稲田朋美は教育勅語の正体を知らずにその徳目で「高い倫理観と道徳心」を国民性としたいと欲する滑稽な願望

2017-04-14 12:00:06 | Weblog

 右翼女子(右翼オバサン?)である防衛相の稲田朋美が2017年4月11日の防衛省での「記者会見」で、教育勅語に書いてある道徳の教えに基づいて「高い倫理観と道徳心で世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指したい」と発言したというマスコミ報道に触れて、防衛省サイトにアクセスしてみた。   

 関係個所の発言だけを挙げてみる。

 記者「話題変わりますけれども、教育勅語についてお伺いしたいのですけれども、教育勅語の内容で、理念があるという議論ですが、あるいはそういう意見が取上げられることについて、大臣は今までもお考えを示しておられますが、現時点でのお考えを改めてお願いします」

 稲田朋美「現時点でのというか、一貫して申し上げているとおり、教育勅語の学校における具体的な教育方法というか、取上げ方に関しては、防衛大臣としての所管ではありませんので、お答えは差し控えたいというふうに思います」

 記者「政治家としてはいかがでしょうか」

 稲田朋美「私も国会で申し上げてきたとおりではありますが、私自身は、今、安倍内閣の防衛大臣として答弁もしておりますので、その方針に従って行動するということに尽きるということでございます」

 記者「教育勅語の取上げ方で、大臣が今まで答弁されてきた中で、親孝行であるとか、そういった部分は、教育勅語を用いて使うこともというような議論もあったと思うのですが、なぜ教育勅語を使わなければならないのかと、野党とかは言っていたりするわけですけれども、その辺りいかがでしょうか」

 稲田朋美「私は今まで、どのように教育の現場で使われるべきかということを申し上げていたわけではないつもりなのです。私自身、防衛大臣で、教育内容、また、教育方法について何か申し上げる立場にはありません。ただ、個人的な見解というか、過去の私の、もう11年も前のインタビューを取上げて質問されましたので、私自身としては、親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係とか、そういう現代でも通用するような価値観というものはあると、すなわち、不易と流行という意味があるということを申し上げておりましたが、一方で、学校において、この教育勅語をわが国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であるということも申し上げてきたところでございます」

 記者「核の部分は取り戻すべきだという御発言をインタビューでされていらっしゃると思うのですけれども、核の部分というのはどういったものですか」

 稲田朋美「それも結局、教育基本法というよりも、親孝行ですとか日本らしさですね、家族を大切にするとか、あと私の持論であるところの、日本は単に経済大国を目指すのではなくて世界中から尊敬される高い倫理観と道徳心で世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指しましょうということを今まで申し上げてきたので、自分のそういう考え方を申し上げましたけれども、しかしながら教育勅語をどのように教育現場の中で取扱うかというのは、防衛大臣の所管でもありませんし、教育勅語を唯一の教育方針として取扱うということは不適切であるというふうに考えております」

 記者「それを取戻すために教育勅語を補助的に講義等で使うことについては教育現場の判断ですか」

 稲田朋美「ですから教育現場で教育内容、教育方針、教育における取扱いは私の所管ではありませんので、お答えする立場にはないということを申し上げているわけです」

 記者「それでは今大臣が現在でも通用する価値観があるというように仰いましたけども、正確な文言は覚えていませんが、一旦事があれば天皇のために命を投げ出せという部分は現在でも通用する価値観と考えますか」

 稲田朋美「そのようには思っておりません」

 記者「自衛官にそのようなことを求めますか」

 稲田朋美「求めません」

 記者会見はここで終わっている。

 2005年9月の衆院選での初当選以来11年間、何回かの選挙を勝ち抜き、大物政治家にのし上がるについてはそれなりのカネ集めの奔走、集めたカネの有効な配分等々、その時々に応じた知恵を使って来たはずで、いわば生真面目一方であったり、几帳面一方であったり、あるいは正直一方では生きにくい政治の世界を着実に泳ぎ渡って顔を一つも二つも浮かすためには海千山千の強(したた)かな一面、あるいは錬金術に長けた一面を否応もなしに身に着けさせられているはずである。

 そのような政治家の境遇にありながら、いわば稲田朋美自身が「高い倫理観と道徳心」を常に表現しているわけではない、表現できるわけでもない政治家でありながら、そのような厳格な規律を国民性として求めて、世界から尊敬される国を目指したいと言う。

