段から防災教育を受けて、逃げたとか(という例もある)。なぜ逃げなかったのか。その結果、なぜ亡くなったのか。それも今回の重要な検証の課題だと思ってまして、それを防災担当大臣として、これからしっかり詰めていこうと思います。
それらを踏まえ、次の震災にしっかり備えるというのが、それを言いたかったんですが、どうも言葉の使い方が、あの瞬間だけその同級生への個人的な思いがちょっと重なってしまって、ああいう表現になったということであります。重ね重ね、報道が出ましたので、もし不快な思いされたのなら本意でもないし、その表現についての稚拙さ、おわび申し上げたい。以上です」
--悔しいという思いで言ったのか
「それはもう、逃げれば逃げられたんだから。高田松原のすぐ後ろにうちがありましてね。逃げれば十分時間があって、後で聞いたら、本人は地震が来て『大丈夫だ、大丈夫だ』と言っていたという話も聞きましたから」
「無念というか、何で逃げなかったんだと。そこだけね。もっと客観的に話をする部分なんだけど、同級生の話がぼっとかぶさってしまいましたね。逃げなかった方でも、逃げたくても逃げられない方々もいるし、本当に大丈夫だと逃げなかった方もいるし、状況はいろんな客観的な状況はありますが、あそこだけ、その、友達の顔みたいなところがぽっと重なってしまった」
「無念というより、表現のしようがない、わかりませんね。いまだに逃げれば良かったのになって思いますね。その友人に対してだけはね。一般的に、家にとどまってた方々もたくさんいますから、その方々のことを、冷静に言うべきだったと思いますが、そこだけ個人のやつ(思い)をぽこっと持ってきたということです」
--野党からは被災者への配慮に欠けるという指摘があがっている。国会審議に影響も与えることにならないか
「こういうことで国会審議に影響与えるようだったら、私の本意ではない。今のような話をしっかり説明して、(野党議員に)聞かれたら、理解を得るべく努めたいと思います。
以上です。こんな時間帯に集まっていただきありがとうございました。皆さんまだ残っていただいて、釈明の機会を与えていただいたことに感謝申し上げます」 |
確かに取り返しのつかないことをしてくれたという悔しさから、「何ていうことをしてくれたんだ、バカな奴だ」といったふうに激しい思いに駆られて、その思いを言葉にしてつい口に出してしまうこともある。
平野復興相は「何で逃げなかったんだ、バカなやつだ」と舌打ちしたい思いを募らせたのだろう。
だが、平野復興相は被災地全体の復興及び被災者全体の生活再建を所管する大臣である。いわば全体の代表者であって、例えそれがごく親しい友人であっても、個人を代表しているわけではない。
また、復興と生活再建の中には被害状況の検証と学習と学習したことの活用が入るのは断るまでもないが、全体の代表者による個人個人に対する検証は、それが特異な事例でない限り、同様な事例の集積による類型化の中で行われるゆえに個人個人を離れた全体的ケースとし扱われることになる。
例えば大川小学校の悲劇にしても親は犠牲となった、特に自分の子どもがどのような指示を受け、どのように行動したか、あるいは行動させられたかを考え、自分の子どもという個人を離れることはないだろうが、生徒全体を代表する校長を始めとした大川小学校、あるいは大川小学校を管轄する教育委員会は子どもを大きな全体として扱い、その全体に対して学校はどういう避難指示と避難行動を要求したか検証することになるゆえに生徒という個人を離れることになる。
だが、平野復興相は全体の代表者でありながら、また、「(津波被害を受けた)現地で何が起こったのか。これもさまざまな角度から検証が必要です」と言っている検証は個人個人を離れて、類似の被害例を類型化する中で全体的な取扱いをしなければならないにも関わらず、そのような検証に友人という個人の例を混同させた。
いわば全体の代表者であり、全体的な検証を行わなければならない立場にありながら、私情を挟んだと言われても仕方がないだろう。
さらに言うなら、「前の津波の経験からここの高さに逃げていれば大丈夫だと言ってみんなで20~30人そこに集まってそこに津波が来て、のみ込まれた方々」の例、あるいは「一般的に、家にとどまってた方々」の例は一つや二つではなく、多くの場所で見られたはずの例であり、検証する場合、類型化しなければならない事例であろう。
「逃げられると思えば逃げたんですけど」の友人の例も友人に限られたことではなく、多く見られた被害例であるはずである。当然、類型的な事例として扱わなければならない。
このように類型化されるとする文脈からすると、個々の例を取り上げて、それをバカな奴と言った場合、類型化されている類似の犠牲者も実際にはバカなやつかどうかも分からないにも関わらず、バカな奴ということになる、逆の類型化を受けることになる。
いわば命を落としてしまった悔しさが言わせた「バカな奴」であったとしても、平野復興相が友人の立場から、「地元の同級会」で一個人として喋るのは許されるが、一個人であることを離れて全体の代表者である立場に立って「民主党・新緑風会」の研修会で喋る場合、友人一人にとどまらない「バカなやつ」ということになる。
意図的に類似の例を抱えた犠牲者まで非難するつもりのない、私情を挟んだが故の他に同様の評価を与えかねない不適切発言と言えるが、少々合理的判断能力を欠いていることからの失言といったところで、果たして大臣に相応しい判断能力かということの方が問題であるように思える。
類型化という点でもう一つ例を挙げるとすると、野田首相の9月13日(2011年)の所信表明演説での発言。
野田首相「この国難のただ中を生きる私たちが、決して、忘れてはならないものがあります。それは、大震災の絶望の中で示された日本人の気高き精神です。南三陸町の防災職員として、住民に高台への避難を呼び掛け続けた遠藤未希さん。
防災庁舎の無線機から流れる彼女の声に、勇気づけられ、救われた命が数多くありました。恐怖に声を震わせながらも、最後まで呼び掛けをやめなかった彼女は、津波に飲まれ、帰らぬ人となりました。生きておられれば、今月、結婚式を迎えるはずでした。被災地の至るところで、自らの命さえ顧みず、使命感を貫き、他者をいたわる人間同士の深い絆がありました。彼女たちが身をもって示した、危機の中で「公」に尽くす覚悟。そして、互いに助け合いながら、寡黙に困難を耐えた数多くの被災者の方々。日本人として生きていく『誇り』と明日への『希望』が、ここに見出せるのではないでしょうか」・・・・・
住民を救おうとして自ら犠牲となった例は彼女だけではなく、「公」を尽くすべく使命感を貫いた消防士もいれば警察官も多くいたはずである。一般人であっても、近所同士で顔見知りと言うことで助けようとして、助けようとした方が命を落としてしまったという例もテレビや記事を通じて多く聞く。
このようなケースを検証する場合にしても自分の命だけが助かればいいというわけにはいかない職務上の制約を受けるゆえに難しい問題だが、やはり類型化の中で職務上の救命と自身の命の保護との兼ね合いで論じられることになるはずである。
このような他者の救命と引き換えに自身の命を犠牲にした者に対して友人、知人の類い、あるいは近親者の中には「人を助けて、自分が犠牲になってしまった。バカを見たのは本人だ。バカなやつだ」と、救命を試みた者が犠牲となる不条理に我慢ならなくなってつい罵ってしまう場合もあるだろう。
しかしそのような罵りが許されるのはあくまでも個人の立場にある者であって、個人の立場からの他の個人に対する評価でなければならないはずだ。
貶める意図はなかったとしても、如何なる全体の代表者も決して口にしてはならない評価であるはずだ。
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