前々からいじめはどうしたら防ぐことができるか考えていたが、二段構えの『いじめ防止対策プログラム』なるものをつくってみた。一つは集団競技を行なう。一つは教育を通して。
実際に役立つ対策なのかどうかは分からない。だが、集団競技の実施に関しては学校社会という集団社会に於いてクラスのすべての生徒、あるいは各学年ごとのすべての生徒、さらには一つの学校のすべての生徒の参加の元、各チームごとに協力し合い、工夫し合って能力の低い生徒を補いつつ総合力を高める努力をして勝ったり負けたりの競技を行うことは心の通わせ合いを伴う協調精神の育みを通して社会意識の涵養につながっていくのではないかと思う。
役に立たないということなら論外だが、プログラムとしては役に立つように見えても、プログラムの実行の段階で実際に学校現場で活用できるかどうかにかかってくる。何しろ学校の先生にしても暗記教育で育ったせいで文科省という上からの指示に右へ倣えで一斉に従う習性を行動性としている代償として自ら考えて臨機応変に工夫していく創造性を欠いていることから、プログラムを生かす形で活用できるかどうかは分からない。
よく日本の政治・行政は中央集権体制だと言われるが、それを許しているのは日本人の精神そのもの、思考性・行動性そのものが上に従う中央集権体制となっていて、国家構造と精神が相互に呼応し合っているからであろう。
いわば多くの日本人が心の中に中央集権体制を抱えているということである。結果として教師にしても文科省の指示に機械的に従うことになる。
今後日本の政治を担うことになった自民党の2012年総選挙政策プログラムはいじめに関して次のように記述している。
〈危機的状況に陥ったわが国の「教育」を立て直します。
●いじめの隠ぺいなど、法令違反や児童生徒の「教育を受ける権利」の侵害に対しては、公教育の最終責任者たる国が責任を果たせるよう改革します。
●今すぐできる対策(いじめと犯罪をはっきり区別、道徳教育の徹底、出席停止処分など)を断行するとともに、「いじめ防止対策基本法」を成立させ、統合的ないじめ対策を行います。〉・・・・・
「いじめ防止対策基本法」は法律を手段とした規制と強制以外の何ものでもなく、他の法律がその効用性を教えてくれる。どのように罰則を強化した法律であっても、犯罪はなくならない。
「道徳教育」はいじめを未然に防ぐ方法として考えたのだろうが、道徳とか倫理とかは人間が他者との関係や自身が置かれている環境に応じて如何ようにも相対化の試練に出会うことになる。
他者との関係では例えば盗みは悪いことだという道徳観を身につけている児童・生徒が自分が怖いと思い、自身の考えや行動を支配している同級生等に何々を盗んでこいと言われて、盗んでこない場合の懲罰を恐れて盗んでくる場合、身につけていた道徳観は役に立たないが、対等な関係にある上に盗みは悪いことだという同じ道徳観を持った同級生との人間関係では盗みを働く事態が生じることもなく、盗みを悪とする自らの道徳観を守ることができるように人間関係に応じた相対化を宿命とする。
自身が置かれている環境に関しては、その日の食べ物に事欠き、空腹を抱えることになると、それまでは盗みは悪いことだという道徳観を守ってきた人間でも、空腹を満たすためについ盗みを働くことになって、結果として道徳観を相対化させてしまう。
だが、いずれにしてもどう行動するかは最終的には自身の判断にかかっている。
但し日本の教育は教師から児童・生徒への一方通行の暗記という強制をメカニズムとし、判断能力を身につける基礎となる自ら考えるというプロセスを介在させていないこと自体が判断の相対化、あるい思考の相対化の訓練を欠くことになり、相対化の学びの機会を失わせている。
そのように相対化の訓練を受けていない学校の教室で人間関係や環境に応じて道徳観や倫理観が相対化され得ることを教えたとしても、児童・生徒一人ひとりが相対化の教えを吸収する土壌を持たないがゆえに身につかず、ああしなさい、こうしなさい、これはしてはいけない、あれはしてはいけないといった暗記形式に則った指示・命令の形での機械的な知識・情報の伝達となって、単なる言葉の伝達で終わりかねない。