 尤もこのような発言は以前も口にしていて、特に奇異に感じたことはこの「高い倫理観と道徳心」を教育勅語に結びつけていることである。2017年3月10日の当「ブログ」で同じく稲田朋美の教育勅語に関わる国会答弁を取り上げているが、〈戦前の日本は大日本帝国憲法で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定して天皇絶対制を採っていた。いわば天皇主権であって、国民に主権はなかった。〉と書き、そのような絶対的存在の主権者である天皇が国民にかくあれと親孝行や兄弟愛や夫婦愛といった善良な関係性を求めて、そのような個々の関係性の上に良き国民であることを期待し、最終的に、〈一旦緩急アレバ義勇公(こうニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。是ノ如キハ独リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰)スルニ足ラン。〉と、一旦差し迫った事態(=緩急)が起きたなら、国家(=公)と天皇に仕えなさい、奉仕しなさいと教えているのだから、そのような国民を育て上げて国を統治しやすくする国民統治装置に他ならないといった趣旨のことを書いた。  

 いわば〈爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵(したが)ヒ〉と言っている高い規律性は国民をそのように飼い慣らして国を統治しやすくするための徳目に過ぎない。

 大体が考える力を基本に置かずに徳目だけを並べ立てて、ああしなさい、こうしなさいと言って言うことを聞かせようとするのは、いわば考える力学を通さないままの要求なのだから、国家権力側の人間にとって都合のいい、言われたことだけをする型にはまった国民になることを期待しているからに他ならない。

 天皇や国にとって言うことを聞くだけの人間程、国家統治上、好都合な存在はないはずである。

 稲田朋美自身が「高い倫理観と道徳心」を常に表現しているわけではない、表現できるわけでもない政治家であることの一例として2016年10月6日の参議院予算委員会で共産党の小池晃議員が取り上げた安倍内閣閣僚の防衛相稲田朋美、官房長官菅義偉、総務相の高市早苗等が政治資金パーテイに出席した際、パーティ主催者側に白紙領収書を発行させていたことを挙げることができる。

 白紙の領収を出させて、後でそこに自分たちの都合のいい日付と金額と但し書きを記入する。

 稲田朋美は、出席者が多数で、主催者側が手際のよい領収書発行に対応しきれないために白紙領収書を発行する習慣になっていて、いわば「政治資金パーティーの主催者側のご都合により主催者側の権限に於いて発行された領収書に対し、主催者側の了解のもとで稲田側に於いて未記載の部分の日付・宛名・金額を正確に記載したものであります」と答弁しているが、タテマエはそうであっても、如何ようにも自分の都合に合わせることができる。

 「高い倫理観と道徳心」を言うなら、日付も宛名も金額も自由に書き換えることができると人に疑われる可能性を全て潰した行動を取るべく自身を厳しく律しなければならないはずだ。

 だが、そういった慣習になっているからと、慣習に名を借りて、誤魔化すことのできる可能性を排除した毅然とした行動を取ることができない。

 にも関わらず、「高い倫理観と道徳心」を言う。身の程知らずな滑稽な願望に過ぎない。

 稲田朋美は教育勅語には「私自身としては、親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係とか、そういう現代でも通用するような価値観」というもがあって、これは「不易」(時代を通じて変わらない、不変の価値観)であって、「流行」(時代や世相に応じて変化する価値観)ではないと言っているが、「親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係」は不変の価値観として求めるべき人間性ではあっても、絶対的存在であり、主権者である天皇が満足に基本的人権を認めていない国民に対して理想の国民像として求めている「親孝行」であり、「夫婦仲」であり、「友達との信頼関係」等々の徳目なのだから、この関係性から言うと、第一義的には天皇にとって価値ある徳目の数々に相当することになる。

 だからこその国民統治装置なのである。

 「天皇陛下のために、お国のために」と天皇や国家を絶対とするために国民に満足に基本的人権を与えずに尚且つ数々の徳目を身に付けさせようとしているのだから、天皇や国家にとって国民を無害な言いなりの存在へと飼い慣らそうとする体のよい天皇の言葉以外の何ものでもない。

 このような構造を有しているのだから、教育勅語と切り離さずに「親孝行とか夫婦仲良くとか友達との信頼関係とか」の徳目だけを取り上げて、そのような徳目を国会答弁で「教育勅語の核の部分」だと言うのは教育勅語が天皇や国家にとって都合のいい国民統治装置となっている、その正体に気づかない無知に過ぎない。

 この無知は天皇を無誤謬の絶対的存在としたい衝動から来ている無知であろう。

 稲田朋美は教育勅語の各徳目を「現代でも通用する」「不易」の価値観とすることで教育勅語そのものを「不易」の価値観に価値づけようとしている。

 そしてそのような国民統治装置の道具としている徳目によって自分自身が表現しているわけでもない「世界中から尊敬される高い倫理観と道徳心」を育み、「世界中から尊敬されて、また頼りにされるようなそんな国を目指したい」と言う。

 稲田朋美自身が気づかないままに教育勅語を使って国民を無害な存在として飼い慣らし、統治したい願望を密かに抱えているようだ。

 


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