ベトナム国籍小学3年少女殺害:学校は不審者情報を常日頃から児童に求めていたのだろうか

2017-04-03 10:52:45 | 教育
       ――犯罪や自然災害で生命(いのち)を早くに失った子どもたちの魂の生まれ変わりがこのような姿を取るとしたら、少しは慰めになるだろうか――
                    
                          

 千葉県松戸市に住むベトナム国籍の小学3年少女(9歳)が2017年3月24日午前8時頃に終業式のため自宅を出た後の通学途中に行方が分からなくなり、3月26日朝、同県我孫子市の排水路脇で遺体で見つかった。

 2017年3月27日付「時事ドットコム」記事が少女が通う小学校の校長と教頭の記者会見での発言を伝えている。   

 古庄誠校長「元気が良い子だった。ショックを受けている。誠に残念。将来ある命が奪われ、とても悔しい」

 三戸貴生教頭「おしゃべりが好きで、係活動を友達と協力してやっていた。学校が好きな子でした」

 生命(いのち)を暴力的に奪われて、もはや還ってこない、そこに居なくなったばかりの存在に対してなかなか適当な言葉が見つからないのだろう、このような場合によく聞くありふれた言葉となっている。

 親は突然のことで悲しみの感情のみに支配されて、永遠に姿を見せることがなくなった存在というものに対する不確かさ、その虚しさに襲われるのは後になってのことだと思うが、学校教育者の場合は成長のあるべき予定調和を突然断たれた存在の不確かさ、その虚しさを募らせることになると思うが、通学途中のことだから、親に劣らずに防ぐ手立てはなかっただろうかと思い巡らせているのだろうか。

 生命(いのち)を奪われてから、生きて在ったときの良い点を述べることは予定に入れているはずはなく、生きて在り続ける姿を見守ることが学校教育者の務めとしなければならないはずだからだ。

 殺害された少女は同級生の友達に2月に「1か月ほど前の今年1月頃、通学路で不審者にあった。怖かった」という趣旨の話をしていたと2017年3月28日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 不審者を目撃して以降、少女は不審者に出会った場所を走って通り抜けるようにしていると同級生に話していたという。

 少女はこの情報を親に話していたのだろうか。もし親が聞いていたなら、その情報を学校に伝えていたのだろうか。

 学校はそのような情報を入手していたなら、万が一を考えて警察に対しても情報の共有を願い出たのだろうか。

 更には他の保護者全体にその情報を共有させて、警戒するように伝えたのだろうか。

 どの報道からも、親や学校や警察がこの不審者情報を共有していたとも共有していなかったとも伝えていないところを見ると、親も学校も警察も情報を共有するまでに至っていなかったようだ。

 ましてや他の保護者までが共有するところまではいっていなかったのだろう。

 少女は母親が日本で外国人として暮らすベトナム人ということで心配かけまいとして伝えなかったのかもしれない。

 少女は不審者に出会った場所を走って通り抜けるようにしていながら、その情報を自分の胸にだけしまっておいたのだろうか。

 だとしても、学校は学校内外でのイジメがなくならない状況や不審者による連れ去りが度々発生している状況から、常日頃からイジメや不審者に関する情報を児童に対して教師の方から求めるようにしていなければならないはずだ。

 情報を求め、情報を共有することによって児童に対してはイジメに関してはその抑止の用を果たすことを期待し、不審者に関しては警戒心を高めることが期待できると同時に連れ去りの防止に繋がっていく可能性は否定できない。

 少女は防犯ブザーをランドセルに紐で吊るしていたが、使われた形跡はなかったという。

 現在、殆どの小学校が防犯ブザーを全児童に支給しているようだが、もし学校で支給していた防犯ブザーなら、不審者による連れ去りに対する警戒はしていたことになる。

 児童個人が購入していたなら、学校自体は警戒していなかったことになる。

 警戒していなかったにも関わらずに犯罪に遭遇して亡くなった後に、「元気が良い子だった。ショックを受けている。誠に残念。将来ある命が奪われ、とても悔しい」などと言うのは虚し過ぎる。

 多分、不審者による連れ去りが跡を絶たないことに対する警戒心から、多くの小学校がそうしているように学校が支給した防犯ブザーなのだろう。

 だが、支給で終わらせていたなら、あるいは支給して所持させていたなら大丈夫だと、そこまでのところで安住していたなら、学校側は支給しました、所持させましたで終わっていることになる。児童の側は学校から支給を受けて、所持してますで終わってしまう。

 いわば日常の風景と化してしまう。

 確かに親も児童も何か不審な出来事に遭遇した場合は、それが最悪の事態を迎えない内に学校に知らせて、学校に対して情報を共有させるべきだし、学校にしても万が一を考えて警察に情報を共有させ、さらに保護者全体に知らせて、共に情報を共有状態に持っていくべきだろう。

 変質者は狙いをつけた児童が狙い通りにいかなかった場合は狙いを別の児童に変えることもあるだろうから、保護者全体に知らせなければならない。

 だが、学校は親や児童からの情報共有の働きがあってから、その共有に加わるだけはなく、教師の方から常日頃から情報共有の働きかけを行って、それを学校全体の共有とし、さらにその情報の共有を警察や保護者全体に広げて万が一の被害に警戒しなければならない。

 でなければ、子どもの生命(いのち)を預かる教育機関としての役目を放棄していることになる。

 その責任も果たさずに亡くなったことを既成事実として「元気が良い子だった」とか、「学校が好きな子でした」などと言うことは許されないはずだ。

 殺害を不可抗力としてはいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする