父親の子ども放置死白骨化7年余事件に見る他人の子供の生命(いのち)に対する職務上の希薄な想像力

2014-06-15 06:55:21 | Weblog



 5月30日、神奈川県厚木市のアパートの部屋で死後7年以上経過したと見られる白骨化した子どもの遺体が見つかった。2006年から2007年にかけて当時5歳だった男の子に食事などを十分に与えずに育児放棄の末に衰弱させ、死亡させたとして、翌5月31日、保護責任者遺棄致死の疑いで父親が逮捕された。

 父親は子どもを死なせたアパートを遺体を置き去りにして借りたまま、別のアパートで暮らし始めた。子どもの遺体が発見されないようにしたのだろう。

 父親「妻が家を出て自分も家に戻らないことが多くなった。8年前の平成18年秋ごろに家に戻ると息子が死んでいたので怖くなって家を出た。息子が外に出ると困るので、部屋に閉じ込めていた」

 警察の取り調べに対してこのように供述したと「NHK NEWS WEB」が伝えていた。

 子どもを死なせた一番の原因の父親も父親だが、厚木市や教育委員会、児童相談所の対応も対応である。彼らにとって大勢の子どもたちは名前だけの存在に過ぎないために定期健診や保育・幼稚園入園、小・中・高入学等々、その時々に於いて機会的な事務処理の対象で終わらせてしまっても無理もないことだが、この成長過程から落ちこぼれた子どもが生じた場合、あるいは落ちこぼれの疑いが生じた場合、名前だけの存在ではなくなり、 少なからず子どもの成長を見守る責任を持つことになるばかりか、時には過去の例からその責任が子どもの生命(いのち)に関係していく重大なケー スもあり得ることを学習していなければならないはずで、当然、子どもの生命(いのち)に対する想像力を鋭くしなければならないはずだが、過去の例を繰返すことになった今回の例を見ても、そういった責任、あるいは子どもの生命(いのち)に対する想像力を感じることさえできない。

 次の記事が7年以上も子供の遺体を放置することになった行政の対応を詳しく伝えている。《子ども放置死 なぜ気付けなかったのか》NHK NEWS WEB/2014年5月31日 19時49分)

 先ず厚木市の教育委員会の対応。

 6年前(2008 年)、男子は小学校入学予定のため、前の年の2007年に自宅に入学案内を送付。だが、入学しなかった。様々な特異な前例がある以上、この時点で、当たり前の成長過程からの落ちこぼれを疑う危機管理意識を働かせなければならなかったはずだ。少なくとも落ちこぼれていないかどうかを、あるいは落ちこぼれることはないかどうかを確認する責任は生じたはずだ。

 いわば教育委員会にとって男子は名前だけの存在ではなくなり、名前の背後にある子どもの成長、あるいはその生命(いのち)を見守るための想像力を働かせなければならなかった。

 〈教育委員会では、家庭訪問をするなどして男の子の所在を確認しようとし〉たが、〈住民登録があるアパートで暮らしている様子が見られなかったことから、 既に転居したと判断し、およそ1年後、地元の小学校に通う資格を抹消し、確認のための作業を打ち切った〉。――

 何を以て転居と判断したのだろう。厚木市役所の市民課、あるいは戸籍住民課といった部署に問い合わせたのだろうか。本来なら、転居先と、転居先の小学校に子どもが確かに入学しているかどうかまで確認しなければならなかったにも関わらず、そこまでは確認しなかった。

 男子が中学校入学の年齢に達したとき、教育委員会は不思議な行動に出る。

 転居したと判断して地元の小学校に通う資格を抹消しておきながら、教育委員会は昨年(2013年)12月、再び男子の所在を確認することにして、男子の父親から話を聞いた。なぜなのだろう。

 父親「子どもは生きている」

 記事は父親がこのように説明したとしか記していない。

 本当に教育委員会は父親に会って、話を聞いたのだろうか。なぜなら、父親の「子どもは生きている」という説明自体が余りにも奇異だからだ。教育委員会が「子どもは死んでいるのか、生きているのか」と尋ねたのだとしたら、父親の返事は奇異でも何でもなくなるが、教育委員会がそんな尋ね方をしたとしたら、子どもが死んでいるのか、生きているのか疑っていたことになって、その疑いを前提に質問すること自体が今度は奇異ということになる。

 そういった質問をしなかったにも関わらず、父親がそう答えたとしか解釈することはできない。

 父親の立場からしたら、「子もは生きている」という言葉は死んでいないという言葉を裏側に置いた説明となる。実際に父親がこのような言葉を使ったとしたら、少なくとも教育委員会はなぜんこんな説明をするのだろうかと疑うだけの想像力を働かせなければなかった。

 当然、生きているなら、教育委員会は男子がどこの小学校に通っているのかということも尋ねなければならなかったはずだが、記事は教育委員会が父親にどこの小学校に通っているのか尋ねたのか、尋ねなかったのか、教育委員会としたら、父親がどのような説明をしようとも尋ねなければならな かった質問でありながら、何も書いていない。

