――最大のマヤカシは河野談話は事実ではないが、内閣として継承するというマヤカシ――
安倍政権が2014年6月20日、河野談話の検証結果を、《慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯 ~河野談話作成からアジア女性基金まで~》と題して公表した。
以後、「検証報告」とする。
検証はあくまでも「河野談話」作成過程を限定としていて、「慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない」としている。
断っておくが、安倍政権が任命した5人の検討チームの検証結果であり、その報告である。5人の解釈と言うこともできる。その解釈を読んだ者がど う解釈するかである。
結論を先に言うと、要するに河野談話が認めた業者の慰安所設営への旧日本軍の関与にしても、慰安婦募集の際に用いた甘言、強圧等の強制的な募集への旧日本軍の関与にしても、歴史的事実ではなく、韓国政府が韓国世論を宥めるために日本政府に要請し、主としてその要請に基づいてお互いが調整し合って作り上げた取引き・妥協の産物であるが結論となっている。
「河野談話」作成のそもそもの発端を述べた「検証報告」の次の件 (くだり)が既にこのことを証明している。
〈1991年8月14日に韓国で元慰安婦が最初に名乗り出た後,同年12月6日には韓国の元慰安婦3名が東京地裁に提訴した。1992年1月に宮澤総理の訪韓が予定される中,韓国における慰安婦問題への関心及び対日批判の高まりを受け,日韓外交当局は同問題が総理訪韓の際に懸案化することを懸念していた。1991年12月以降,韓国側より複数の機会に,慰安婦問題が宮澤総理訪韓時に懸案化しないよう,日本側において事前に何らかの措置を講じることが望ましいとの考えが伝達された。また,韓国側は総理訪韓前に日本側が例えば官房長官談話のような形で何らかの立場表明を行うことも一案であるとの認識を示し,日本政府が申し訳なかったという姿勢を示し,これが両国間の摩擦要因とならないように配慮してほしいとして,総理訪韓前の同問題への対応を求めた。既に同年12月の時点で,日本側における内々の検討においても,「できれば総理より,日本軍の関与を事実上是認し,反省と遺憾の意の表明を行って頂く方が適当」であり,また,「単に口頭の謝罪だけでは韓国世論が治まらない可能性」があるとして,慰安婦のための慰霊碑建立といった象徴的な措置をとることが選択肢に挙がっていた。〉――
最初から妥協を出発点としていたということは、日本政府は韓国側や一部日本のマスコミが取り沙汰している従軍慰安婦に関わる残酷な事実を残酷な事実として最初から一切認めていなかったということになる。にも関わらず、相手の主張を部分的に認める取引きに応じた。
韓国側と調整が必要になった論点について、「検証報告」は次の3点を挙げている。
①慰安所の設置に関する軍の関与
②慰安婦募集の際の軍の関与
③慰安婦募集に際しての「強制性」
①については、「検証報告」は〈慰安所の設置に関する軍の関与について, 日本側が提示した軍当局の「意向」という表現に対して,韓国側は,「指示」との表現を求めてきたが,日本側は,慰安所の設置について,軍の「指 示」は確認できないとしてこれを受け入れず,「要望」との表現を提案した。〉となっている。
〈慰安所の設置について,軍の「指示」は確認できない〉としているが、戦時中、中曽根康弘元首相はボルネオ(現インドネシア)のバリクパパンに旧海軍の主計中尉として赴任、1978年発刊の自著『終りなき海軍 若い世代へ伝えたい残したい』(文化放送開発センター出版 部、)で、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と記していることは、少なくとも〈日本側が提示した軍当局の「意向」〉の範疇に入れることのできる慰安所設営であり、韓国側が求めた軍の「指示」の範疇に入れてもいい慰安所設営であることを物語っている。
探し出せば、中曽根康弘の例は他にもあるはずだ。
だが、「河野談話」は、日本側の提案通りの表現で、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたもの」となった。
ここにマヤカシを見ないわけにはいかないが、日韓双方共に歴史的事実に反して取引き・妥協した「河野談話」であるとする検証の構造は、「河野談話」作成過程の検証を限定として、「慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない」としているものの、逆に当時の日本政府の主張・考え方をある意味“歴史的事実”とした検証となっているということを示していて、この矛盾は、慰安婦問題の歴史的事実そのものの調査・検討を欠いていることから起きている矛盾でもあるはずだ。
