多分、2017年3月8日の参院予算委員で社民党の福島みずほが防衛相稲田朋美の過去の教育勅語賛美の発言を取り上げて、現在もその思いに変わりはないのかと問い質したのに対して稲田朋美が「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分は今も大切なものとして維持していて、そこに流れているところの核の部分、そこは取り戻すべきだというふうに考えている」と答弁したことが始まりだと思うが、この答弁に対する否定的見解は主に野党、肯定的見解は主に自民党で持ち上がって、文科相の松野博一が3月14日の記者会見で、「日本国憲法と教育基本法の制定によって法制上の効力を喪失ししているが、憲法や教育基本法に反しないように配慮して授業に活用することは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものであり、教師に一定の裁量が認められる」として、文科省としてはこのような形式での学校教育に於ける教育勅語の使用を禁止しない姿勢を示した。
安倍内閣としても2017年3f月21日の民進党衆院議員初鹿明博の質問主意書に答えた3月31日の政府答弁書で「学校において、教育に関する勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であると考えているが、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」と、「憲法や教育基本法等に反しない」との条件付きで教育勅語の利用を肯定している。
果たして教育勅語の精神自体が憲法や教育基本法等に反していないと言えるのだろうか。
教育勅語を肯定する、特に安倍晋三等の右翼に属する勢力は教育勅語が表している道徳観は人類普遍の価値観だとして今の日本に巧妙に生き返らえようとしている。
このような考えは上記政府答弁書を受けた官房長官菅義偉の4月3日午前と午後の記者会見の発言に現れている。
午前の記者会見。
菅義偉「教育勅語には、親を大切にするとか、兄弟姉妹が仲よくするなどの項目もあることも事実で、憲法や教育基本法に反しないような適切な配慮のもとで取り扱うことまで否定することはない。
教育勅語は、日本国憲法や教育基本法の制定等をもって、法制上の効力は喪失している。したがって学校で教育勅語がわが国の唯一の根本となるような指導を行うことは不適切だ」
記者「今回の閣議決定で教育勅語を教育現場で使うことにお墨付きを与えるのではないか」
菅義偉「教育基本法の制定によって政治的、法的効力を失った経緯がある。ご指摘のような懸念は生じない」(NHK NEWS WEB/2017年4月3日 12時49分)
午後の記者会見。
菅義偉「戦後の諸改革の中で、教育勅語を教育の唯一の根本として取り扱うことなどが禁止されている。その後の教育基本法の制定により、政治的・法的効力は失っており、それは今も同様だ。
憲法や教育基本法に反しないような適切な配慮の下で、親を大切にする、兄弟姉妹は仲よくする、友達はお互いに信じ合うなど、ある意味で人類普遍のことまで否定はすべきではない」(NHK NEWS WEB/2017年4月3日 18時43分)
確かに教育勅語には「親を大切にするとか、兄弟姉妹が仲よくする」などの「人類普遍」の徳目が書き連ねられている。
だが、教育勅語は戦前日本に於ける天皇独裁体制下の教育の指導原理としての役目を担っていた。当然、天皇独裁体制に国民を取り込む目的を持たせた教育の理念であり、徳目と見なければならない。
そして教育勅語がそういった全体的構造を抱えている以上、「親を大切にするとか、兄弟姉妹が仲よくする」等々は天皇独裁体制に一体化させて生かしてきた道徳観であって、全体的構造を無視し、その道徳観だけを見て、いわば天皇独裁体制から切り離して「人類普遍」の価値観を有しているとすることは許されないはずだ。
改めて教育勅語の全文をここに挙げてみるが、その前に戦前日本に於ける天皇と国民の関係性を1937年(昭和12年)編纂の「国体の本義」から見てみる。
「国体」とは天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方を意味し、「本義」とは「根本となる、最も大切な意義」とネットで紹介されている。
いわば戦前日本の天皇独裁という国家体制の根本的意義を説いた書物ということになる。
〈我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふのである。〉――
先ず、「孝」(父母に仕えて大切にすること)は「国体」、いわば天皇独裁の国家体制に「合致」させなければならないとの表現で、父母に仕えるように国家(=天皇)に仕えなさいと国民に国家体制への従属を求めている。