 尋ねたとは記事が書いていないことと、教育委員会が言っている父親の「子どもは生きている」という言葉の奇妙さから、実際は教育委員会は父親に会ってはいなかった疑いが出てくる。

「子どもは生きている」という教育委員会の説明は白骨遺体が発見されたことから、子どもの所在確認の不備を隠す責任逃れから生存していたと受け止めていた証拠とすべく、いわば死んでいたことなど露知らなかったとする証拠とすべく創作した父親の説明ということではないだろうか。

 5月3日の記者会見。

 宮崎昌彦学校教育部長「子どもが東京にいるという父親の説明を信じて、 警察に届けるなどの対応を取らなかった。今になってみれば、小学校に入学しなかったときに本人や保護者に会って確認するなど、きめ細かな対応をすべきだったと反省している」 ――

 男子は大勢いる名前だけの存在としての対応を受けたに過ぎなかった。 名前の背後にある子どもの成長、あるいはその生命(いのち)を見守るための想像力を働かせなければならない対象としての扱いを受けることはなかった。

 次に厚木市の対応。

 父親「子どもは妻と一緒に東京のどこか知らないところに住んでいる」――

 記事解説。〈市はこの説明を信用し、男の子の住民票を抹消していたということです。〉――

 宮崎昌彦学校教育部長の「子どもが東京にいるという父親の説明を信じて」という言葉は市が受けた説明なのか、教育委員会が受けた説明なのか、後者が受けて、市に報告して、市が住民票を抹消したのか、いずれなのか不明だが、少なくとも市 (住民課、あるいは市民課)と教育委員会は連携していたことになる。

 市にしても教育委員会にしても、子どもの所在を確認するために父親と面会していながら、過去の様々な事件例を参考とする想像力を働かせず、男子を単なる機会的事務処理の対象とするだけの想像力しか働かせなかった。
 
 児童相談所の対応。

 児童相談所は10年前の2004年、はだしで外を歩いていた男子を保護。虐待の痕跡が見られなかったことなどから迷子と判断、母親に引き渡しただけで、それ以上の対応は取らなかった。

 2008年に小学校入学予定だったから、2004年は2歳前後ということになる。但し2008年秋に男子が小学校に入学していなかったこと知って、職員が家庭訪問するなどして所在を確認しようとしたが、本人や親にも会うことができなかった。

その後も年に数回は訪問を続けていたが、やはり所在は確認できなかった。

 そして、〈この春、中学校にも入学しなかったことから、今月22日に警察に捜索を要請した。〉――

 以上はあくまでも児童相談所の説明である。

 教育委員会は男子が2008年に小学校入学予定であったために2007年に自宅に入学案内を送付。だが、入学が確認できなかったために家庭訪問などを通じて男子の所在確認を行ったが、確認できなかったために既に転居したと判断して、約1年後、地元の小学校に通う資格を抹消し、確認のための作業を打ち切った。

 いわば2009年には小学校入学資格を抹消した。

 だが、児童相談所は教育委員会が転居したと判断した男子を2008年以降も年に数回は訪問を続けた。

 児童相談所は教育委員会と連携を取っていなかったことになる。過去の例として児童相談所の対応の悪さから、少なくない児童を死なせてしまっているにも関わらず、子供の生命(いのち)に対してそれ相応の想像力を働かすことができなかった。

 但し児童相談所は学校に聞いたのか、教育委員会に聞いたのか、男子が今年の春、中学校に入学していなかったことを知って、警察に届け出た。

 10年前の2004年にはだしで外を歩いていた男子を保護。2008年秋に男子が小学校に入学していなかったこと知る。今年の春、男子が中学校にも入学していなかったことを知る。

 このような経緯のどこか途中で男子が成長過程から落ちこぼれているのではないのかと、子どもの成長を見守る想像力、あるいは子どもの生命(いのち)を見守る想像力を働かせるべきだったが、大勢いる名前だけの存在のまま、結果として機会的な事務処理で事を済ませていた。

 井上保男厚木児童相談所所長「結果的に男の子が亡くなってしまったことは、大変申し訳なく思っている。もう少し早く対処できれば、救うことができたかもしれない。当時は、所在不明の児童に対するリスクの捉え方が甘かったと反省している」――

 「所在不明の児童に対するリスクの捉え方が甘かった」で済ませている。自分の子供には過剰なくらいにちょっとしたことにも危険なサインを感じ取る想像力を持ちながら、他人の子供、その他大勢に対しては、彼らを預かる身でありながら、その中から危険を感じ取らなければならないケースが生じたとしても、そのアンテナは何ら反応せず、その成長や生命(いのち)を見守る想像力を鋭くすることもなかった。

 すべての原因は他人の子供の生命(いのち)に持つべき職務上の想像力の問題だと気づくべきである。

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