そもそもからして検証が事実であるかどうかを確かめることを意味する以上、作成過程の検証であっても、検証材料としての何らかの事実が必要となるはずだが、慰安婦問題の歴史的事実そのものの調査・検討を回避し、排除したことから、当時の日本政府の主張・考え方を残された事実とする構造を取ったということなのだろう。
当時の日本政府の主張・考え方をある意味“歴史的事実”とした検証であることは、②の「慰安婦募集の際の軍の関与」の検証にも現れている。
〈慰安婦募集の際の軍の関与についても,韓国側は「軍又は軍の指示を受けた業者」がこれに当たったとの文言を提案し,募集を「軍」が行ったこと,及び業者に対しても軍の「指示」があったとの表現を求めてきたが,日本側は,募集は,軍ではなく,軍の意向を受けた業者が主としてこれを行ったことであるので,「軍」を募集の主体とすることは受け入れられない,また,業者に対する軍の「指示」は確認できないとして,軍の「要望」を受け た業者との表現を提案した。
これらに対し,韓国側は,慰安所の設置に関する軍の関与,及び,慰安婦の募集の際の軍の関与の双方について,改めて軍の「指図(さしず)」という 表現を求めてきたが,日本側は受け入れず,最終的には,設置については,軍当局の「要請」により設営された,募集については,軍の「要請」を受けた業者がこれに当たった,との表現で決着をみた。〉――
この検証も当時の日本政府の主張・考え方を歴史的事実と見做して、そのことへの妥協という観点に立っている。
何度か当ブログに取り上げているが、《日本軍と業者一体徴集・慰安婦派遣・中国に公文書》》(朝日新聞朝刊/1993年3月30日)は異なる歴史的事実を伝えている。
1944年日本軍天津防衛司令部が天津特別市政府警察局に〈軍人慰労のため「妓女」を150人出す〉よう 〈1944年5月30日〉に通知、天津特別市政府警察局は 公娼業者の集りである〈「天津特別市楽戸連合会」を招集し、勧誘させた〉ところ、<229人が「自発的に応募」して性病検査を受けたが、12人が塀を乗り越えて逃げ出〉す「自発的」状況を曝した。〈残った86人が 「慰安婦」として選ばれ、防衛指令部の曹長が兵士10人とともにトラック4台で迎えに来た〉が、〈86人のうち半数の42人も逃亡した〉という歴史的事実が1944年から45年にかけて日本軍の完全な支配下にあった天津特別市政府警察局作成の約400枚の報告書の中に残されているという。
記事題名は「日本軍と業者一体徴集」となっているが、共同で行った「一体徴集」ではなく、日本軍が業者に働きかけた「徴集」であり、それも日本軍が軍隊として持っていた暗黙の強制性・威嚇性を利用した募集であることは逃亡慰安婦が出現したことが証明していることであって、当時の日本政府が主張・考え方として持っていた歴史的事実とは異なる。
だが、検討チームは当時の日本政府が主張・考え方としていた歴史的事実に寄り添うことから一歩も出ていないために「河野談話」の信用性を崩す方向の検証を專らとすることとなった。
「河野談話」は「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」という表現となったが、このことは③の「慰安婦募集に際しての『強制性』」にも関係するため、そのところで述べることにする。
③の「慰安婦募集に際しての『強制性』」――
「検証報告」 は、1993年〈3月中旬に行われた日韓の事務方の協議において,日本側は,①慰安婦問題の早期解決,②韓国政府による世論対策の要請,③前出の大統領発言(1993 年2月赴任の金泳三韓国大統領の発言、「日本政府に物質的補償を要求しない方針であり,補償は来年から韓国政府の予算で行う。そのようにすることで道徳的優位性をもって新しい日韓関係にアプローチすることができるだろう」のこと。)を 受けての韓国政府の方針と日本による措置に対する韓国側の考え方の確認等を軸とする対処方針で協議に臨んだ。この対処方針の中で日本側は,「真相究明の落とし所として,日本政府として『強制性』に関する一定の認識を示す用意があることを具体的に打診〉したものの、〈同年4月下旬に行われた日韓の事務方のやりとりにおいて,韓国側は,仮に日本側発表の中で「一部に強制性があった」というような限定的表現が使われれば大騒ぎとなるであろうと述べた。これに対し,日本側は,「強制性」に関し,これまでの国内における調査結果 あり,歴史的事実を曲げた結論を出すことはできないと応答した。また,同協議の結果の報告を受けた石原官房副長官より,慰安婦全体について「強制性」があったとは絶対に言えないとの発言があった。〉 としている。