ここにある国家(=天皇)と国民の関係性は明らかに国家(=天皇)を上に置いて、国民を下に置く上下関係以外の何ものでもない。
このような上下関係は国家の意志が常に優先されて、国民は個人として自律した存在であることを許されない。
この天皇(=国家)と国民の上下関係、下に位置する国民の非自律性は次の文言に凝縮されている。
「我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家(本家。中心になる家)」に相当し、「国家生活の中心」であって、「臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛(いと)しみ給ふ」との言い方で、国民は祖先を敬慕するように本家に当たる皇室を崇敬し、その見返りに天皇は国民を自らの赤子(生まれてまもない子。君主に対して人民をその子に譬えて言う語)と見做してかわいく思って大事にしてあげよう(=愛しみ給う)と、上下関係を前提とした下の上に対する奉仕と、奉仕の対価として上の下に対する庇護を日本の国の形(=国体)と規定している。
戦前の日本では天皇(=国家)と国民はこのようにも上下関係にあった。当然、教育勅語にもこのような関係性が反映されていて、この関係性に基づいた道徳観と見なければならないし、基づかない道徳観としたら、歴史的事実として存在した戦前日本国家の国体(天皇中心の国家体制)を無視することになる。
では、教育勅語の原文と現代語訳を見てみる。
「教育勅語」 原文 敎育ニ關スル勅語 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ 明治二十三年十月三十日 御名御璽 現代語訳 私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。 明治二十三年十月三十日 |
確かに一見すると、「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい」と「人類普遍」の徳目を書き連ねている。
だが、その前提は「我が国民は忠義と孝行を尽くし」と、天皇(=国家)と親を上に置いた天皇(=国家)への「忠義」と、親への「孝行」を求める、上下関係の中での徳目の数々となっている。
親への孝行は上の天皇(=国家)への奉仕の段階に進ませるためのステップに過ぎない。
これが天皇独裁体制に国民を取り込む目的を持たせた教育の理念でなくで何であろう。
再度指摘することになるが、教育勅語はこういった天皇独裁体制への国民の取り込みを構造としている。
この天皇独裁体制への国民の取り込みの意志が最も強烈に現れている個所が次の文言である。
〈もし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。〉
このような天皇、あるいは皇室への国民に対する奉仕要求は天皇(=国家)と国民との間に絶対的な上下関係なくして可能とはならない。
この上下関係は北朝鮮のキム三代と北朝鮮国民の関係性と左程変わらない。
こういった絶対的な上下関係が上の天皇(=国家)をして下の国民に対して天皇独裁体制に取り込む力学を自ずと生むことになる。
要するに教育勅語は 天皇(=国家)と国民との間の絶対的な上下関係のもとでの道徳の教えであり、このように 天皇(=国家)と国民を上下関係で規定した中での教育に関わる指導原理である以上、国民主権を規定し、第3章「国民の権利及び義務」第13三条で 個人としての尊重を謳い、第14条で 法の下の平等を謳っている日本国憲法に明らかに抵触することになる。
教育勅語自体が憲法に違反する精神を宿している以上、稲田朋美が「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持しているところでございます」と言おうと、文科省の松野博一が「憲法や教育基本法に反しないように配慮して授業に活用することは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものであり、教師に一定の裁量が認められる」と言おうと、あるいは安倍内閣が「学校において、教育に関する勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であると考えているが、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」と政府答弁書を決定しようと、浅はかな牽強付会の類いに過ぎない。
このような牽強付会を侵してしまうのは戦前日本の形を少しでも取り戻したい思いが強いからだろう。
教育勅語の中の道徳観、道徳の教えだけを取り上げて人類普遍の価値観を言い立てること自体が間違っている。