櫻井よしこの憲法に民族の価値観や伝統、歴史を書き込もうと衝動している日本民族優越感からの危険な憲法観

2014-06-08 10:36:05 | 政治

 

 《(私の視点)憲法を考える 桜井氏・東氏ら5人に聞く》asahi.com/2014年5月9日 21時52分)が、桜井よしこの憲法観を伝えている。

 記事冒頭。〈今月3日に施行67年を迎えた日本国憲法のいまと未来について、ジャーナリストの桜井よしこ氏、哲学者の東浩紀氏、首相補佐官の礒崎陽輔氏、歴史学者のジョン・ダワー・マサチューセッツ工科大名誉教授、元内閣官房副長官 補の柳沢協二氏の5人に聞いた。〉――

 但し無料の記事は桜井よしこと哲学者の東浩紀氏の憲法観のみで、ここでは桜井よしこの憲法観のみを取り上げて、その危険性に触れてみる。

 桜井よしこ「伊藤博文をはじめとする明治のリーダーは、西欧列強の進出から日本国の独立を保つため、懸命に国のかたちをつくろうとした。様々な国を訪ねて憲法について学び、憲法とは他国のまねではなく、民族の価値観と歴史を反映するものだと知った。その認識を踏まえて、大日本帝国憲法がつくられた。

 ところが現行憲法は、その憲法のゆえんたる民族の価値観や伝統を全く踏まえていない。中国や韓国も憲法に自国の歴史や価値観を高々と書いているのに、日本の憲法にはそれがない。無味無臭で、いったいどこの国の憲法なのかと思うほどだ」(以下略)――。

 要するに桜井よしこは 自分が改正したいと思っている憲法は大日本帝国憲法と同じく、「民族の価値観や 伝統・歴史」を反映した内容でなければならないとしている。

 普段は中国や韓国を批判していながら、「中国や韓国も憲法に自国の歴史や価値観を高々と書いているのに、日本の憲法にはそれがない」と、憲法に関してのみ、中国と韓国のそれを評価するのはご都合主義であるばかりか、両国に対する批判は逆に「民族の価値観や伝統・歴史」を憲法に書き込んでもムダだと言っていることになることに気づいていない。

 つまり「民族の価値観や伝統・歴史」 の憲法への書き込みにも関わらず、それぞれの国家運営を有効たらしめていないと見ていることになるからだ。

 憲法とは国家権力の行動を憲法の条文に即して規制し、憲法の国民の権利に関わる基本的人権等の条文に即して国民の生存を守る、国家と国民の関係の契約書である。そしてこの契約はその国の現実世界に反映されて、初めて憲法は意味を持つ。

 いわば憲法の世界と現実世界はカガミの関係になければならない。

 だが、少なくとも中国に於いて、「民族の価値観や伝統・歴史」を書き込んだ国家と国民の関係を規定する憲法の世界は国民が生存する現実世界とカガミの関係を築いていると言えるのだろうか。

 中国の言論の自由や信条の自由を国家権力に基づいて規制し、国民を拘束する国家と国民の関係はとてもカガミの関係にあるとは思えない。

 「民族の価値観や伝統・歴史」と言うとき、その「価値観や伝統・歴史」 は“民族の血” そのものを意味する。民族の血として生きている価値観や伝統・歴史だと言うことである。

 当然、このような思想の持ち主にとって“民族の血”は自民族に特有な純粋性を備えていると見ていることになる。自分たちの価値観や伝統・歴史を自分たちに特有な純粋な民族の血としていなければ、国の憲法に反映させるべきだとか、民族の価値観や伝統を踏まえた憲法にすべきだといった言葉は出てこない。

 だが、如何なる国家に於いても、その建国以来今日まで純粋な状態で民族の血として生き続けている価値観や伝統・歴史などは存在するのだろうか。例えば対米戦争開始の決定自体は日本民族優越意識の思い上がりが発端となったことで、民族の血が深く関わっていたとしても、日米戦争という歴史自体は当時の大国同士の国際的な力学の影響を受けたものであり、敗戦という歴史にしても旧日本軍の戦略性のないことは民族性が深く関与していたとしても、アメリカが介在して決定した歴史そのもので、全て一つの民族がその民族観から発して決まっていく出来事ではない。

 そして価値観や伝統にしても、戦争とその敗戦といった歴史の大きな転換を受けて、何らかの変質を余儀なくさせられる。

 いわば民族の価値観にしても、民族の伝統にしても、民族の歴史にしても、何ら変わらないという意味での純粋性を維持したままの状態で一貫性を宿命づけられているわけではない。

 当然、自民族に特有とすることはできない。

 にも関わらず、「民族の価値観や伝統・歴史」を純粋性を持った一貫性ある、自民族に特有なものとして価値づけている。このようなものの象徴的例として、天皇の万世一系の系統を第一番にを掲げるだろうが、万世一系であることがどれ程に日本人の価値観や伝統・歴史に歴史的に一貫した状態で影響を与えただろうか。

 明治政府は天皇の系統が万世一系であることを以て天皇を大々的に権威づけて、その権威をバックに国民統治の装置とし、そのように国民を教育してきた。その教育の過程で天皇と国家に対する忠節だ、忠孝だ、奉仕だと、さも建国以来の純粋な価値観や伝統であるが如くに国民に吹き込んだ。

 だが、敗戦によって万世一系の思想に対する思い入れは、戦後の民主主義の時代になっても固く信じて抱え続けている日本人も少なからず存在するが、大多数の国民にとって大きく変わったはずだ。

 また天皇の系統を万世一系で括り、そこに純粋性や日本民族に特有な歴史を見ることは、例え他国に例のないことであっても、民族レベルの優越性を前提としていることになる。

 このことと同じく、「民族の価値観や伝統・歴史」に、現実には次のように価値づけることは不可能であるにも関わらず、自民族に特有な一貫性ある純粋性を持たせた価値づけを行った場合、そこに優越性を埋め込んでいることになる。

 いわば日本民族に特有にして純粋な状態で一貫性を抱えているものとして「民族の価値観や伝統・歴史」を前面に押し出したとき、日本民族の優越性を全面に押し出すことと変わりはない。

 それを憲法に書き込む。他民族に優越せる日本民族であることを憲法で暗に規定するということである。非常に危険な思想と言わざるを得ない。

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