要するに韓国政府の国内世論対策の要請を考慮して、「真相究明の落とし所として」、「強制性」 に関する一定の認識を示す用意があることを打診したが、韓国側から、「一部に強制性があった」とする限定的表現では国内世論が納得しないと応答。対して日本は強制性に関する資料が見つかっていない以上(資料が見つかっていないとしているのは、「これまでの国内における調査結果もあり,歴史的事実を曲げた結論を出すことはできない」の発言が表している。)、「歴史的事実を曲げた結論を出すことはできないと応答」。さらに石原官房副長官が慰安婦全体について「強制性」があったとは絶対に言えないと発言したことが意味する歴史的事実を事実として採用して、妥協が強いることになった歴史的事実に反した「河野談話」であるとする文脈の検証となった。
明らかにこの検証の構造自体にしても、当時の日本政府の主張・考え方を歴史的事実と前提したものとなっている。
日本側は強制性はないを歴史的事実としながらも、妥協の結果として「河野談話」は、既に触れたように「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められ た事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」という表現となった。
この表現自体が意味するところは、強制性があったとしても、主として業者がやったことで、業者に官憲が加担したケースもあったということである。この意味の裏を返すと、官憲が独断・主体的に強制を働いたことはないということになる。
だが、日本軍占領下のインドネシアでオランダ民間人収容所に日本軍の軍用トラックで乗り付け、未成年者を含むオランダ人女性を複数拉致し、慰安所に閉じ込めた上に強姦して慰安婦に仕立てた事実は日本軍が独断・主体的に行った強制連行であるはずである。
また、同じインドネシアで現地人未成年女子を含む若い女性を日本の軍人が同じくトラックで乗り付けたりして略取・誘拐し、慰安婦に仕立てているし、日本軍が日本やその他の国への留学話で未成年の女性を集め、強姦の洗礼を浴びせて慰安婦として扱うこともした事実にしても、日本軍が独断・主体的に行った強制連行であるはずである。
このことを裏付ける日本軍の資料は確かに存在しない。だが、オランダ人女性強制連行は戦後現地で開廷オランダ軍によるバタビア臨時軍法会議の裁判記録に残されているし、オランダ人女性やインドネシア人女性の証言も残されている。
「検証報告」にアジア女性基金を使った金銭補償を韓国、台湾、オランダ、フィリピンに対して行っている。インドネシアの場合、同国政府が個人支給を認めなかったので、高齢者福祉施設を建設したということだが、フィリピンの慰安婦をネットで調べてみると、岩波書店がフィリピン元従軍慰安婦が著した『ある日本軍「慰安婦」の回想 フィリピン現代史を生きて』を出版しているのを知った。
この書物は「夢多き少女時代,抗日ゲリラへの参加,そして性的奴隷としての地獄のような日々…….「生きている間に語りたい」と1992年, フィリピンで初めて名乗り出た元「慰安婦」が日本人に向けてつづる,波乱に満ちた過去」と紹介されていた。
この「性的奴隷」という言葉自体が既に強制連行の事実を意味しているが、「Wikipedia」 記載の彼女の証言、「道路を歩いていて、日本軍に略奪され、監禁、強姦される」、「行列をつくった兵隊たちが幼い私(14歳)を後から後からレイプするのです」の言葉は強制連行以外の何ものでもないことを物語っている。
これらの食い違いは検討チームの検証の全てが当時の日本政府の主張・考え方を歴史的事実と見做して、そのことを前提とした立場からの検証となっているからこその食い違いであろう。
「河野談話」作成過程検証は「河野談話」が当時の日韓両政府の妥協・取引きの産物であることを暴露して、その信用性を完膚なきまでに突き崩すことに成功した。
だが、当時の日本政府の主張・考え方を歴史的事実とするマヤカシに始まって、いくつかのマヤカシを存在させている。
最大のマヤカシは「河野談話」検証によって談話が描いている事実は歴史的事実に反していることが判明したが、安倍内閣として継承していくというマヤカシであろう。
6月20日午後の記者会見。
菅官房長官「河野談話の見直しはせず、これを継承するという政府の立場は変わらない」(asahi.com)
「河野談話」で行ったのと同じマヤカシの取引き・妥協を今回も行やらかそうとしている。
このようにできる理由は当時の日本政府の主張・考え方を歴史的事実として現在の安倍内閣も引き継いでいるからに他ならない。