勝ったり負けたりの集団競技は相対化を学ぶ機会ともなり得ると考えている。
では、いじめ防止対策プログラムに入る。
1.運動競技を通した力関係の固定化の相対化
2.自己実現を問う教育
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1.運動競技を通した力関係の固定化の相対化
☆いじめの発生理由
いじめとはいじめっ子がいじめる子に対して心理的精神性に於いても身体的物理性に於いても地位的な上下の力関係を築き、この関係を巧みに利用していじめという攻撃を仕掛けていじめる子を精神的にも身体的にも言いなりに支配し、言いなりに従属させることを言い、いじめが一度や二度で終わらない継続的な習慣性を持つのはそのような力関係が両者間に固定化されることになるからであるはずである。
当然、いじめを防止するためにはこの上下の力関係を相対化させる力を加えて、力関係の固定化を回避する方法が有効ということになる。
上下の力関係は生徒のすべての能力を上下の価値観で計ることから発生し、そのことが往々にして学校社会が求める能力で上下関係に於ける上の優越的地位を築くことができない、いわば下の劣等的地位に取り残された生徒がいじめを手段としていじめる子を下の関係に置き、逆に自身を上の優越的地位に置くことで、学校社会が求める能力では満足させることができない、下に対する上の優越的地位確保の欲求を充足させる歪んだ権利意識が働く余地をつくることになる。
いじめが学校社会に於ける上下の価値観、上下の力関係を代償させる価値行為であり、例えそれが歪んだ権利意識からのものであっても、上の優越的地位を築くことができる関係上、いじめっ子にとってはいじめは学校社会に於ける大いなる自己活躍であり、自己の力を証明する大いなる自己存在証明でもあり、大いなる自己実現ということになる。
いじめが多くの場合、際限もなくエスカレートする理由はいじめが自己活躍であり、大いなる自己存在証明、大いなる自己実現となっていることからきているからであろう。
☆具体的方法
従来の方法とは異なった各種運動競技を利用する。
先ずクラスごとに全生徒の正確な身体測定と体力測定を行なう。身長・体重・走力・肺活量・跳躍力等々を計測し、記録しておく。
1.200メートル~400メートルリレー走
イ.小中高校の各生徒の50メートル~100メートル走のタイムを計測して、各チームの走力がほぼ均等となるように平均値を取った男女混合のリレーチームを各クラスごとに編成する。
ロ.小学生は50メートルずつ4人走って200メートルリレー、中学生以上は100メートルずつ4人走って400メートルリレーとする。
ハ.各クラスで8チームか9チームできるはず。8チームの場合は2チームずつの4回のリレー競技とする。9チームの場合は2チームづつが3回、最後に3チームが走る競技とする。
ニ.1位として残った4チームがそれぞれの記録に関係なしに最終的に1位を決するリレーを行なう。
理由は、各チームの平均タイムがそれ程の違いがないためにバトンタッチの技術やコーナーの回り方で勝敗が違ってくるはずで、早いチームと早くないチームの固定化を防ぐことができる。
この固定化の回避は優劣上下の力関係の固定化の防止につながる。
ホ.教師はリレーをビデオカメラで撮影する。
ヘ.生徒は競技の前にバトンタッチの練習やコーナーの周り方を練習したり研究したりする。2回目以降、教師撮影のビデオを各チームごとに参考にする。
バトンタッチの下手な生徒は先頭を走るとか、緊張しやすい生徒は後ろに回すとか、生徒同士が話し合って、工夫させる。
以上の方法は研究心や協調心を養う契機となるはずである。
ト.常勝チームを作らないようにする。これも上下の力関係の固定化を相対化する方法。常勝チームができたなら、メンバーを入れ替える。負けることを覚えることも社会に出たときに役立つを理由とする。
チ.競技の時間は学校休日の土曜日を利用する。
リ.なるべくメンバーの入れ替えではなく、メンバーが力を合わせ、協力し合ったお互いの工夫や勉強等の努力によって勝ったり負けたりの状況をつくり出すことができたとき、勝ち負けによって力関係が上下に固定化する状況を自ずと防いで力関係の相対化につながっていく。
