天皇主義的国家主義者安倍晋三が4月26日、憲政記念館で開催の日本国憲法施行70周年記念式典に出席、挨拶した。
「首相官邸」(2017年4月26日) 安倍晋三「本日ここに、日本国憲法施行70周年記念式が挙行されるに当たり、内閣総理大臣として一言お祝いの言葉を申し上げます。 終戦後間もなく日本国憲法が施行され、70年の歳月が流れました。この間、我が国はこの憲法の下で戦後の廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、先人たちのたゆまぬ努力により、平和で豊かな国をつくり上げ、世界の平和と繁栄にたゆまぬ貢献を重ねてまいりました。 私たちはこの歩みに静かな誇りを抱きながら、次の70年に向かおうとしています。改めて先人たちの御苦労に感謝を申し上げるとともに、国会が国権の最高機関として憲政の確立と発展に御尽力されてきたことに敬意を表したいと存じます。 この70年間で国内外の状況情勢は大きく変化しました。急速な少子高齢化と人口減少社会の到来、バブル崩壊後20年近く続いたデフレによる経済の停滞、冷戦の終焉と北朝鮮による核・ミサイル開発を始め我が国を取り巻く安全保障環境の悪化。今を生きる私たちも、先人に倣いこうした困難な課題に真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。誰もが生きがいをもってその能力を存分に発揮できる社会、国民が安心して暮らせる豊かで平和な社会をつくり上げていく。節目の年に当たり、この決意を新たにしております。 憲法は国の未来、そして理想の姿を語るものです。今を生きる私たちには時代の節目にあって、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の基本原則の普遍的価値を深く心に刻みながら、新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている。それが時代の要請なのではないかと思います。そうした精神が日本の未来を切り拓いていくことにつながっていくものと考えます。 本日の式典が、国民一人一人が日本国憲法の基本原則の普遍的価値、そして我が国の未来に思いを致す機会となることを期待するとともに、国会が国権の最高機関として憲政の更なる発展に尽くされることを切に願い、私の祝辞といたします」 |
戦後70年の歳月の間「我が国はこの憲法の下で戦後の廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、先人たちのたゆまぬ努力により、平和で豊かな国をつくり上げ、世界の平和と繁栄にたゆまぬ貢献を重ねてまいりました」と言っているが、日本という国だけで、あるいは日本人だけで立ち上がり、平和で豊かな国をつくり上げてきたわけではない。
アメリカを主とする戦勝国の支援と朝鮮戦争特需という僥倖がなければ、満足に立ち上がることはできなかったし、立ち上がる時期も相当に遅れたはずだ。
1950年6月25日開戦、1953年7月27日休戦までの朝鮮戦争の間の在朝鮮米軍、在日米軍から日本に発注された物資やサービス等の1950年~1952年までの3年間に生じた直接特需は10億ドルに達し、在日国連軍、外国の関連機関による1950年~1955年までの間接特需は36億ドル(Wikipedia)に達したと言われていて、当時は1ドル=360円の固定相場制下にあり、直接特需は3600億円、間接特需は1兆2960億円もの濡れ手に粟の利益が転がり込んできた。
朝鮮特需が後の高度経済成長の基盤になったと言われているのだから、もし朝鮮特需という僥倖に恵まれなかったなら、カネがないために技術を新しくする、あるいは新しい技術を開発する挑戦の機会を手に入れることができない悪循環に暫くの間陥ることになって、日本の技術革新の時代は実際の時期よりもかなり遅れて迎えることになったろう。
それぞれの国の支援があったからこそ、平和で豊かな国をつくり上げることができた。
また、安倍晋三は「戦後の廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がることができた」のも「先人たちのたゆまぬ努力」であり、「平和で豊かな国をつくり上げ、世界の平和と繁栄にたゆまぬ貢献を重ねてきた」のも、「先人たちのたゆまぬ努力」だと言い、先人が戦後の困難な課題に真正面から立ち向かったように現在の「急速な少子高齢化と人口減少社会」や「バブル崩壊後20年近く続いたデフレによる経済の停滞、冷戦の終焉と北朝鮮による核・ミサイル開発を始め我が国を取り巻く安全保障環境の悪化」に「今を生きる私たちも、先人に倣いこうした困難な課題に真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません」と言って、現在の日本の国があることについての先人たちの貢献を最大限に評価している。
但し「先人」という言葉は「昔の人、前人、古人、亡父、または祖先」を指す。と言うことは、安倍晋三が口にしている「先人」は戦後に生き残った日本人の大人を指していることになる。
だが、戦後の日本を築いたのは戦後に生き残った日本人の大人だけではなく、同じく戦後に生き残って大人となった日本人、そして戦後に生まれて大人に成長していった日本人等も戦後の日本を築くのに力があったはずだから、戦後のその時々の時代を現在進行形で生きた日本人をも「先人」に加えなければならないはずだ。
いわば「先人」を昔の人ではなく、今より前の人という意味を持たせるべきだろう。
そうしないと、戦後に生き残った日本人の大人だけを優秀であったかのような、復古主義者で戦前回帰を志向している安倍晋三はそうしたいだろうが、過った優越主義で彩ることになる。
しかも安倍晋三は先人の中に戦没者まで含めている。第2次安倍政権1年を期して靖国神社を参拝、《談話》を首相官邸サイトに発表している。
安倍晋三「今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります」――
