中2虐待死に見る過去の児童虐待死を相変わらず何ら学習しない児童相談所の不作為とも言える危機管理

2011-10-25 12:41:44 | Weblog

 ほんの3日前の10月22日(2011年)朝、名古屋市名東区の市営住宅で部屋に出入りしていた母親の愛人の酒井なる男に胸を殴られて中学2年の服部昌己(まさき)君(14)が殺された。

 《名古屋・中2暴行死:日常的に虐待か…児相に通報5回》毎日jp2011年10月23日 1時45分)から経緯を時系列で追ってみる。

 二人の交際は09年夏頃からだと、これは「MSN産経」記事が伝えている。

●市児童福祉センター ――2009年8月と2011年1月、「家庭の養育環境が不十分」などとして、昌己君
 を2週間~1カ月間、一時保護.
●2011年6月8日――昌己君が当時通っていた市立田光中学校(同市瑞穂区)から最初の通報。「昌己君
 が左頬にけがをし、酒井容疑者が暴行を認めた」
●6月14日――市立田光中学校から2回目の通報
●6月14日家庭訪問。市児童福祉センター(児童相談所)職員、昌己君の自宅家庭訪問。
 酒井容疑者「言葉遣いが悪くカッとなって殴った。しつけのつもりだった
●6月19日――近所の住人「虐待されているのではないか」と3回目の通報。
●7月――市立田光中学校、額のケガを4回目の通報。
 同センター家庭訪問。母親友己「(昌己君が)転んで階段の手すりにぶつけた」
●10年7月――母親から県警瑞穂署に「酒井容疑者に腕を殴られた。別れたい」と通報。
●10月11日――親族の知人、通報。
●10月14日、市児童福祉センター家庭訪問。「虐待を疑う要素はない」と判断。

 羽根祥充・市児童福祉センター主幹「酒井容疑者も反省している様子で、指導はうまくいっていると思っていた。援助の力が足りなかった」――

 市児童福祉センターが昌己君を2009年8月と2011年1月の2回、2週間~1カ月間、一時保護した時期は既に男が出入りしていた時期と重なるはずで、昌己君の記録を取っていたなら、学校から虐待の通報を最初に受けた時点で、児童福祉センターは男も加わった「家庭の養育環境が不十分」と学習しなければならなかったはずだ。

 いわば男にしても家庭的ではない人格を有していると見做して、家庭訪問以降、虐待死防止の危機管理上、要注意人物として取り扱わなければならなかった。

 6月8日の最初の通報があったあと、児童福祉センターが直ちに家庭訪問したかどうか、他の記事を見ても分からない。家庭訪問したと伝えている記事もあるかもしれない。

 だが、学校は「昌己君が左頬にけがをし、酒井容疑者が暴行を認めた」からこそ、虐待を疑って通報したはずである。児童相談所の家庭訪問によって酒井容疑者がどう釈明し、その釈明に対して児童相談所がどう判断したのか、最終的に「虐待を疑う要素はない」と判断したのだから、日常的虐待と判断したわけはないが、だとしたら、一過性と判断したのか、結末の提示があって然るべきだが、ないところを見ると、家庭訪問自体が行われなかった疑いが濃い。

 6月14日の2回目の通報と同じ日に児童福祉センターは家庭訪問している。酒井は「言葉遣いが悪くカッとなって殴った。しつけのつもりだった」と釈明した。いわば虐待ではないと否定したということである。

 この釈明に対する児童福祉センターがどう判断したのか、記事は書いてない。他の記事も触れていないようだ。

 「しつけ」だと称することが虐待の自己正当化の常套句となっている過去の例に鑑みたなら、記者はどう判断したのか尋ねるべきだったろう。

 児童相談所がどう対応したか、取り立てて説明がなかったことからすると、相手の言い分を言葉通りに素直に解釈して、感情に任せた一時的な発作行為だと見做したということなのだろう。

 ここから窺うことができる児童相談所の姿は相手の言い分に疑うことを知らない無邪気さを纏った姿である。実際は無邪気さではなく、面倒を避ける意識が相手の言葉をそのまま虐待ではないことを証明する言葉としてストレートに受け入れる狡猾さへを誘導させたのかもしれない。

 また、学校から4回目の通報を受けて児童相談所が家庭訪問したとき、母親は「転んで階段の手すりにぶつけた」と言って、ケガは虐待によるものではないことを間接的に否定しているが、子ども自身による“転倒”をケガの原因だとする説明も虐待を誤魔化す常套句として虐待者が頻繁に利用していることも学習していなければならないはずだ。

 虐待を「しつけ」だと誤魔化す例を挙げてみる。

 2006年7月、福島県泉崎村北平山の40歳の夫と33歳の妻が三男の広ちゃん(当時3)を日常的な虐待と食事を満足に与えない育児放棄によって低栄養状態で死なせたため保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕されている。

 他の二人の兄姉にも暴行と食事を与えない育児放棄の疑いが出ていた。

 両容疑者「朝のあいさつをしなかったから、しつけの範囲だ。衰弱には気づかなかった」

 衰弱に気づかないことはないだろう。懲らしめのために食事を満足に与えず、衰弱は言うことを聞かないことの結果と見ていたに違いない。そうでなければ、衰弱を放置しない。

 兄姉が通っていた大戸祐一村立泉崎第二小学校校長「両親からは『自分の子は自分でしつけるので手を出さないでくれ』と言われたこともあった」

 2010年1月24日死亡した東京都江戸川区の小学1年生岡本海渡君(7)は両親から日常的な暴行を加えられる虐待を受けて死亡している。前年、歯の治療で通院していた歯科医院の歯科医が「虐待の疑いがある」と江戸川区子ども家庭支援センターに通報、センターが学校に通報。担任教諭らが家庭訪問。

 父親しつけで殴ったが、暴力はよくない。もう二度としない

 しつけで殴ったのであって、虐待から殴ったのではないと否定している。

 江戸川区子ども家庭支援センターは東京都墨田児童相談所に文書で連絡。

 東京都墨田児童相談所「学校で対応し、親も従ったということなので、それ以上の対応はしなかった」

 だが、親の虐待は続き、海渡君は親を含めた大人たちの犠牲となって死に追いやられた。親の言い分はすべて事実に反していた。事実に反していた親の言い分を学校も江戸川区子ども家庭支援センターも東京都墨田児童相談所も信じた。

 特に子どもを扱う機関は学習すべきことは多々ある。

 2011年4月に内縁の妻の2歳の長女に暴行を加えて死亡させ、警察に逮捕された23歳の男は次のように言っている。

 「言うことを聞かないので、しつけのつもりでやった」

 「しつけ」だと称して暴力を加える虐待は枚挙に暇がないくらい、他にもいくらでも例を挙げることができるはずだ。自分自身に対しても、「しつけ」だと誤魔化して、あるいは自分自身にも嘘をついて、暴力を振るい続け、虐待を繰返す。

 親自身はしつけだと思い込んで殴ったとしても、言うことを聞かないことに対する、あるいは言った通りのことをしないことに対する憎悪の感情からの発作的な爆発が暴力という形を取らせるのであって、子どもが親とは別人格であることから何から何まで親の思い通りとはなり得ない存在であり続けるその反復性が逆に思い通りにしようとして思い通りにならない親の憎悪の感情の発作的爆発をも反復化させて、暴力を習慣化させ、常習化させることになって、最終的に取り返しのつかない子供の死という結末を迎えることになるのである。

 こういった経緯を取った「しつけ」を口実とした虐待の自己正当化の横行が過去に多く存在している以上、学校も児童相談所も学習して自らの危機管理上の項目に付け加えて置かなければならないはずだが、今回の虐待死を見るかぎり、学習して危機管理の備えとしていた様子は窺うことができない。

 ケガの原因を“転倒”だとする虐待死の例を見てみる。

 2007年1月、千葉県松戸市で2歳の長女が母親と同居の男(共に24歳)から暴力を受けて死亡した。柏児童相談所は虐待を把握していて、女児が死亡する5日前に家庭訪問して虐待の可能性を認識したにも関わらず、一時保護などの措置を取らなかった。

 母親と男(児童相談所の調べに対して、顔の傷は)「台所で手伝いをしようとして前のめりになり、蛇口にぶつけた」

 母親(左ほおのかさぶたや、右目の脇の内出血に対して)「アパートの階段から落ちた」

 2010年2月、兵庫県三田市で27歳の継母が5歳の長女に暴行を加えて急性硬膜下血腫で死なせている。

 継母(救急隊員に)「長女はベランダで遊んでいて転んだ」
 
 2010年5月、静岡県函南町で11歳5カ月の長女を床にたたきつけて頭にケガをさせ、意識不明の重体に陥れた21歳の母親。

 母親(救急隊員に)「階段から転落した」

 ここでは取り上げないが、子ども自身が自転車に乗っていて転んだとか、階段から落ちたとか、机の角に膝をぶっつけたとか、親の虐待によって受けたケガを自分から話したことが親に知れた場合、なおひどい虐待を受ける恐怖から隠すケースもあるのはご存知のはずである。

 また、今回の虐待死で児童福祉センター主幹が「酒井容疑者も反省している様子で、指導はうまくいっていると思っていた」と、「反省している様子」を以てして虐待否定の根拠としているが、あるいは反省して、「二度と殴らない」と約束することもあるが、このような反省にしても約束にしても一度暴力を振るうと、先に触れたようにそれが憎悪の感情に触発されるゆえに常習性を持つ傾向があるという同じ理由から、最悪の虐待死を防ぐという一点に賭けて、学校や児童相談所は疑ってかかる危機管理を学習していなかればならないはずだ。

 先に例を挙げた岡本海渡君に暴行を加えて虐待死させた父親にしても、「もう二度としない」」と約束している。

 児童問題を専門に扱う児童相談所にしても、児童虐待死を防ぐのは確かに至難の業であるかもしれない。だが、その至難さを差し引いたとしても、過去の虐待や虐待死から肝心要なことを何ら学習していない姿があまりにも浮かんでくる。

 学習しないことによって、至難であることを至難なままに放置する危機管理の不作為を生じせしめているのではないだろうか。そう思えて仕方が無い。

コメント (2)
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