ル.学校は大学の陸上競技部に席を置く選手等を無料奉仕で招いて、「どうしたら早く走れるか」を講義させるのも、各チームの生徒同士の協調精神を養うに役立つはずである。
2.騎馬戦
イ.クラスを男女別に各身体能力測定値の合計の平均値がほぼ等しくなるように4人ずつのチーム編成を行なう。身体的能力がほぼ等しい、力の接近したチームが編成されることになる。
ロ.従来の騎馬戦は運動会等で学年ごとか全校で紅組と白組2チームに分かれて戦うが、各クラスで2チームずつ敵味方に分かれて戦い、勝ったチームが勝ったチーム同士で戦っていき、最後に1位チームを決するトーナメント方式とする。
ロ.教師が全ての戦いをビデオに撮って、生徒の戦い方(=戦術)の研究材料とするのはリレーと同じ。
3.綱引き
イ.体重、握力、走力(脚の力)等の合計を平均化した、力の接近したチーム編成とする。
ロ.以下は他の競技と同じ方式を取る。
以上の競技を時には学年別のトーナメント戦で行う。
また、他の競技への応用も教師や生徒が相談して決めて、競技の幅を広げるのも工夫の一つとなる。
力関係固定化の相対化を通した教育的効用
1.教師は戦いの前に、「お互いのチームは力が接近しているから、戦い方の工夫や、研究、戦意の持ち方によって勝敗は勝ったり、負けたりするはずだ。今日負けても、努力次第、力の合わせ方次第で明日は勝つかもしれない。例え明日また負けても、勝つ可能性が全然ないわけではないのだから、決して諦めないで、戦い方を工夫したりして、少なくとも毎日、今日こそ勝つぞの気持で戦って欲しい」と可能性への挑戦と努力を促し、勝ったり負けたりの状況をつくり出すよう努める。
また生徒同士の戦い方の様々な工夫の議論は議論すること・思考することの習慣付けに役立つ。
さらに勝ちに行く姿勢を植えつけることができたとき、チャレンジ精神の涵養と努力姿勢の習慣化として現れる。
2.競う競技の種目によってチーム編成が違ってくるから、異なる人間関係が経験可能となる。異なる人間関係の構築も上下の力関係の固定化回避に役立つはず。
異なる人間関係の豊富な経験は社会性や社会意識の学びにつながっていくはず。
3.いくら身体的能力が劣った児童・生徒であっても、チームの一員である以上、協力し、工夫し合って劣る身体能力を他のメンバーがカバーしていかなければ、チーム全体の力を維持できないことになる。
また、競技を通して身体能力が優れた児童・生徒であっても、自分一人であるよりも、多くの人との支え合いによってより大きな力を発揮できることを体感するだろうから、教師はそのことを自覚させ、様々な喩えを持ち出して一般社会にあっても人間は一人で生きることはできない、多くの人との支え合いによって社会の生きものとして成り立つことを教える。
このような学びが自ずとチーム意識の植え付けにつながるようにする。チーム意識の植え付けはまた、協調精神を養い、社会性や社会意識の学びにも貢献するはずである。
4.以上の状況を醸成するには生徒自身の努力だけではなく、何よりも教師自身の努力にかかっていることを教師は自覚しなければならない。
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2.自己実現を問う教育
☆自己実現の意味
インターネット上に「個人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」と説明しているが、ここでは、「可能性としてある望ましい自己の在り様を実現すること」の意味として使う。
いじめはいじめを通して自己を優越的な上の地位に置く一種の自己実現だと書いた。そのような自己実現を望ましい自己の在り様としたのである。
自己の在り様として望ましくないと自覚していたなら、いじめは起きない。
当然、いじめは自己可能性の追求であり、成功した可能性の実現は自己活躍の証明となり、その証明は自己存在証明そのものとすることになる。
いじめが自己活躍の主たる手段となり、いじめによって自己存在の証明とし、そこに自己実現を置いているということである。
☆将来何になりたいか
将来何になりたいか、どのような職業人になりたいかは自己可能性が未だ実現していない状態であって、希望的自己実現と言うことができる。
希望的自己実現は日々に於ける可能性としてある望ましい自己の在り様の自己実現の積み重ねによって達成できる目標であるはずである。
テストでいい成績を取るのも自己可能性の一つの自己実現であるし、野球少年が日々練習に励んで試合で練習の成果を試し、次第に上達していく過程も日々の自己可能性の自己実現の一つ一つである。
勉強に励んで、それなりの成績を獲得するのも、成績によって果たす自己実現であって、小中高大学と勉強を続けて、その時々に自己実現を果たしていき、社会に出てサラリーマンとなる、技術者となるのも一つの自己実現である。
このように日々の自己実現が将来何になりたいか、どのような職業人となりたいのかの希望的自己実現へとつながっていって、その実質を与えて具体化することになる。
教師は将来的な希望的自己実現はこのような日々の自己可能性の自己実現の積み重ねによって達成できることを自覚させて、日々の努力を疎かにできないことを教えなければならない。
勿論、将来的な希望的自己実現はテストの成績だけで決まるわけではなく、好きな運動、好きな趣味、好きな遊びに打ち込むことも希望的自己実現の具体化につながっていくことを教える。
目指していた希望的自己実現と異なっていたとしても、結果的には何らかの自己実現を果たすことになる。
それがどのような自己実現であったとしても、社会の一員として実現させた自己を懸命に生きなければならない社会的責任を負う。
万引きの成功を自らの自己実現とする場合もある。万引きによって自己可能性を実現させたのである。反省もなしに万引きを続けた場合、将来的にどのような希望的自己実現が期待できるだろうか。ある日突然反省して、二度と人の物は盗むまいと心に決めて日々を過ごすのも自己可能性の一つの自己実現であって、そのような自己実現からは将来的な自己実現は一個の社会人としての自己実現が期待できることになる。
逆に反省もなく万引きを続けて、万引きの成功で日々の自己可能性の自己実現を図っている者は将来的には万引きだけではなく、人を誤魔化してカネや物をせしめることで自己可能性としての自己実現を図るようになり、一般的な社会人としてのしっかりとした自己実現は望むことができないことになる。
☆自己実現を問う具体的教育方法
教師は「毎朝繰返すお早うの挨拶だと思って聞いて貰いたい」とでも前置きして、小学校は朝の会、中高は朝のホームルームの時間に自己実現と自己活躍との関係、さらに自己存在証明との関係を説明した上で、将来何になりたいかの希望的自己実現は日々の自己可能性の自己実現の積み重ねによって決まっていくこと、当然、今日一日の自己実現が疎かにできないことを繰返し伝える。
自己実現という言葉が小学生には難しく、理解できなくても、「今は理解できなくても、いつかは理解できるようになる」と言って、可能な限り噛み砕いた言葉で説明を繰返すことによって児童は頭に記憶し、段々と理解していくものである。
小学校は帰りの会、中高は帰りのホームルームの時間に、教師は具体的な内容は聞かずに児童・生徒が「今日一日、どのような自己実現を果たしたのか」の言葉を投げかける。
「今日一日の自己実現を疎かにしなかったか。いじめで今日一日の自己実現を図った生徒はいないだろうな。いじめを自己活躍の手段とし、そのことを自己存在証明とする。
自己の存在をいじめで証明するなんて、悲しい事実としなければ。
いじめられる子はいじめで自己の存在を証明しなければならなくなる。そのようなことは誰にとっても耐え難いことだから、その耐え難さに我慢できなくなったとき、突発的に自殺を選んでしまうことになる」
いじめを自己実現とした生徒はいないかと手を上げさせたり、名乗らせたりするのではなく、それぞれの児童・生徒の自己省察心に直接問いかけて、自身で考え、判断させる方法を取る。
いじめが発覚してから、単にいじめはいけません、相手の心を傷つけることです、悲しませてはいけませんといった決まりきったスローガンのように繰返すよりも、自己省察心に日々繰返し訴えることの方が言葉としての力を持つはずである。
以上、役に立つかどうかは他者判斷に任せたいと思う。