戦後に生き残った日本人の大人たちが戦死者のために頑張ろうと誓ったとしても、それは単なる動機づけであって、実際に働いたのは生きて在った日本人である。
安倍晋三は憲法について次のように話している。
「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るものです。今を生きる私たちには時代の節目にあって、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の基本原則の普遍的価値を深く心に刻みながら、新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている。それが時代の要請なのではないかと思います。そうした精神が日本の未来を切り拓いていくことにつながっていくものと考えます」
憲法はその時代の国家権力と国民個人の理想的な在り様、その関係をルールづける国家の最高法規である。
戦前の日本は天皇に独裁権力を与え、国民個人の基本的人権を制約することを国家権力と国民個人の理想的な在り様とし、その関係をルールづけた憲法を制定していた。
戦後になって、個人の権利を全面的に保障し、その一方で国家が恣意的な権力の行使によって個人の権利を侵さないよう、その力を制約することを理想とする、憲法本来の姿を取ることになった。
当然、国家権力と国民個人のどのような関係を以て理想とするかが問題となる。
戦前の日本国家を理想の国家像とする戦前志向の安倍晋三は2013年4月27日の《産経新聞のインタビュー》で戦後憲法を忌避する発言をしている。
安倍晋三「憲法を戦後、新しい時代を切り開くために自分たちでつくったというのは幻想だ。昭和21年に連合国軍総司令部(GHQ)の憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物だ」
安倍晋三の日本国憲法に対する改正志向はこの心情を出発点としている。
例え憲法が「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るもの」であったとしても、あるいは「新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められる」としても、安倍晋三が新しい時代の国家権力と国民個人の在り様、その関係をどう理想づけているかが問われることになる。
例えば「日本のこころ」の憲法改正案は国民主権を規定づけているが、「天皇は日本国の元首であり、常に国民と共にある」と天皇の地位を規定している。天皇が「常に国民とともにある」ということの天皇に対する義務付けは“国民は常に天皇とともにある”ことの義務付けでもあって、国民主権でありながら、その相互性によって天皇を国民の上に置いた存在としている。
そしてこの天皇は当然、国家権力側に位置づけていることになる。
いわば国民主権と言いながら、国家と国民を上下の関係に置く仕掛けがそれとなく施してある。
「日本のこころ」にとってこのような憲法改正案が新しい時代の国家権力と国民個人の在り様、その関係として理想の形ということなのだろう。
自民党の憲法改正案を見てみる。
現日本国憲法の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」としている「第1章天皇 第1条」に対して自民党憲法改正案の「第1章天皇 第1条」は「第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定、「日本のこころ」と同じく天皇を元首としている。
但し自民党憲法改正案は「前文」で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と規定、だが、「戴(いただ)く」という表現で天皇を日本国家の上に置いている。
「戴く」という言葉はそれが地位上の存在に対して言うとき、「崇め(あが)仕える」という意味になるからだ。
自民党憲法草案にしても「日本のこころ」と同様に国民主権と言いながら、天皇と国民を上下の関係に置く仕掛けを施している。
このような国家と国民の関係を天皇主義者としての、あるいは国家主義者としての安倍晋三が「新しい時代の理想の姿」と思い定めていたとしても、時代が許さないために憲法にあからさまに塗り込めることはできないだろうが、そのような関係に近づけたい仕掛けは既に自民党憲法改正案に巧妙に貼り付けてある。
このような憲法の理想から出発た場合、個人の権利を全面的に保障し、その一方で国家が恣意的な権力の行使によって個人の権利を侵さないよう、その力を制約する憲法本来の使命を剥ぎ取って、国家の権力をより強め、逆に個人の権利を制約することを「新しい時代の理想」とする憲法に行き着かない保証はない。
安倍晋三が「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るもの」だからと言い、「時代の要請」として憲法に「新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている」と言ったからといって、「理想」という言葉に騙されてはいけない。
以上見てきたように政治権力者によって憲法に思い描く「理想」はそれぞれに異なるからなのは断るまでもない。
また、政治権力者が憲法に思い描く「新しい時代の理想」は憲法の条文を変えなくても、必ずしも実現させることができないわけではない。憲法で言論の自由や報道の自由を謳いながら、様々な政治の力を使って言論や報道に制約を加えることもできるからであり、実際にも安倍政権は既にそういったことをしてきた。
と言うことは、安倍晋三が憲法に思い描く「新しい時代の理想」がどのような内容なのかを知るためには、安倍晋三自身の政治的主義・主張を見れば自ずと窺い知ることができる。
但しその「理想」を憲法に反映させるとしても、民主主義の現代に於いては許さる限度が自民党憲法草案に現れている「国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家」までといった国家と国民の関係ということであるはずだ。