我が安倍晋三が12月22日(2012年)、山口県田布施町にある母方の祖父岸信介元首相の墓参りをし、政権奪還を報告したという。
ぞろぞろとひっついて回っていたのだろう、墓参り後、マスコミの記者に囲まれて、墓に向かって何を報告したのか聞かれたという構図が目に浮かぶ。
《「祖父と同じ信念と決断力を持って」自民・安倍総裁》(asahi.com/2012年12月22日15時38分)
安倍晋三「祖父(岸信介元首相)の時代も大変混乱の時代で、安全保障環境も厳しい時を迎えていて、日米同盟が新しい時代を迎えなければいけないという信念で、日米安保条約の改定を祖父は行ったんですが、私も祖父と同じ信念と決断力を持って、長州出身の政治家として恥じない結果を出していきます、という報告をいたしました」・・・・・
ここで言う「長州」とは単なる一地域のことではなく、その地域輩出の政治家が明治維新以降成し遂げた国家的業績をも含めて「長州」という地域に象徴させているはずだ。
安倍晋三は「長州」という偉大な地域性、その地域に生まれた人間にもたらす土地の血に権威を置き、それをバックボーンとして自身の権威を打ち立てているということである。日本の他の地域と比較して特別な業績を成就させた土地柄・土地の血だと見做すことによってこのような精神構造は可能となる。
東大卒の政治家、その他が東大という一大学組織によってこれまでに輩出された人間が成し遂げた業績をバックボーンとして自身の権威を打ち立てることができるのも、東大という組織がつくり出す血を信奉し、一大権威としているからだろう。
このように個人を権威とするのではなく、土地や組織がつくり出す血を権威とする精神性はその先に国家という地平がつくり出す血を権威とする国家主義に行き着く。
安倍晋三のこの長州権威主義は彼の国家に最大の権威を置いて個人を国家の下に置く国家主義のベースを成しているはずだ。日本国家の血を否定した場合、長州の血との整合性が失われる。日本国家の血が長州の血によって成し遂げられたと肯定した場合、いわば長州という土地の血が生み出した日本国家だと見た場合、安倍晋三の長州権威主義は正当化し得る。
12月4日、衆院選の遊説で福島県会津若松市を訪れたときの発言。
安倍晋三「私は山口県の出身だ。(幕末の戊辰戦争で戦った)長州出身者は会津では評判が悪いかもしれないが、まず私の先祖がご迷惑をおかけしたことをおわびしたい。これから会津のみなさんと長州がしっかり力を合わせ、新しい日本をつくっていく決意だ。福島の復興、被災地の復興なくして日本の未来はない」(毎日jp)
長州を上に置き、会津を下に置いた上から目線の言葉となっている。安倍晋三の中では今以て長州を勝者と見ていて、会津を敗者の位置に置き、勝者の立場から協力を求める権威主義性を発現している。
個人に権威と価値を置く民主主義時代の現代日本に於いて今以て自身の生まれ故郷長州の血に権威と価値を置く大時代な、その古臭い権威主義的感性には驚く。
戦前の万世一系の天皇これを統治する大日本帝国を理想の日本としている国家主義者だから、日本を長州だ、薩摩だ、会津だと区分けて考えても不思議はないのかもしれない。
もし鹿児島出身の政治家が「薩摩出身の政治家として恥じない結果を出したい」と言ったら、どう響くだろうか。
あくまでも個人の業績・結果――個人性が評価対象となるはずだが、そこから離れている点に於いて菅無能が自身をサラリーマンの息子であることに権威を置いたのに似ている。
確かに長州からは名だたる政治家を輩出しているが、それは明治維新以降の日本を薩長が主たる支配層として君臨、明治10年の西南戦争で西郷隆盛が敗れて自刃、薩摩閥が後退するに及んで長州閥が明治政府の主導権を完全に握った名残りでもあるはずである。
戦後日本で言うと、長きに亘った自民党ほぼ一党独裁体制が自民党から多くの首相を排出したのと同じ構図で、民主党や旧社会党よりも自民党の方が多くの首相を輩出しているからといって、自民党を誇ることができるだろうか。
長州が名だたる国家指導者を多く輩出しているからといって、その土地の血を誇った場合、自民党が多くの国家指導者を輩出しているからといって自民党の血を誇るのと同じ滑稽な事態となる。
長州出身の山縣有朋は陸海軍大臣の補任(ぶにん・ほにん「官職に任命すること」)資格を当初少将以上の武官に限っていた軍部大臣現役武官制を1900年(明治33年)9月、現役の大将・中将に限ると規定、その後一旦廃止されるが、復活し、結果として内閣の組閣を左右する力を軍部に握らせることになり、軍部独走の基礎をつくった。
結果は見てのとおりである。
安倍晋三は「日本のために命をかけた英霊に対して尊崇の念を表する。これはどの国のリーダーも行っている」などと戦前の靖国思想に今以て取り憑かれているが、長州出身の山縣有朋制定の「軍部大臣現役武官制」が多大な影響を与えた多くの日本軍兵士の犬死であって、長州の血を尊ぶ権威主義・国家主義からの英霊に対する尊崇の念は明らかに矛盾するが、お目出度くできているのだろう、本人はトンと気づかない。
過去長州出身の政治家を多く輩出していたとしても、その政治家のすべてが光を放っていたわけではなく、功罪を伴っていたと見なければならない。
いわばあくまでも個人を基準に評価、価値付けなければならないはずだが、地域の血や国家の血で価値づける権威主義から逃れることができないでいる。
このような合理的な判斷能力を欠いている結果、長州という土地柄・土地の血に自己存立の正統性・権威を置く歴史観を含んだ滑稽な価値観を生じせしめることになる。
東大卒業者から多くの首相を輩出しているからといって、東大に自己存立の正統性・権威を置く価値観と滑稽さに於いて優るとも劣らない。
生まれ育った土地の風土・文化、生い立ち、人間関係、その後の人間関係、人生経験、その総合としての自己の持つ個人性を存立の基盤とせずに、長州という風土・文化、土地の人間等々の総合を土地の優れた血と見て、そこに権威を置き、その権威の上に自己を成り立たせている。当然そこには独特としての自己=個人性は存在しないことになる。
前者は自律的自尊性と言うことができ、後者は非自立的自尊性と見做すことができる。
物価上昇率目標2%の金融緩和政策にしても、ブレーンの経済学者が提唱している政策であって、それに従っているに過ぎない。
自立的自尊性を持たない政治家が今後の日本の国のリーダーを務める。